二条城は超画期的だった!? 六角親子を倒し、浅井長政に裏切られるまで

結局、信長は岐阜城に戻り、改めて上洛の戦略を立て直しました。

そして早くも翌9月に動きます。

足利将軍家好みの諸大名を参陣させてド派手に上洛する演出はあきらめ、信長得意の戦略に切り替え。自らの手勢と同盟軍で上洛を強行し、南近江から洛中までの敵を力攻めで突破することにしたのです。

信長はこのとき初めて徳川家康に援軍を要請しました。これにより清須同盟は背中合わせの相互不可侵同盟から、完全な軍事同盟に深化。この変革は、織田家のもう一つの同盟国・浅井家が信長を裏切った理由を理解する上で重要ですが、これはまた後ほど。

家康が派兵した徳川の軍勢に浅井家の軍勢、そして信長自身の軍勢に北伊勢の軍勢も加え、「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう 六角家」と言わんばかりに南近江の六角家に侵攻するのです。

 

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名門・六角家 わずか2日で滅亡って……

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観音寺城付近も内湖が安土山まで迫っていました/©2015Google,ZENRIN

 

信長は佐和山城の南方、現在の彦根市の今宮に陣を構えます。

南近江への進軍を知った六角承禎(義賢)・義治父子は、防衛ラインを愛知(えち)川に設定して、愛知川沿いの最前線・和田山城に兵を入れます。

六角家の防衛戦略は、基本的に三段構えで、それは以下の通りです。

①愛知川を最前線に和田山城で敵の進撃を食い止める
②六角本隊は後詰めとして観音寺城に備える
③観音寺城に隣接する箕作城(みのつくりじょう)にも兵を入れて、万が一、敵が防衛ラインを突破した場合は、各城がそれぞれ敵兵をひきつけ、敵戦力を分散させて、攻撃力を削ぐ

この六角家の戦略は近江国内の領主を相手にするには有効でした。

近江は小領主の連合体のような国でしたので、個々の領主(国人)たちは、数カ所の城を同時に落とすほどの兵力を持ち合わせていませんし、仮に連合してもそこまでの大兵力にはなりえません。

浅井家もそうですが、近江勢力は、いわゆる「一揆」と呼ばれる横で繋がった連合体なので、できるだけ攻撃目標を分散させれば各個撃破、もしくはその間に調略による敵兵力の切り崩しが容易だったのです。

 

規模の大きな浅井家の動員兵力をもってすれば、単独での観音寺城攻略は可能かもしれません。が、浅井家といえども原則は一揆のまとめ役に過ぎません。上意下達で動くカッチコチの軍団ではないので、傘下の武将が勝手に動いたり、裏切りのリスクは常にありました。

特に観音寺城は、石垣を多用した当時最先端の城郭でした。山一つを要塞化し、城内に町まで作るほどの規模。どれほどの規模かと申しますと、城の中心部には「桑実寺」という寺院があり、ここで亡命中の第12代将軍・足利義晴(義昭の父)が仮の幕府を開いていたほどです。

「観音寺騒動」で家臣の忠誠心が落ちるところまで落ちたとはいえ、今回も六角家は万全の戦略と城で敵を待ち構えておりました。

 


敵本陣へ一点集中! 親子は知らない、信長の得意戦術を

しかし今度の相手は信長です。

六角父子は、斉藤義龍や竹中半兵衛の対信長戦術をちょっとでも勉強しておくべきでした。

これまで信長の城と戦いを追ってきた我々にはお馴染みですが、信長の得意戦術は、機動力を生かして敵本陣への一点集中攻撃です。この必勝戦術に加えて信長は美濃を手に入れて、さらに大兵力の動員が可能になっておりました。

信長はもう桶狭間の戦いのように、他はもぬけの殻にして敵本陣に挑むというリスクを侵さずに、基本戦略を実行できるようになりました。

六角家得意の各城に兵力を分散させて待ち構える戦略は、対信長軍にとっては愚の骨頂、「お前はもう死んでいる」のです。

さらに信長は自らの得意戦術に、敵をあざむくための「詭道」をいくつか仕込みます。

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©2015Google,ZENRIN

基本的に敵国に攻め入るときは敵国境に近い領地を持っていたり、新参の軍勢を使うのがセオリーです。

今回のセオリーですと、新しく配下に加わった西美濃三人衆(安藤、稲葉、氏家)を先鋒にして、浅井家が援軍に付くという流れ。信長はこの西美濃三人衆を和田山城の包囲に差し向けました。

この信長の用兵を六角側から見ると、和田山城包囲に来たのは美濃衆=「予想通り、最前線の城に信長軍の先鋒現る」となります。

ところが信長公記には、この六角攻めに際し、西美濃三人衆が「自分たちが先鋒で駆り出されるだろうと考えていたのに声がかからなかったのは不思議だ」と述べていたと記されています。

このコメントから、西美濃三人衆は先鋒ではない。すなわち先鋒でない西美濃三人衆による和田山城攻撃=和田山城は信長の第一目標ではなかったことが分かります。

信長は最初から敵本陣・観音寺城攻撃を狙っていたのです。この観音寺城攻撃のメンバーに西美濃三人衆の名前がなかったので、信長公記にあるように西美濃三人衆は不思議に思ったのでしょう。

ここに信長の用兵術の発展を見ることができます。


 

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