織田信長が二条城(二条御所)を建てた理由/wikipediaより引用

織田信長/wikipediaより引用

織田家

なぜ信長は義昭のため二条城を建てたのか~そもそも京都に城が無い理由とは

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なぜ信長は義昭のため二条城(二条御所)を建てたのか?
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浅井家、もう付いていけないってよ

明けて永禄13年(1570年)3月に信長は上洛します。

この年4月には年号が「元亀」に変更。

信長が頑なに反対していましたが、義昭が強行しました。

この頃から自信を取り戻した義昭が、よく言えば「自立」、悪く言えば勝手に行動を起こし始めます。

それはさておき、この時、信長は諸国の大名に声を掛け、上洛を促します。

飛騨の姉小路中納言(三木自綱)、伊勢の北畠具教、三河の徳川家康、河内の畠山昭高と三好義継、大和の松永久秀、そのほか、山名、一色、京極など、多数集まりました。

しかしこれは踏み絵のようなもの。

上洛に応じなかった朝倉義景に対して信長は「俺様を無視するのはこれでもう二回目だな。成敗してやる」と次の標的に定めます。

信長は、宮中にも参内して天皇に朝倉追討の許可を得ています。

朝倉義景/wikipediaより引用

この時の大義名分は若狭の武藤友益征伐です。

武藤友益は若狭の守護・武田元明の家臣で、当時の若狭武田家は長年に渡る朝倉家の若狭国への介入の結果、当主の武田元明が越前に拉致されて、完全に朝倉家の従属下に置かれていました。

これに反発する若狭の勢力が反朝倉派となり、信長に援軍を求めていたのです。

信長は彼らを若狭衆と呼んで重用しました。

朝倉家支配の詰めの甘さが結局、信長を若狭に呼び込む口実を与えてしまったのです。

朝倉家は、若狭を従属させているからには、若狭がピンチになれば後詰めの兵を出さなくてはいけません。

一方、信長は若狭衆の手引きもあって若狭を平らげ、敦賀の要衝・天筒山城(てづつやまじょう)も力攻めで攻略します。

次いで天筒山城の尾根伝いに造られた朝倉家の出城「金ヶ崎城(かねがさきじょう)」を攻撃しようとしたときには、既に城主の朝倉景恒は逃げていました。

この後、信長はいつもの戦略で敵の本陣「越前の一乗谷」まで一気に攻め上がって制圧する予定でした。

しかし、です。ここで信じがたい一報が入ります。

浅井長政が裏切った――。

信長は当初「うそだろ……あんな小心者に裏切る気概があるはずない」と信じませんでした。

しかし、確実だという情報を得ると、全速力で京に撤退することに決めます。

 


対等の同盟が いつしか家臣扱いされ

一体全体、浅井家に何が起こったのか。

ICHIメーターは「6」で止まっておりましたので、少し遡ってこの裏切りまでの間に起こったことを見ていきましょう。

浅井家は元々、北近江守護の京極家の被官でした。

が、北近江国人衆の裁判などをうまくまとめる利害関係の調整役として台頭、京極家の没落と取って代わるように北近江を代表する大名になったことは以下の記事で紹介しました。

浅井長政が織田信長を裏切った理由
信長はなぜ浅井に裏切られたのか?近江の複雑な国衆事情に注目だ

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越前朝倉家と南近江六角家という名門の大国同士の間でバランスを取りながら両国経営を安定化させ、国を豊かにする国家戦略をとっていたのです。

ところが織田信長の登場により、地域のパワーバランスが崩れ、六角家は滅亡。

幸い織田家とは友好的な関係にあるので、北近江を侵食されることはありませんでしたが、信長は将軍義昭を擁し、南近江を超えて突っ走り、摂津や河内、播磨近辺まで治めました。

信長は「天下布武」の印判を使用したように、天下の政権運営にのめり込んでいきます。

「天下布武」印が押された織田信長の禁制/wikipediaより引用

この間、浅井家は信長の戦いに援軍を出したり、二条城や内裏の造営にも力を貸しています。

北近江外に流出していく絶え間ない出費にICHIメーターはいつのまにか「7」を示していました。

そもそも同盟を結んだ当時は、婚姻政策に基づく対等な関係だったはずです。

それが気がつけば足利将軍家への奉公といいながら、実質、織田家の家臣扱いをされているのです。

この実質的な従属状態を最大限に利用したのが徳川家康ですが、浅井久政・長政父子およびその家臣団である北近江国人衆たちは受け入れることができません。

ICHIメーターは「8」へ。もはや危険水域です。

信長が、浅井長政のことを小心者だと評していたという記録が残っています。

おそらく自分が伊勢などの制圧に向かっている間、羨むほどの強兵と優秀な武将を持ちながら他国(越前や若狭)にも介入せず、北近江から全く動かなかったことを軽く批判したのでしょう。

同時期に、三河と遠江を制した徳川家康が、ついに武田信玄との対決を始めたことと比べると、長政の姿勢はまるで対照的です。

徳川家康/wikipediaより引用

しかし、いくら信長がどう思おうが、浅井家の国家戦略に「朝倉家と戦う選択肢」など全くありません。

当然、その従属国である若狭に侵攻する理由も皆無。

信長が、侵攻しない浅井家を軽く見れば見るほど、浅井家の中で沸々とたぎる怒りや焦りのはけ口はすべて織田家に返ってくるのです。

これをコントロールするのは至難のワザでしょう。

国人衆の連合組織、一揆の盟主でしかない浅井家にとって、独立心の強い国人衆の不満に同調しないことは「じゃあ頭領の座を降りていただこうか」と迫られ、自らの座を危うくしてしまうだけ。

国人衆から訴えられる数々の不満に、ついに浅井長政は耐えられなくなります。

「摂津とか京とか興味ねえから!」

「領国を豊かにする方が先だろ!」

「信長?天下布武?知るか!」

「なにっ! ICHIメーターがまだ7だと? 9だ、今すぐ9にしろ!」

そして……。

「えっ? 朝倉さんが信長さんに攻められている?」

決定的な転機が訪れました。

織田家が朝倉家に侵攻し、浅井家では大きな転換点を迎えました。

離脱するならば、最後のチャンス――浅井家は、ここで動かないと北近江の頭領の座すら危ういと判断したのでしょう。

朝倉家が滅んでしまっては、完全に緩衝地帯としてのパワーバランスがなくなってしまうばかりか、織田家の家臣となって、延々と外征を繰り返すことになります。

そしてICHIメーターはついに「10」となったのです。

浅井家は織田家を見限り、朝倉家の救援へ向かいました。

織田家の必勝戦略を間近で見てきた浅井長政にとっては、一直線に敵の本陣を突く織田の軍勢は、逆に背後を取られると脆いことを知っていました。

この辺りはさすがです。六角父子とは違って、竹中半兵衛など斎藤家の戦術も隣国だけに熟知していたのかもしれませんね。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150921-14

©2015Google,ZENRIN

 


逃げるときも抜群の機動力を生かす信長

しかし情けないのは朝倉義景です。

絶好の機会に本人は出陣せず、しかも結局、信長はおろか、有力な信長の家臣の一人も捕らえることができず、逃げれらてしまいました。

いわゆる【金ヶ崎の退き口】ですね。

信長は無事に京に到着したことを義昭に告げて、千草峠越えの伊勢経由で美濃に帰りました。

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南近江では、朝倉家の呼びかけに応じて甲賀地方に潜伏していた六角父子が軍勢を整えてゲリラ戦を準備。

このとき、信長が命じて、京への入り口を守るために築城していた「宇佐山城」が完成しています。

宇佐山城/wikipediaより引用

宇佐山城は琵琶湖方面から山中越えで京に至る道を城下に通して監視させるという、陣城のような性格を持った城。

陣城じゃないかと思うかもしれませんが、宇佐山城の山頂近くには石垣を巡らせた恒久的な城となっています。

小牧山城のように山頂地近くにまで石垣が配されていたので、道行く者を威圧するためではないかと言われています。

また琵琶湖方面からも遠望できるため、近江の国人衆に対しても威圧する城となります。

この宇佐山城にも虎口があったことが分かっています。

虎口の活用はかなり定着してきました。定着したということはすなわち防御設備として有効だということです。

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©2015Google,ZENRIN

ご覧のように宇佐山城は、琵琶湖方面から京への交通を完全に支配下におくための城です。

伊勢や近江で関所を撤廃しまくった信長の政策とは全く対照的。

そもそもは不穏な動きをする六角ゲリラ対策で築城を開始しましたが、ここに来て対朝倉・浅井連合軍から京を守るための最重要拠点となりました。

信長はこの宇佐山城を猛将、森可成に守らせます。

森可成/wikipediaより引用

森可成は美濃の中濃攻略時に活躍。

金山城という東美濃、武田領に続く、常に武田の調略にさらされる地域を任せられた武将です。

つまり最も信長を裏切らない男、それが森可成であり、今回も最も重要な城に配置しました。

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続いて南近江の永原城には佐久間信盛、長光寺城には柴田勝家を入れます。

「瓶割り柴田」の逸話はこの城です。

また、旧安土城には中川重政、守山城には稲葉良通、貞通父子と斉藤利三を入れます。

千草峠付近では日野城の蒲生賢秀など信長派の南近江国人衆が案内。

しかし信長は杉崎善住坊というスナイパーに狙撃され負傷するなど、かなり危うい帰国となりました。

 

二条城の画期性や宇佐山城の重要度を伝えたい

この後、いよいよ【姉川の戦い】となりますが、随分長くなってしまいましたので続きは次回にしましょう。

今回は信長の城として、二条城と宇佐山城を紹介しました。

というかほとんど信長の城以外の紹介に終始してしまいましたが、信長の戦略や戦術、織田家を取り巻く環境が分かれば、

・二条城の画期性

・宇佐山城の重要度

が伝わると思い紹介しました。

特に洛外の城の変遷を知っているだけで、京都見物もまた違った見方ができるのではないでしょうか。

清水寺や銀閣寺を訪れて、裏山ばかりを見ている人がいれば、それは間違いなく城マニアです。

仏閣見物はほどほどに寺院の「構」の痕跡を求めて住宅地に迷い込む人がいれば、それは間違いなく城マニアです。

京都に行ったのに京都市街はスルーして、長岡京市や宇治市で勝竜寺城や槇島城を見て、宇佐山城を見るため滋賀県へ向かう人がいれば、それは間違いなく城マニアです。

皆様がその仲間入りをご希望とあらば、私は喜んで待つばかりであります。

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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