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【なぜ信長は義昭のため二条城(二条御所)を建てたのか?】
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事情を知らぬ尾張者に仕切られてたまるか!
三つ目はどうでしょうか。
畿内ではすでに足利将軍家と共に細川管領家も衰退。
その細川家阿波国(徳島県)の一被官でしかなかった三好家が細川家どころか将軍家も操り、国政を牛耳っています。
管領三家の一つであった河内の畠山家も内部分裂を起こし、領国を追放されたり戻ってきたりを繰り返しています。
斯波家はとっくに消えています。守護大名よりも家格が上の家でもこの有り様ですので、畿内では名門の没落は珍しくありませんでした。
しかし、南近江の頭領として長年君臨してきた六角家がいなくなると、国人衆には色々と不都合が生じます。
浅井家が北近江の小領主や村同士の裁判を仕切って北近江国人衆の信頼を勝ち取って頭領となったように、独立色の強い国人衆の争いを穏便に収めるには一本筋を通せる権力が必要なのです。
これが北近江の浅井家のように北近江出身で北近江の事情を知り尽くしている家ならまだいいです。
没落した京極家に対しても、一応儀礼上の守護領主として浅井家はリスペクトを絶やさず、小谷城内に「京極丸」を構えています。
しかし南近江の六角家は完全に観音寺城から放逐され、しかもやってきたのが尾張者の織田信長です。
わずか二日でやってきた男に南近江の複雑な事情が分かってたまるかと国人衆たちが思うのは当然です。出来の悪い頭領もウンザリしますが、名主が不在でも困るのです。
好きではないけど六角家に戻ってきてほしいという南近江国人衆勢力が一定数存在し、これらの勢力が六角家のゲリラ戦争に加担することになります。
ということで信長の南近江制圧に不都合を受け、押し戻しを画策する勢力とは、
・畿内の三好三人衆
・伊勢の北畠家
・越前の朝倉家
・南近江の国人衆
ということになります。
特に朝倉家は、領土の背後を固めるために国家戦略を根本的に変えるという厄介な作業を強いられます。
この変更作業もまたリストで挙げてみますと、
・一向一揆との和解
・緩衝地帯の構築の一環として若狭武田家の従属化の促進と、浅井家への「対話と圧力」の強化
・遠交近攻策として三好家や寺社などの畿内勢力と連携し、京都周辺での情報収集の強化
と多岐にわたって参ります。
そして、朝倉家の国家戦略変更によって浅井家にもその余波が波及。
板挟みの浅井家でICHIメーターは「5」に上がります。
「これが将軍様の威光というものか!!」信長軍、快進撃!
さて、南近江をあっさり制圧した信長ですが、目標はあくまで上洛、京への進軍です。
信長は安全が確保されたことを確認して、足利義昭を美濃から観音寺城内の桑実寺に迎えます。
ここは先ほども紹介しました通り、かつて義昭の父・義晴が仮の幕府を開いていた寺院です。
信長はさらに南下して京の洛中を目指します。
琵琶湖を渡って、西岸の「三井寺(みいでら)」に陣を張り、翌日、義昭も三井寺に到着。浅井長政も軍勢を率いて琵琶湖を渡ってまいりました。
次の日、信長は山城国に入って山科を越え、本陣を京の南方「東福寺」に移します。
ここまで拠点を一つずつ移りながら進軍しており、記録を追っていくだけでも織田方の緊張感が伝わってきますね。
それは同時に【三好三人衆がどこを対織田家の最前線に定めているのか】ということを信長たちがサッパリ掴めていないことも示しております。

信長は拠点を確保しながら慎重に軍を進めます/©2015Google,ZENRIN
しかし間もなく三好勢と遭遇!
彼らは東福寺の南西で、桂川を最前線にして待ち構えておりました。
拠点の「勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)」には、三好三人衆の一人、岩成友通(いわなりともみち)が近隣の土豪を結集して立て籠もっていました。
信長は、柴田勝家、森可成、蜂屋頼隆、坂井政尚を先鋒にして、桂川を越えます。
岩成勢も、城から軍勢を出して野戦となります。が、百戦錬磨の織田軍には勝てません。
そこで岩成友通は、籠城戦にチェンジ!
勝竜寺城周辺は起伏が少なく、細い河川が流入している平野にあります。
どこかで見たことのある地形ですね。そうです。尾張です。尾張で散々やってきた平城攻めなので、柴田勝家や森可成などにとって勝竜寺城攻略など造作も無かったでしょう。
たまらず岩成友通は城から逃亡しました。
勝竜寺城が落ち、摂津方面から京への入り口を確保することにも成功。この勝利を受けて義昭は「清水寺」に移っています。
この戦いで信長は、三好三人衆相手に「イケる」と確信したのでしょう。
翌日は山崎に着陣し、三好三人衆の一人、三好長逸(みよしながやす)の居城「芥川山城(あくたがわやまじょう)」に迫ります。
三好長逸は籠城戦を考えましたが、結局夜になって退散。
この後、畿内はなだれを打つように、西は越水城や滝山城まで信長の手に落ち、追いやられた三好勢は摂津や河内の諸城を放棄して本拠地の阿波へ逃がれて行きます。
ちなみに滝山城はJR新神戸駅の真裏の山にあります。新幹線乗り場からも見えます。
この城は、瀬戸内の水運物資が集まる神戸の港町「兵庫津(昔の大輪田の泊)」を支配下に置く目的で築城されました。
信長の時代になると、より兵庫津の町に近い場所に「兵庫城」を築城します。
城はそもそも防御の拠点なので、その地域で最も「要害を構えて侵されない」場所に築城されるのですが、信長は商業利権を支配することも重視していましたので、商業地に隣接するように築城して、あわよくば城下町に取り込むことを熱心に考えていました。
これは岐阜城や安土城のコンセプトが生かされています。
信長が相撲大会を催したことで有名な近江の「常楽寺」は近江商人で賑わう琵琶湖畔の商業地にありましたが、この町を取り込むようにして安土城が築城されます。
安土よりも大きくて要害堅固な観音寺城が真横にあるにも関わらず、わざわざ琵琶湖畔に近い安土山に築城したのはこのような背景がありました。
話を信長の上洛へ戻しましょう。
金融業で裕福だった池田家は装備も充実しており信長にも抵抗
信長は摂津の西端までわずか数日で支配下に治めてしまいました。
京都を手中にしてからの足利将軍家の威光は、信長も義昭も予想外の成果だったでしょう。
結局、最後まで抵抗を見せたのは、摂津・池田城の池田勝正だけでした。
池田城は現在の伊丹空港から見て北にある「五月山」の麓にありました。
摂津池田家は金融業で成功して裕福だったようで、この時代では最も装備が整った軍団を持っていたことがルイス・フロイスの記録に残っています。
というわけで池田勝正には自信があったのでしょう。織田方に対して激しく抵抗します。
しかし、後詰が期待できない状態では勝ち目などゼロ。
結局、池田勝正は、激しく抵抗したことは水に流され、逆にその実力と集金力を買われ、信長に許されて池田城も安堵されます。
それと同時に池田勝正は、信長・義昭政権で摂津守護の一人にも任命され、金ヶ崎の退却戦などでも活躍します。
他にも摂津守護には和田惟政、伊丹親興が任命されており「摂津三守護」と呼ばれました。
しかし後に信長と義昭が決裂したとき、池田家家臣だったにも関わらず主君の家を乗っ取った荒木村重やキリシタンで有名な高山友照(右近)、中川清秀などの信長派の武将に摂津を奪われてしまいます。

畿内はすべて信長の支配下に/©2015Google,ZENRIN
三好勢力を一掃して畿内の制圧が一段落した信長と義昭は、陣を置く芥川山城で、各地から集まってきた支持者やお近づきになりたい国人や僧侶、商人などの歓待を受けます。
大和国で孤立していて九死に一生を得た松永久秀もやって来て、茶器の大名物「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上、大和一国を安堵されます。
信長は芥川山城で一通り畿内の有力者たちとの面会を終えた後、いよいよ足利義昭を奉じて上洛も果たしました。
と、ここまで信長と義昭の摂津の戦いを見てきましたが、一つ疑問が湧いてきません?
なぜ信長と義昭は、洛中の将軍御所にさっさと入らないのか。
いつまでも清水寺や芥川山城に滞在していたのか。
その答えを明らかにする前に【京の都の仕組み】について詳しく見ておきましょう。
洛中、浮世離れし過ぎて城がない問題
京の都は洛中と洛外に分かれています。
天皇の御所や足利将軍家の御殿「室町殿」、管領細川家の「細川殿」などVIPの館があるのが京の中心地「洛中」です(ちなみに「殿」とは「大きくて立派な建物」という建物を指す言葉)。
この洛中を取り巻く外縁で、寺院や京の町が集まるところが洛外です。
では「どこまでが洛中か?」と問われると、この時代に分かりやすい目印はありません。
後年、秀吉が洛中を囲った「御土居(おどい・京都を囲む土塁)」は洛中と洛外を明確に区別しましたが、室町時代までは、どこまで課税したかで(棟別銭)、洛中と洛外に分けていたといわれています。
室町時代の成立以後、洛中ではどんなに戦乱に巻き込まれても御殿が城郭化されることはありませんでした。
足利将軍家の居館の「室町殿」は、まるで高貴な公家の館。

『洛中洛外図屏風』に描かれた花の御所こと室町殿/wikipediaより引用
上記のように城郭の要素は一つもありません。
一応、堀と塀はありますが、こんなものでは大軍から守れません。
戦乱が起きると臨時の櫓などが設置されるケースはあったそうですが、応仁の乱を経ても「室町殿」を始め、武士の館もほぼ非武装という状態が続いていたのです。
なぜ日本一のセレブで、超VIPの足利将軍家が丸裸の館にいたのか?
その理由は『そもそも城とは何ぞや?』ということを考えると分かります。
城の定義は「要害を構えて侵されない」ことです。
そして城を構える行動を起こすということは、自分の安全を危うくする者の存在を認知していることになります。
わかりやすく言うと、朝廷や足利将軍家など、国家の中心に君臨する者には、この「自らが攻撃を受ける」という思想がそもそもないのです。
自分を攻撃する者の存在を認めることは、反対者の存在を受け入れ、自らの正統性を否定することになります。
よって将軍家が「城を構えて」しまうと、世の中に自分への反対者の存在を認め、正統性を自ら否定する行為になってしまう。
いやぁ、面倒くさい思考ですよね。
私のような下々の人間にはわかりにくいですが、これが応仁の乱を経ても洛中に城郭が築かれなかった理由です。
義昭がなかなか洛中に入らなかった理由は、この洛中の防衛機能が伝統的に弱い、というか防衛の概念が洛中にはそもそも存在しなかったので、摂津方面も含めて広範囲に安全が確保されるまでは危なくて洛中に入れなかったからです。
洛外、マッドマックスな世界が「城」を育てる
では「洛外」はどうだったのか?
これが洛中とは真逆で、マッドマックスな無法地帯です。
洛外には寺院や町が集まっており、各寺院は、貴族や武家から奉納された各種のお宝や土地代から上がる莫大な銭(銭と書くと一気にいやらしくなりますね)を抱えています。
また、洛中や寺院に向けての商業地もありました。
しかし応仁の乱以後、荒れに荒れて、幕府が治安維持を放ったらかしにした結果、盗賊や徳政一揆がはびこり、寺院や町といえども自衛のために武士を雇ったり、自前の僧兵を組織して、自ら安全を維持せねばならなくなったのです。
その結果が、寺院や町の城郭化です。
修学旅行で定番の観光地、清水寺や東寺なども、長年に渡るマッドマックスな世界にさらされた結果、寺の敷地も「要害を構えて侵されない」造りに変化しておりました。
洛外の寺院の要塞化の過程で生まれた代表的なものに「構(かまえ)」と「釘貫門(くぎぬきもん)」があります。
「構(かまえ)」は後年、小田原城の巨大な「惣構(そうがまえ)」などで知られますが、寺院やそれを取り巻く町ごと堀と塀で囲んでしまうというものです。
大坂、石山に移る前の本願寺の拠点「山科本願寺」はこの巨大な構「惣構」で有名です。
構を設置することで、自らの防衛圏を明確に定め、これを越える者は侵入者として攻撃を加えるという境界になります。
しかし四方を常に囲んでいる状態では生活できません。通常は人の往来を可能にするために門を設置します。これが「釘貫門」です。
釘貫門とは漢字の「廿」の形をした門です。
両脇に二本の柱を立てて、横穴(釘貫)に横木を一本通し、両開きの門扉を設置します。
後に横木の上に屋根が付いて「冠木門」や、現代でも寺院や城でよく見る「薬医門」に発展していきます。これはもともと洛外の野盗対策だったんですね。

釘貫門/wikipediaより引用
写真は江戸城外郭に架かる「昌平橋」で、左方に見えるのが釘貫門です。
内側に開く門扉が付いているのも見えますね。明治初期の写真ですが、この時代でも普通に活用されていた汎用性の高い門です。
また、当時の洛外の寺院の絵図を見ていくと門の先には番所が備えられていたり、塀には弓矢を打つための「狭間(さま)」が描かれています。
さらに寺院や建物の隅には二階建ての櫓が設置され、弓矢を持って守備につく人物も描かれています。
信長や秀吉の時代に近世城郭が広まり、築城の技術革新が進んだとされますが、洛外には膨大な築城技術が寺院に蓄積されていたのです。
この技術が宗派のネットワークを通して全国の寺院に広まっていきました。
一向宗では北陸の技術が山科本願寺に逆輸入されるなど、技術の交流で寺院の築城技術はますます進歩していきました。
京都では城郭の発展は武家ではなく寺社勢力が担っていたというのも面白いですね。
京都の防衛問題 どこで守ればええのんか?
洛外には将軍自ら築城した城もあります。
室町時代も末期になると細川晴元や三好長慶、その他様々な有象無象が傀儡の将軍を擁立します。
第12代将軍・足利義晴やその息子・足利義輝の時代になると、将軍家が都からあっさり追放されたり、将軍自ら洛中を放棄して逃げたりしていますので、足利将軍家といえども安全は自ら確保しなければならない事態に陥ります。
事ここに至り、将軍も要害を構える必要性に迫られたのです。
ちなみに剣豪将軍としても有名な第13代将軍・足利義輝は、多くの城を築いています。
父・義晴と共に洛外の東山、銀閣寺の裏山に「中尾城」を築城し、その後、清水寺の裏山に「霊山城(りょうぜんじょう)」、そして洛中に初めて城郭化された二条御所を作ったのも義輝です。
「霊山城」の麓の霊山護国神社は、坂本龍馬を始めとする維新の志士のお墓が集まる有名な観光スポットですが、城マニアなら足利義輝にも思いを馳せたいですね。

©2015Google,ZENRIN
将軍が築城したこれらの山城は、洛中防衛のために造られた外からの侵入者に備えた城でした。
しかし何度も三好勢の突破を許すという、城としてはイマイチ防御性能に劣りました。
これは、単純に「標高の高い場所に築城すること=要害を構えて侵されない城にはならない」ことを教えてくれます。
洛中の防衛のためには西は勝竜寺城、南は槇島城が機能しますが、近江方面からの防衛は長年の弱点でした。
信長の侵攻に対して三好三人衆が洛中を捨てて勝竜寺城まで後退したのも、近江方面には有効な防御拠点がなかったからです。
また、より標高の高い地点には比叡山の寺社勢力が支配していましたので、築城することはできません。
信長自身も近江方面の防衛に苦労します。
南近江を制圧したとはいえ、六角家がゲリラ活動を続けていますので、洛中に至る道はいつでも封鎖できるようにしなければなりません。
そこで信長は、山中で敵を待ち構えるのではなく、京都に至る峠よりもっと手前の地点で敵の進軍を阻むことを考えました。
それが宇佐山城です。
実際の築城はもう少し後になりますが、近江、坂本から京都方面に向けて山中越えに向かう場所に築城し進路を押さえました。
さらには京都に至る道を宇佐山城の真下を通るように造り替え、いつでも道路の封鎖ができるようにしたのです。
しかし、この「宇佐山城」も完璧な防御拠点にはなりえませんでした。
やはり、より標高の高い比叡山系とそこを支配する寺社勢力の存在がネックだったのです。
カネや土地は不要なれど、名物や鎧などは喜ぶ信長さん
摂津方面まで安全を確保すると、義昭はようやく洛中へ入りました。
信長は六条の「本圀寺(ほんこくじ)」に義昭を入れて御所にします。地名から「六条の御所」と呼びました。
現代のJR京都駅の北西、西本願寺とその北側の五条通りまでの土地をあわせた場所に当時の「本圀寺」がありました(今は山科に移転)。
一方、軍勢を引き連れた信長自身は、要塞「清水寺」へ。
足利義昭が無事に内裏で征夷大将軍に任命され、第15代将軍として正式に就任したのを見届けた信長は、2日後には早くも岐阜に向けて帰国の途に着きます。
義昭からは副将軍や管領の職をすすめられましたが、信長は頑なに辞退します。
信長にお近づきになりたい人たちが献金しようとしても「カネならある」と言って受け取らなかったり、土地を勧められても「欲しければ自分で取りに行く」と拒む。
その一方で茶入れなどの大名物や由緒ある鎧などの献上は喜んで受け取りました。私には理解できませんが、信長なりの線引きがあるのでしょう。
信長と共に上洛し、畿内制圧にもお供した浅井長政も、信長と同じ時期に小谷城に帰っていきました。

浅井長政/wikipediaより引用
すっかり信長に心酔してしまったのは長政だけではありません。
浅井家の有力な家臣たちもその実行力にすっかり魅せられてしまいます。
しかしこの間、北近江の留守を守っていた父の浅井久政とその取り巻きたちにとって、長政の行動は気が気ではありませんでした。
隣接する大国同士のはざまでバランスを取りながら生き残るのが浅井久政の構想する国家戦略でしたが、完全に一方(信長)に肩入れし過ぎています。
南近江はともかく、信長の畿内制圧まで同行することは、織田家との関係を強化するだけで北近江にとっては意味のない行動でした。
見ようによっては浅井家は信長の部下になってしまって、朝倉家にとっては北近江まで織田家に迫られた印象を与えてしまうのです。
浅井久政の嘆きと朝倉家の警戒のコンボで、ICHIメーターはついに「6」へ……。
ついに洛中に「城」が持ち込まれる!
畿内から後退を余儀なくされた三好三人衆は、年が明けて永禄12年(1569年)正月、信長の不在を突いて本圀寺の足利義昭を襲撃します。
彼らに躊躇はありません。
そもそも三好三人衆は第14代の足利義栄を推戴していましたので「義昭は正統ではない」という認識がある。
この本圀寺襲撃には、美濃から逃走中の斉藤龍興と、斉藤家の家老で中濃地域を信長に奪われた長井道利も加わっていました。
しかし足利将軍家の直臣たちと、駆けつけた摂津三守護たちの奮戦により、三好三人衆は撃退。
このとき、本圀寺を防衛した中に、明智光秀の名前が出てきます。

明智光秀/wikipediaより引用
光秀の出自や信長への出仕歴には諸説ありますが、この時期はまだ足利将軍家の直臣だったことは間違いないでしょう。
一方、岐阜城にいた信長は本圀寺襲撃の報せを受けて全速力で上洛。
大雪の中、当時、洛中まで3日かかる道程を2日で到着しました。
この義昭襲撃事件は、京のお城事情に大きな転換点をもたらします。救援に成功した信長は、義昭のために本格的な城郭を洛中に築城することを決心するのです。
それが「二条城」でした。
現在残る二条城は徳川期のものでまったくの別物。
信長が築城した二条城は現在の京都御所の西隣り、平安女学院の敷地になっています。
本能寺の変で織田信忠が立て籠もり、落城してしまったので、もはや遺構は残っていません。
この旧二条城は非常に画期的でした。
注目は、石垣と「だし」を伴う隅櫓、そして天主の存在です。
もう一つ重要ポイントがあります。これまで恒久的な要塞が築城されてこなかった城郭の真空地帯「洛中」に、初めて戦国の城が築かれたのです。
基本的に碁盤目状の洛中市街なので二条城はほぼ方形をしています。
平野部で方形の土地に「要害を構えて侵されない」城を造るのですから当時の城郭の知恵と技術をすべて注ぎ込まれます。
しかも撃退したとはいえ、まだまだ反撃の余力を残す三好三人衆などがガチで攻めてきますので、素早く工事を完了させなければなりません。
信長は尾張から播磨にかけて14カ国の大名に声をかけ、築城の分担をして、京都内外から数万人の人足が投入されました。
そして信長自らも現場に出て指揮をして、わずか70日で完成させるのです。

©2015Google,ZENRIN
残念ながら遺構はほとんど残っておりません。
なので当時の記述を辿るしかありませんが、二重の堀に、当時でも画期的な石垣を積み上げるという最新技術が投入されました。
二条城は一辺が400mくらいあったようなので、それだけの石を70日で山から集めて積み上げるのは至難のワザです。
そこで京都中から石仏や石塔などを集め、二条城の石垣に充てました。
これをもって「信長は罰当たりだ!やっぱり神を畏れぬ魔王だ!」と決めつけるのは早計です。
当時、石仏や石灯篭の転用は各地で行われていました。
もちろん人々が敬っている石仏を奪い取ってくるようなことはしません。治安を悪くするだけですからね。
戦国時代は主が行方不明になって廃寺になったり、戦乱から逃れるために郊外に移転してしまった廃墟の寺院が数多くありました。
そういったところから廃材として持ってきているのです。
石仏の利用は戦国のECOなリサイクルだったんですね。
また、城内の建物は本圀寺が「やめてくれ」と言っているにも関わらず移築しました。
このへんは多少強引ですが、本圀寺をそのままに残しても、反信長・義昭派の勢力が防衛拠点に使うと困りますので、本圀寺は丸裸にしておいた方が都合がいいのです。
また、二条城には「ダシ」を備えた隅櫓(すみやぐら)も設置されました。
隅櫓とは文字通り、縄張りの角に当たる場所に設置された見張り台の櫓です。
これを壁より少し前に出っ張らせることによって(「出し櫓」と言います)、壁に取り付いた敵兵を横から矢や鉄砲を撃ちかけることが可能になります。
このように平野でほぼ方形の二条城では、タテ、ヨコ、高さの三次元でどこからでも応戦が可能なように設計されました。
そして二条城の記述に初めて「天主」という名称が出てきます。
四方に巡らせた隅櫓の一つが一際立派だったのか、それとも城の中心に天主が置かれたのか、詳細は不明です。
しかし、わざわざ櫓と区別するくらいなので、平城では必須の「遠くを見渡せる」機能を持ち、同時に周囲を威圧する構造物だったことは間違いありません。
そして最後に信長からのプレゼントともいうべき当時、最新鋭の出入り口(門)である「虎口」が設置されました。
畿内では、特に洛外を中心に寺院が城郭技術を発展させていったと紹介しましたが、門に工夫はあっても平入り、すなわち「折れ」がなく一直線に出入りするものでした。
同じ時期に築城された細川藤孝の勝竜寺城も二条城と似た方形の縄張りだったのが分かっていますが、ここには折れを持った虎口が確認されています。
細川藤孝の上司である義昭の城にも同じような虎口が配されていたことは十分考えられます。
二条城では、さらに注目すべきことがあります。
意外かもしれませんが「庭」です。
信長はこれまで、小牧山城や岐阜城で、名デベロッパーにして名アーキテクトの才能を発揮してきました。
今回は名ガーデナー(造園家)としての才能を発揮します。
二条城に庭園のスペースを造り、池と小川、そして築山を造って豪華に飾り付けることを思いついた。
今は無人の管領・細川家の居館「細川殿」から有名な巨石「藤戸石」を、慈照寺(銀閣寺)からは名石「九山八海」を運ばせ、そのほか京都中の名石や名木を二条城の庭園に集めました。
また馬場に桜を植えて「桜の馬場」と風流な名称を付けるなど、二条城に様々なアートを施します。
隣接する天皇の御所(内裏)も、ひどく荒れ果てていたので信長が修築しました。
最後には名デベロッパーの血がたぎったのか、二条城近辺の土地を開放し、諸大名に邸宅を造らせ、二条城周辺の環境も同時に整備、将軍の居城に箔をつけさせるのですからお洒落というかなんというか。
この辺のセンスはさすがですよね~。
どんなに城が豪華でも荒地にポツンと建っているだけでは景観が寂しい。小牧山や岐阜で城下町ごとプロデュースした信長の真骨頂でしょう。
二条城の落成を見届けた信長は5月、岐阜城へ帰国。
永禄12年は本圀寺の襲撃から始まって、不穏な空気が流れましたが、結果的に洛中で堅固な二条城を完成させることになりました。
伊勢平定
信長はこの後、数年前からの懸案事項だった伊勢の北畠家の制圧に全力を注ぎます。
伊勢侵攻については、本題から離れるのでかなり省略します。

©2015Google,ZENRIN
松阪まで進んだ後は、南近江の戦い同様、機動力を生かして敵本陣に全軍で突撃。
伊勢の領主・北畠具教(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)父子の詰めの城「大河内城(おかわちじょう)」攻略にも全軍を投入しますが、さすがの名城でなかなか落ちません。
しかし機動力を発揮して短時間で攻め上がったために大河内城では籠城戦に備えることが出来ず、信長も隙間なく包囲したので、北畠側に餓死者が出ててきました。
最終的に信長二男の茶筅(ちゃせん)を北畠具教の娘の婿に迎え、後に家督を譲ることを条件に和睦しました。
いわゆるお家の乗っ取りですね。
茶筅は織田信雄として有名ですが、実はそう名乗ったのは本能寺の変後【清洲会議】あたりからです。
それまでは成人して北畠具豊(ともとよ)、家督相続後は北畠信意(のぶおき)を名乗っていました。
信意は北畠具教、具房父子とその側近たちを虐殺したり、勝手に伊賀攻めを始めて手痛い反撃を食らったり、いろいろヤラカシています。
小牧・長久手の戦いでの自由な振る舞いも有名ですね。
話を戻しましょう。
伊勢平定後、信長は伊勢国内の諸城を壊し、関所も撤廃します。
そしてその後、滝川一益と織田信包を押さえに置いて、自らは千草峠越えで上洛。
京に数日滞在し、義昭に伊勢平定の報告をして岐阜に帰国しました。
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