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【なぜ信長は義昭のため二条城(二条御所)を建てたのか?】
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第二の詭道 支城の箕作城を瞬時に落とす
信長は電撃的に敵本陣・観音寺城へ進撃するため、和田山城包囲に美濃衆を差し向けました。
『和田山城包囲に来たのは美濃衆。すなわち織田方の第一目標は、予想通り和田山城じゃい!』と六角家たちに思わせ、欺いたのです。
この間、信長方の「(本物の)先鋒」は、他の支城には目もくれず、敵本陣・観音寺城めがけて突進して行きます。
さらに信長はここで第二の「詭道」を仕込みます。
観音寺城付近で信長方先鋒であった柴田勝家、池田恒興、森可成などの進軍をストップさせ、観音寺城を包囲の隊形で待機させます。
そして最初の攻撃目標を観音寺城のお隣りの「箕作城」に変更します。
箕作城攻撃には、佐久間信盛、丹羽長秀、木下藤吉郎などの信長方に加えて、浅井家から浅井信澄(長政の従兄弟)、そして家康の援軍(小笠原・内藤)も一度に投入して、短時間で陥落させてしまいました。
突然の計画変更のようですが、これも計算していたと考えます。
信長公記によると箕作城の攻撃開始は16時頃の夕方です。
観音寺城付近へ夕方に到着したということは、観音寺城のような巨大城郭を落とすには敵地での夜営も視野に入れる時刻です。
他の城には一切目もくれず進軍してきたのですから、信長は最初から攻城開始時刻が予想できていたでしょう。
また、戦いの前に信長は自ら馬で戦場を偵察したことも伝えられています。
ゆえに観音寺城までの距離や城の規模は事前に分かっていたでしょう。
観音寺城がそう簡単に落ちない城であること。敵地での夜営や夜戦が必至なこと。諸々の事情を勘案した上で、陣地構築のため最初から攻撃対象は箕作城だったと考えられます。
ちなみに和田山城は、残された西美濃三人衆が奮戦して、箕作城とほぼ同時刻に陥落させます。
織田家に仕えて日が浅い三人衆の必死さと、何となく置いていかれたという虚しさを感じる攻城戦ですね。
THE頑固者・蒲生賢秀の直訴むなしく
このとき六角方の家臣で観音寺城で備えていた「蒲生賢秀」という頑固者で有名な武将がいました。
息子の蒲生氏郷が有名で、信長ファンでしたらご存知かもしれません。
蒲生賢秀は、信長の攻撃が箕作城に移った機をみて「箕作城に援軍を出すべきだ。私が観音寺城の包囲を突破して箕作城の援軍に向かいます!」と申し出ました。
しかし六角承禎は「箕作には強いヤツらを入れてるから大丈夫だ」と、あっさりこれを拒否。
この期に及んで後詰めもしないとか、ありえない判断をしたのです。
蒲生賢秀も「こりゃダメだわ」と思ったのでしょう。
「では領地を固めますんで」と自らの日野城に帰ってしまいました。
もともと六角家の家臣離れがハンパなかったとはいえ、頑固者といわれた蒲生賢秀さえもついに六角家へ見切りをつけてしまった。
ちなみに、この蒲生賢秀は、日野城に帰っても一切投降勧告に応じず、妻の実家である北伊勢の神戸家(この頃の神戸家は既に織田家の親戚)から「もう勘弁してくれ、神戸(かんべ)だけに……」という冗談はともかく、懇願により、ようやく織田家に投降しました。
そしてその後は、観音寺城で対峙していた柴田勝家の与力となり、安土城築城後は同城の留守居役となります。
留守を任せられるということは相当の信頼の証でしたし、人質として岐阜城に入った息子の蒲生氏郷も信長のお気に入りとなり、大出世を遂げますね。
閑話休題。
話を観音寺城攻めに戻しましょう。
六角親子は戦わずして逃亡!? わずか2日で南近江を制圧す
箕作城を落として本陣を確保した信長は、明くる日の観音寺城攻めに備えます。
ところがです。
これから死闘が待っているかもしれない――そう意気込んだ矢先の夜明け前、六角父子は突如観音寺城を自焼し、甲賀の奥地に逃げてしまったのです。
かくして信長は無人の観音寺城に入城、南近江の制圧をわずか2日で完了させてしまいました。
この時点で六角家滅亡と言い切ってしまうにはやや語弊があります。
なぜなら父子は観音寺城を捨てはしたものの、南近江・甲賀地方の石部城を拠点に、今後何年にもわたってチェ・ゲバラのようなゲリラ戦争に勤しむのです。
そして、ここでまたしても「ICHIメーター」が「3」に上がります。
六角家を滅亡させたことで浅井家を取り巻くパワーバランスが完全に揺らぎました。
美濃から南近江にかけて広大な地域が信長の支配下に入ります。
パワーバランスは一方から力が加わるとと、必ず押し戻そうとする力が働きます。
浅井家のような中小の領主(といっても浅井家は十分デカイですが)は、この押したり戻したりするバランスを利用してこそ生き残れるのです。
南近江のバランスが崩れ、さぁ、パワーゲームの開始です!
信長の強い押しによって偏った近江のパワーバランス。
これを一体誰が押し戻そうとするのか。
と、その答えの前に、南近江攻略により地域で起こった三つの大きな変化をマトメておきましょう。
一つ目:尾張から南近江までを支配する織田家の広大な国ができた(赤ピン)
二つ目:いつでも上洛可能な国を織田家が手に入れた(赤ピン)
三つ目:幕府末期の足利将軍家を支えてきた佐々木源氏の末裔・六角家がほぼ滅亡した(緑ピン)
※浅井家は青ピン
この3つの変化に不都合を感じる、もしくは実際に不都合を受ける者たちをリストアップすれば、それが「パワーバランスを押し戻す者たち」になります。
一つずつ見て参りましょう。
まず一つ目で不都合を感じる勢力は、織田家の領土と国境を接する国々の領主たちです。
同盟関係にある徳川と浅井を除けば、東は武田家、北は朝倉家、南は伊勢の北畠家や伊賀国の国人衆、そして京の都のある山城国と大和国より西の三好家。
大国と隣接している事態ほど緊張関係を生む要素はありません。
しかも美濃や南近江へ積極的に侵攻し、領土を拡大してきた織田家と隣り合っている状況です。
こんなシチュエーションで何の備えもしないなど、さすがにあり得ません。
徳川家のように背中合わせの相互不可侵同盟を信長と結んでいればいいのですが、そうでない国は背後を突かれる可能性が高くなります。
三好家や北畠家のように、織田家を正面に迎え撃つだけならまだ戦略が立てやすいです。
しかし、織田家の領土を背にして、全く違う方向で戦っている国にとって信長の領土拡張は特に脅威です。
この時点で信長に対して背中を向けて戦っているのは甲斐・信濃の武田家、大和の松永久秀、そして越前の朝倉家です。
武田家は早々に婚姻政策を結び、東美濃エリアを緩衝地帯化しているので、信長にとって喫緊の脅威ではない。
松永久秀は三好三人衆相手に大和で孤立していますが、信長とは尾張統一前から懇意にしており、織田家の進出はむしろ大歓迎。
ということで何かとマズいのは越前の朝倉家だけという状況でした。
彼らは信長と何の連携も同盟もなく、背後を無防備にして、北陸の一向一揆勢や、若狭、敦賀の武田家と戦っているのです。
若狭、敦賀方面では浅井家が緩衝地帯として一枚噛んでいますが、越前の東部は美濃の北部と国境が接しており、万が一、浅井家が完全に信長派となってしまえば、東西から越前を挟まれるカタチになります。
さすがにマズい 凡将義景でも対策するわ
これには当主の朝倉義景がいくら凡庸とはいえ、まずい事態だと分かります。
南近江攻め直前に足利義昭と信長が発した招集命令に応じなかったのも当然。
義景は信長の美濃攻略にあわせるように、これまでユルい従属関係にあった若狭の武田家を完全に属国化するため、当主の武田元明を越前に拉致して、軟禁状態に置きました。
浅井家のことをまだ信じているとはいえ、越前を両翼から挟まれるリスク回避のため、若狭を完全掌握する動きを早めたのです。
そんな朝倉家の激烈メッセージも、浅井家、特に浅井長政には伝わりません。
近江でパワーバランスを取る役割の浅井家が、外から織田家を招き入れて一方(六角家)を滅ぼしてしまったのですから。
朝倉家の若狭侵攻が気が気でない国人衆が反信長派になびいて、ICHIメーターも「4」に上がりました。
二つ目の不都合を受けるのは、現時点で京の洛中を押さえている勢力、すなわち畿内の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)でしょう。
どうしても戦国大名=京を目指すというイメージが先行してしまい、他の戦国大名が一斉に信長の上洛に反発するんじゃないかと考えてしまいがちですが、決してそのようなことはありません。
戦国大名でも、浅井家のように自国の安寧が第一な大名が大多数なのです。
一地方の小領主出身で、上洛して将軍の政に口を出そうと考えたのは、信長の前には三好長慶とその後継者一族の三好三人衆くらいでした。
なお、三好家の畿内支配は三好長慶によって果たされました。
彼の死後、後継ぎの三好義継を追放した三好三人衆と松永久秀によって畿内支配は何とか保たれましたが、将軍足利義輝を殺害したり、義昭には近江に逃げられたり、過激な三好三人衆の支配に不穏な空気が流れていました。
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