京都の防衛問題 どこで守ればええのんか?
室町時代も末期になると細川晴元や三好長慶、その他様々な有象無象が傀儡の将軍を擁立します。第12代将軍、足利義晴やその息子、義輝の時代になると、将軍家が都からあっさり追放されたり、将軍自ら洛中を放棄して逃げたりしていますので、足利将軍家といえども安全は自ら確保しなければならない事態に陥ります。
ここに至って将軍も要害を構える必要性に迫られたのです。
ちなみに剣豪将軍としても有名な第13代将軍足利義輝は、多くの城を築いています。父・義晴と共に洛外の東山、銀閣寺の裏山に「中尾城」を築城し、その後、清水寺の裏山に「霊山城(りょうぜんじょう)」、そして洛中に初めて城郭化された二条御所を作ったのも義輝です。
「霊山城」の麓の霊山護国神社は、坂本龍馬を始めとする維新の志士のお墓が集まる有名な観光スポットですが、城マニアなら足利義輝にも思いを馳せたいですね。
将軍が築城したこれらの山城は、洛中防衛のために造られた外からの侵入者に備えた城でした。
しかし何度も三好勢の突破を許すという、城としてはイマイチ防御性能に劣りました。
これは、単純に標高の高い場所に築城することが「要害を構えて侵されない」城にはならないことを教えてくれます。洛中の防衛のためには西は勝竜寺城、南は槇島城が機能しますが、近江方面からの防衛は長年の弱点でした。
信長の侵攻に対して三好三人衆が洛中を捨てて勝竜寺城まで後退したのも、近江方面には有効な防御拠点がなかったからです。
また、より標高の高い地点には比叡山の寺社勢力が支配していましたので、築城することはできません。
信長自身も近江方面の防衛に苦労します。南近江を制圧したとはいえ、六角家がゲリラ活動を続けていますので、洛中に至る道はいつでも封鎖できるようにしなければなりません。
そこで信長は、山中で敵を待ち構えるのではなく、京都に至る峠よりもっと手前の地点で敵の進軍を阻むことを考えました。
それが宇佐山城です。実際の築城はもう少し後になりますが、近江、坂本から京都方面に向けて山中越えに向かう場所に築城し進路を押さえました。さらには京都に至る道を宇佐山城の真下を通るように造り替え、いつでも道路の封鎖ができるようにしたのです。
しかし、この「宇佐山城」も完璧な防御拠点にはなりえませんでした。やはり、より標高の高い比叡山系とそこを支配する寺社勢力の存在がネックだったのです。※この宇佐山城の戦いは次回に
カネや土地は不要なれど、名物や鎧などは喜ぶ信長さん
摂津方面まで安全を確保すると、義昭はようやく洛中へ入りました。
信長は六条の「本圀寺(ほんこくじ)」に義昭を入れて御所にします。これを地名から「六条の御所」と呼びました。
現代のJR京都駅の北西、西本願寺とその北側の五条通りまでの土地をあわせた場所に当時の「本圀寺」がありました(今は山科に移転)。一方、軍勢を引き連れた信長自身は、要塞「清水寺」へ。
足利義昭が無事に内裏で征夷大将軍に任命され、第15代将軍として正式に就任したのを見届けた信長は、2日後には早くも岐阜に向けて帰国の途に着きます。
義昭からは副将軍や管領の職をすすめられましたが、信長は頑なに辞退します。信長にお近づきになりたい人たちが献金しようとしても「カネならある」と言って受け取らなかったり、土地を勧められても「欲しければ自分で取りに行く」と拒み、一方で茶入れなどの大名物や由緒ある鎧などの献上は喜んで受け取りました。理由は私にはわかりませんw
信長と共に上洛し、畿内制圧にもお供した浅井長政も、信長と同じ時期に小谷城に帰っていきました。
すっかり信長に心酔してしまったのは長政だけではありません。浅井家の有力な家臣たちもその実行力にすっかり魅せられてしまいます。
しかしこの間、北近江の留守を守っていた父の浅井久政とその取り巻きたちにとって、長政の行動は気が気ではありませんでした。隣接する大国同士のはざまでバランスを取りながら生き残るのが浅井久政の構想する国家戦略でしたが、完全に一方(信長)に肩入れし過ぎています。
南近江はともかく、信長の畿内制圧まで同行することは、織田家との関係を強化するだけで北近江にとっては意味のない行動でした。見ようによっては浅井家は信長の部下になってしまって、朝倉家にとっては北近江まで織田家に迫られた印象を与えてしまいました。
浅井久政の嘆きと朝倉家の警戒のコンボで、ICHIメーターがついに「6」になりました。
ついに洛中に「城」が持ち込まれる!
畿内から後退を余儀なくされた三好三人衆は、年が明けて永禄12年(1569年)正月、信長の不在を突いて本圀寺の足利義昭を襲撃します。
すでに第13代将軍、足利義輝を殺害済みの三好三人衆にとって、将軍を襲うことにためらいはありません。そもそも三好三人衆は第14代の足利義栄を推戴していましたので、義昭は正統でないとの認識があります。
この本圀寺襲撃には、美濃から逃走中の斉藤龍興と斉藤家の家老で中濃地域を信長に奪われた長井道利も加わっていました。
しかし足利将軍家の直臣たちと、駆けつけた摂津三守護たちの奮戦により、三好三人衆は撃退されます。
この時の本圀寺を防衛した中に、明智光秀の名前が出てきます。光秀の出自や信長への出仕歴には諸説ありますが、この時期はまだ足利将軍家の直臣だったことは間違いないでしょう。
一方、岐阜城にいた信長は本圀寺襲撃の報せを受けて全速力で上洛。大雪の中、当時、洛中まで3日かかる道程を2日で到着しました。
この義昭襲撃事件は、京のお城事情に大きな転換点をもたらします。義昭の救援に成功した信長は、義昭のために本格的な城郭を洛中に築城することを決心します。
これが「二条城」です。が、現在残る二条城は徳川期のものなので別物です。
信長が築城した二条城は現在の京都御所の西隣りで、平安女学院の敷地になっています。本能寺の変で織田信忠が立て籠もって落城してしまったので、もはや遺構は残っていません。
この旧二条城が画期的なのは、石垣と「だし」を伴う隅櫓、そして天主の存在です。また洛中という、恒久的な要塞が過去に築城されてこなかった城郭の真空地帯に初めて築かれた戦国の城であることも重要です。
基本的に碁盤目状の洛中市街なので二条城はほぼ方形をしています。平野部で方形の土地に「要害を構えて侵されない」城を造るのですから当時の城郭の知恵と技術をすべて注ぎ込まれます。しかも撃退したとはいえ、まだまだ反撃の余力を残す三好三人衆などがガチで攻めてきますので、素早く工事を完了させなければなりません。
信長は尾張から播磨にかけて14カ国の大名に声をかけ、築城の分担をして、京都内外から人足、数万人が投入されました。信長も自ら現場に出て築城を指揮して、わずか70日で完成させました。
遺構はほとんど残っていないので当時の記録に残された記述をたどるしかありませんが、二重の堀に、当時でも画期的な石垣を積み上げるという最新技術を投入しています。
二条城は一辺が400mくらいあったようなので、それだけの石を70日で山から集めて積み上げるのは至難のワザ。そこで京都中から石仏や石塔などを集め、二条城の石垣に充てました。これをもって信長は罰当たりだ!やっぱり神を畏れぬ魔王だ!と決めつけるのは早計です。
当時は石仏や石灯篭の転用は各地で行われていました。もちろん人々が敬っている石仏を奪い取ってくるようなことはしません。治安を悪くするだけです。
戦国時代は主が行方不明になって廃寺になったり、戦乱から逃れるために郊外に移転してしまった廃墟の寺院が数多くありました。そういったところから廃材として持ってきているのです。石仏の利用は戦国のECOなリサイクルなのです。
また、城内の建物は本圀寺がやめてくれと言っているにも関わらず移築しました。このへんは多少強引ですが、本圀寺をそのままに残しても、反信長、義昭派の勢力にそこを防衛拠点に利用されると困りますので、本圀寺は丸裸にしておいた方が都合がいいのです。
また、二条城には「ダシ」を備えた隅櫓(すみやぐら)も設置されました。隅櫓とは文字通り、縄張りの角に当たる場所に設置された見張り台の櫓です。これを壁より少し前に出っ張らせることによって(これを「出し櫓」と言います)、壁に取り付いた敵兵を横から矢や鉄砲を撃ちかけることが可能になります。
このように平野でほぼ方形の二条城では、タテ、ヨコ、高さの三次元でどこからでも応戦が可能なように設計されました。
そして二条城の記述に初めて「天主」という名称が出てきます。
四方に巡らせた隅櫓の一つが一際立派だったのか、城の中心に天主が置かれたのか分かりません。しかしわざわざ櫓と区別するくらいなので、平城では必須の「遠くを見渡せる」機能を持ち、同時に周囲を威圧する構造物だったことは間違いありません。
そして最後に信長からのプレゼントともいうべき当時、最新鋭の出入り口である「虎口」です。
畿内では特に洛外を中心に寺院が城郭技術を発展させていったと紹介しましたが、出入り口は門に工夫はあっても平入り、すなわち「折れ」がなく一直線に出入りするものでした。
同じ時期に築城された細川藤孝の勝竜寺城も二条城と似た方形の縄張りだったのが分かっていますが、ここには折れを持った虎口が確認されています。細川藤孝の上司である義昭の城にも同じような虎口が配されていたことは十分考えられます。
二条城では、さらに注目すべきことがあります。意外かもしれませんが、「庭」です。
信長はこれまで、小牧山城や岐阜城で、名デベロッパーにして名アーキテクトの才能を発揮してきました。
が、今回は名ガーデナー(造園家)としての才能を発揮します。二条城に庭園のスペースを造り、池と小川、そして築山を造って豪華に飾り付けることを思いつきます。
今は無人の管領細川家の居館「細川殿」から有名な巨石「藤戸石」を、慈照寺(銀閣寺)からは名石「九山八海」を運ばせ、そのほか京都中の名石や名木を二条城の庭園に集めました。また馬場に桜を植えて「桜の馬場」と風流な名称を付けるなど、二条城に様々なアートを施します。
そして隣接する天皇の御所(内裏)も、ひどく荒れ果てていたので信長が修築しました。
最後には名デベロッパーの血がたぎったのか、二条城近辺の土地を開放し、諸大名に邸宅を造らせて二条城周辺の環境も同時に整備、将軍の居城に箔をつけさせます。この辺のセンスはさすがですよね~。
どんなに城が豪華でも荒地にポツンと建っているだけでは景観が寂しいのです。小牧山や岐阜で城下町ごとプロデュースした信長の真骨頂でしょう。二条城の落成を見届けた信長は5月、岐阜城へ帰国していきました。
永禄12年は本圀寺の襲撃から始まって、不穏な空気が流れましたが、結果的に洛中に堅固な二条城を完成させることになりました。