絵・小久ヒロ

武田・上杉家

武田勝頼37年の生涯をスッキリ解説!風林火山を使えぬ悲劇が武田家崩壊を招く

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歴史はもう終わったもの。
評価が固まっていて、変わらないもの。

そう思われがちですが、実際は日々の研究により、人によっては大きな変貌を遂げます。

戦国武将の中で、その代表格が武田勝頼でしょう。

かつては偉大なる父・武田信玄の偉業を引き継げなかった暗君とされてきましたが、2000年代以降、急速に研究が進んで別の像が語られるようになっており、その成果のひとつが2016年大河ドラマ『真田丸』。

ドラマでは第一回で散ってしまうにもかかわらず、高潔で聡明さをにじませた姿は、視聴者に鮮烈な印象を与えました。

いったい勝頼とは愚なのか賢なのか。
本稿では、父・信玄とは違った真の魅力に迫ってみましょう。

※本稿の「信玄」表記は時期に関わらず同名で統一します

 

諏訪氏の母を持つ武田勝頼

武田勝頼の生年は、天文15年(1546年)。
同年生まれには黒田官兵衛孝高や最上義光がおり、ほぼ同期となるのが真田昌幸(1歳下)や、徳川家康(4歳上)あたりまで含められましょうか。

この世代の武将たちは1600年「関ヶ原の戦い」において、人生経験と体力をフルに発揮できた時期に当たります。
そう考えると、勝頼の生涯がいかに短かったか……。

父・信玄にとって勝頼は四男でした。

母は正室・三条夫人ではなく、諏訪氏(法名・乾福寺殿)の娘。
本稿では法名表記の「乾福寺殿」とします。

フィクションで有名になった「湖衣姫」や「由布姫」はいずれも創作の産物であり、実名は不明です。
確かに地元の行事等ではこうした名前が用いられたりしますが、史実ではありません。

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ではなぜ、フィクションで彼女が取り上げられやすいのか?
というと、その生涯が劇的であったからでしょう。

武田信玄は、妹・彌々ねねを諏訪頼重に嫁がせていたにも関わらず、諏訪家に攻め込み、頼重を切腹に追いやりました。

諏訪氏にとってはあまりに予想外のことでありました。
ほんの少し前に同家では、寅王丸のお宮参りを行なっていたばかり。武田の侵攻に対して、備えは無きに等しいものでした。

こう書いていきますと、信玄があまりに非道に思えるかもしれませんが、おぼろげなから動機は見えてきます。

父の武田信虎を追放してからというもの、武田家では新体制構築のため信玄は忙殺されていました。

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その間、関東から海野氏が、信濃・佐久郡へ侵攻の機を狙っておりました。

海野氏とは、武田信虎らに敗北し、関東へ逃れた国衆です。
真田信繁(幸村)や真田信之の祖父となる真田幸綱も、この一族に属しており、当時の彼らは関東管領・上杉氏の支援を受けていました。

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彼らの侵攻を受けた諏訪氏側では、海野・上杉と領土分割を含めた和平交渉を行なったのですが、これが信玄にとっては裏切りにも等しい行為となります。

「こちら(武田)が忙しいからって、勝手に敵と手を結ぶとはどういうことだ!」
と叱られても仕方のない内容だったのです。

諏訪氏はその辺の政治話に無頓着だったのでしょう。ゆえに信玄に攻め込まれると呆気ない敗北を喫し、さらには直後の悲劇をもたらします。

信玄の甥にあたり、諏訪家の跡継ぎ候補だった寅王丸は出家させられました。
これによって寅王丸の母であり、信玄の妹でもある彌々が、どれだけ苦しんだことか。

夫・頼重が死へ追い込まれ、我が子の出家の原因となったのは、実の兄なのです。あまりに心労が大きかったのか、彼女も夫を追うようにして、16年の短い生涯を終えます。

そんな頼重の遺女であったのが、乾福寺殿。
「かくれなきびじん」と『甲陽軍鑑』に記されたその美貌が信玄の目に留まったとされます。

一族の仇である、憎き敵の目にとまる美貌の姫君――なんとも劇的ではありませんか。

フィクションではここで『甲陽軍鑑』の記述を基にして「山本勘助が輿入れの準備を進めた」と、ドラマチックな盛り上げ方がなされるわけです。
あまりに酷い顛末を和らげる効果も狙っているのでしょう。
これは創作と考えられます。

ただし、敵の姫を側室とする信玄の決定を危険視する反対意見は当時から武田家内にありました。

信玄は本当に、美貌に惹かれて乾福寺殿を側室にしたのでしょうか?

そうではないでしょう。
諏訪氏を取り込むためにはその血を引く側室を迎え、子を産ませて跡を継がせれば有利になるのは確かなこと。それを踏まえてのことなら筋が通ります。

特にこれは、大名と国衆の微妙な関係を考えると腑に落ちるはずです(以下に参考記事がございます)。

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こうした政治的動機は、背景の説明がややこしく、フィクションではむしろ邪魔になりがちです。

そんなことよりも乾福寺殿を運命の姫君として、三条夫人がそんな彼女に嫉妬した――という筋書きの方がたやすく盛り上がるもので、ストーリーとして採用されやすい。
後世の思惑からの逆算ですね。

 

それよりも問題は、なぜ側室の母である四男を後継者にしたのか?ということでしょう。

話は簡単で、信玄の息子たちは以下のように

嫡男・義信の死
二男・海野信親の視覚障害
三男・信之の夭折

次々と跡継ぎ候補から外れてしまい、やむを得ず勝頼が継ぐという展開になったのです。

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高遠諏訪頼嗣の後継者

信玄が乾福寺殿を側室にした理由は、政治的な思惑が濃厚です。
彼女との間に生まれた男児を、諏訪氏の惣家後継者にすることを信玄は考えていた。

となると、諏訪頼重の遺児である寅王丸はその地位を失ってしまい、実際、彼は出家後に信玄殺害を試みて、逆に誅殺されたと伝わっています。

一方、諏訪家を継ぐ予定となった勝頼は、17歳で伊那郡高遠城に在城を命じられ、高遠諏訪頼嗣の後継者である【諏訪勝頼】となりました。

そうはいえども、諏訪郡統治や、諏訪大社の祭祀に、彼の関与の形跡はなく、どこか中途半端な体制であります。
寅王丸のこともあり、諏訪衆には勝頼への反発もあったのでしょう。

そもそも、この「勝頼」という名前にも、彼の中途半端な立場を感じさせます。
武田信玄の親族や家臣の重要性は、からうかがえます。

【信】の字:武田氏の通字(義信)

【虎】の字:武田信虎から

【昌】の字:武田中興の祖・信昌から

【勝】の字:信玄の幼名・勝千代から(勝頼)

ご覧のとおり、勝頼は義信より扱いがかなり低い。
その理由は、母が正室であるかどうか、という差も考えなくてはなりません。

キリスト教圏では、生母の地位と正式な結婚であるかどうか――というのは継承権の上で重要視されます。
あのナポレオンですら、庶子がいても継承権はありません。
これは非常に重要なことです。

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東アジア文化圏では、生母が側室であっても継承権そのものは失われません。

ただ、誤解を生みやすいところでもあって、

【庶子は継承権がある】=【生母の身分は関係ない】とはならない

ことに注意が必要です。

結局、母の身分はとても大切なのです。

江戸時代の将軍は、ほぼ側室が生母であることが続いています。
そうしたことから誤解が生じやすいのでしょう。

正室と側室いずれにも男子がいた場合、正室の子の方が優遇されます(織田信長も順番だけ見れば長男ではなく、側室から生まれた兄がいる)。

さらには側室同士であっても、身分に明確な差があれば、より「上」のほうが有利なのです。

なんせ我が国には

「劣り腹」=身分が低い母生まれの子

という、ゾッとするような言葉もあったほどですから。

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このことを踏まえますと、勝頼が出生時から背負った不運がおわかりいただけるかと思います。

滅ぼされた家の不吉な姫が母――。
生まれながらにして、武田家の男子としては一段低く、家臣として一門を支える役割を期待されていたのです。

それが今川氏との関係悪化によって嫡男の武田義信が死に追いやられ、想定外の相続をすることになったのでした。

 

想定外の武田家相続、その困難

武田勝頼の悲劇の始まり。
それは彼が想定外の後継者だったことです。

想定外の後継とは、古今東西、困難を招くものです。

例えば映画『英国王のスピーチ』でも、ジョージ6世の苦悩が描かれていました。

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何かと問題を抱えていた兄・エドワード8世よりも、ジョージ6世は国王の資質があったとされております。

しかし、です。
ことの本質は【個人の資質以外】にあります。

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後継者は、継承を想定した教育を受け、それを前提に、脇を支える家臣や側近が揃えられます。
そうした準備なしに継ぐということは、本人にも周囲にも軋轢を生むものです。

勝頼も例外ではありませんでした。

・不吉な側室を母とする子
→乾福寺殿が側室となった時点で武田家臣団には不満があり、その子が後継者になるということは……

・後継者としての経験が、義信と比べて圧倒的に不足している

・親今川派であり、かつ義信側近だった家臣たちの反発
→織田・徳川に内通した義信派の家臣もいた(曽根氏)

・信玄ですら、勝頼はあくまで「中継ぎ」扱いとしている
→嫡男の竹王丸が16歳になったら、家督を譲るという指示が出された

・諏訪法性の兜継承は許可するものの『孫子』(「風林火山」の旗)は禁止する
→「風林火山」を勝頼が失ったわけではなく、封じていたのは信玄そのもの

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いかがでしょう?
かように背負わされた不利な条件が、どれだけ勝頼を苦しめたか……想像するだけで胸が苦しくなります。

こうした「中継ぎ扱い」による精神不安定は、他の家でもあります。

織田信長の二男・織田信雄や三男・織田信孝は暗愚だと描かれがちです。跡継ぎではない彼らは、弟という時点で、兄・織田信忠に比べてハンデがありました。

豊臣政権では、豊臣秀吉の実子・豊臣秀頼の誕生によって中継ぎにされた豊臣秀次が、重大深刻なうつ状態に陥ったとされています。

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世界史に目を向けますと、強引な対処で後継を覆した例もあります。
が、禍根を残すことも多いものです。

◆イングランド王・リチャード3世
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◆明・永楽帝
→「靖難の変」で甥・建文帝を倒しての即位。甥生存の猜疑心がつきまとった結果が、鄭和の大航海や宦官の重用につながる。

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こうした状況は、勝頼という人となりを考える上で重要ではないでしょうか。

 

父の死を三年秘すべし

元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄死去――。

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「その死を三年秘すべし」という遺言はあまりに有名であり、後世においては信玄の偉大さを示す言葉として解釈されてきました。

が、果たしてそれだけでしょうか。

信玄の功績は確かに偉大です。
ただし、晩年の対外戦争においては強引さもありました。義信の死を招いた今川氏との関係も、その現れでしょう。

織田信長、徳川家康、上杉謙信――といった強力な大名と戦う中で、自らが倒れては危険であると認識していたということは、すなわち【武田家の不安定さを危惧していた】とも考えられます。

そして武田勝頼は、父の遺言に従い、その死を偽装し続けました。

書状に残る花押や署名に、その跡が残されています。
北条氏政が家臣を派遣した際には、叔父であり父によく似た武田逍遙軒を会見させたとされています。

こうした一連の対処法は、果たして正しかったのでしょうか。

「三年秘喪」というような処理がされたのは、なにも信玄だけではありません。
例えば三好長慶も二年間秘匿しておりますが、信玄の場合、あっけなく外に発覚してしまうのです。

同盟者である北条氏政・本願寺顕如からは、追悼ではなく家督相続祝いが送られる一方で、敵対者の間では信玄の死という真相は、死後数ヶ月で知らされておりました。

この秘匿こそ、かえって武田の不安定さを対外的に証明してしまったことは、十分に考えられます。

懸念材料は、それだけではありません。

信玄を支えた宿老の目から見ると、息子世代の勝頼はあまりに若い御屋形様として映りました。
28という相続年齢は、決して若すぎるとは言えません。それでも彼らからすれば、そう見えてしまうのです。

さらには勝頼世代の家臣たちも、信玄世代から見れば、ひよっこ同然であり、両世代間には互いへの不信感があった形跡がみられます。

それだけではありません。
家督を継いだ勝頼には、課題が山積みでした。

・内政の不安

・外交や合戦により作られた敵の包囲網

・家臣間の世代格差と不和

家督相続のスタート段階で、これだけの不安を抱えさせられているのです。
これを好機とみなしたのが、織田・徳川でした。

彼らにとってはすでに状況は整っておりました。

足利義昭の降伏

・朝倉義景の滅亡

・浅井長政の滅亡

・三好義継の滅亡

松永久秀、織田に帰参

「元亀騒乱」と呼ばれていた情勢は、劇的に織田信長の勝利に染められていくのです。

徳川家康は、信玄によって圧迫されていた三河を取り戻すべく、反攻に出ました。
駿府、井伊谷を攻めたのです。もはや三河をつなぎとめることができず、徳川につく家臣も出てきました。

飛騨・美濃も、武田家の支配下から離れます。
勝頼にとって、あまりに多難な出発でした。

二年目の進展

天正2年(1574年)、この年は追放した我が子・信玄の死を受けて、武田信虎が帰国しています。

そんな祖父の動向に、勝頼は神経を尖らせていたようです。
再び権勢を握らないかと不安になるほど、己の基盤が脆弱だと感じていたのでしょう。

このころ、信玄の宿敵であった上杉謙信は、勝頼をこう酷評しています。

「勝頼の武略は、武田の名に劣るものである」

しかし、そんな侮辱を吹き飛ばすかのように、勝頼は東美濃を攻めます。
武田勢は同地方への攻勢を強めており、その中で選択肢を迫られた一人に信長の叔母・おつやの方もいます。

彼女は甥を離れ、武田につくこととなったのです。
この女城主のことを、頭の隅に入れておいていただければと思います。

勝頼には、東の援軍として北条勢、西には亡命中の足利義昭や六角義賢がおりました。
彼らと手を組めば、織田にも対抗はできるのです。

かくして武田勢、5月には高天神城を包囲し、降伏に追い込みます。

峻険な山に立つ難攻不落の高天神城/photo by お城野郎

勝頼を「小僧」とか「父に劣る」などとみなしていた周辺大名が、顔色を変えるほどの快進撃。
このあたりから遠江支配、内政基盤の拡充に取り組んでいくのです。

偉大なる父の三回忌に向け、勝頼は邁進していたことでしょう。
いよいよ喪を秘すべき三年が終わり、そして、運命の天正3年(1575年)を迎えるのでした。

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膠着する武田・徳川・織田

勝頼の前に、課題は山積みです。

同盟者相手に「自分が頼りになるところを見せなければならない」ことを痛感。
そのためにも、まずは徳川家康の三河制覇を目指します。

この時期徳川家康は、嫡子・松平信康と、正室・築山殿を処断するという苦渋の決断を迫られました。

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・信長が信康を疎んじた
・正室徳姫との不和
・嫉妬、暴君

処刑の理由としては、上記のような要因が語られますが、同事件と武田の動向を見ていくと、繋がっている何かが見えてきます。

武田側は、三河攻略を前に何らかの策謀を行なっていたと考えられるのです。

この時期、岡崎町奉行・大岡弥四郎(大賀弥四郎として有名)からの内通申し出がありました。
岡崎城主は、家康の嫡男・信康です。
その右腕たる町奉行の内通となれば、非常に衝撃的なことでもあります。

信康の母である築山殿が関与した疑いがあるともみなされました。
要は、信康派による家康排除クーデターの可能性も考えられるのです。

勝頼からすれば、信康派が台頭すれば徳川と同盟関係を目指すこともできます。彼らを支援することで、威信を強化できるのです。
こうした思惑に、築山殿と信康が巻き込まれたと考えれば、辻褄が合います。

一方の信長からすれば、この策謀を放置すれば、徳川が同盟相手から敵対者に変わってしまうのです。
それだけは避けなければならない。
処断は必然の措置となります。

信康の器量を嫉妬したという説は、あくまで後付けでしょう。この信康母子の死は、来るべき決戦の露払いをしたようなものともみなせるのです。

勝頼は大岡弥四郎のクーデターを頼りにして徳川を攻め、西進していきました。
しかしここで、信長が動き始めます。

この時点では、圧倒的に有利であった勢力はなかったと見なせます。
信長も武田の強さは知っておりますし、織田家には本願寺や三好康長ら西にも敵がおります。そうやすやすと動けるものでもありません。

徳川にせよ、家康派と信康派に分裂が見られ、盤石でもない。
それでも、腰を上げた。

そう。
長篠の戦い」です。

結果的に織田・徳川連合軍が大勝利をおさめるこの一戦。

あまりに劇的な勝利だったため、
【そこには何か特別な秘密があったはずだ】
と、長いこと考えられてきました。

例えば「信長の鉄砲三段撃ち」なんかはその一つ。
現代では否定されているこのような話がまかり通ったのはなぜなのか。

冷静に考えてみましょう。

 

伝説から離れてあの戦いを考えてみる

こうした派手な伝説は、史実だったのか?
いや、どうも、そうではないと近年論じらるようになりました。

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長篠の戦い当時の武田軍ならびに織田軍に注目してみますと……。

・武田家では騎馬兵を重視し、鉄砲を軽んじていた
→その確証は得られません。鉄砲の配備が記録に残っています。

・武田騎馬軍団
→東日本では西日本と比較して、馬に乗った戦術が重視されていた点は重要。馬防柵は存在しましたし、鉄砲隊を崩すのに騎馬が使われることもありました。
ただし、西洋の騎兵のような、乗馬したまま団体で突撃する戦法であったとは考えにくい。

・織田勢における兵農分離
→確証はありません。

※このような西洋の騎兵突撃と日本の戦国時代を混同すると誤解に繋がります(ナポレオン戦争、ワーテルローの戦い)

このあたりも難しいところです。

たった一人の革新的天才が、戦争を変えた。
そんな伝説は非常に魅力があります。

例えば孫子や、

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ズールー族のシャカもそうでしょう。

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あるいは幕末の日本ではナポレオン戦争の歴史を学び始め、西洋の戦術に衝撃を受けました。

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「フランスのナポレオンに学ぼう!」
と讃えられ、しかし、普仏戦争後は、
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そんな中で、日清戦争日露戦争を経て、日本人は自信を持ち始めたわけですが、そうなると日本の歴史においても、フリードリヒ大王やナポレオン、ウェリントン公のような英雄がいたはずだ!と思い始めます。

むろんそうした過去へのリスペクトは結構なことかと思います。
例えば、最上義光顕彰を見てみますと、

「国民に尚武の気風が貧弱であるうちは、到底列強各国との競争に対峙することなどできない。であるからして、英雄崇拝が日本の国民性として意義があることは否定できない。我等が山形中興の最上義光公は、この意味において最も崇拝すべきグレートマンであると同時に、山形市が今日において東北地方の一都市として雄を競うにたるのも、義光公の遺徳であるのは、言うまでもないことである」

なんだか、すごい理屈で褒められています。

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こうした現象の問題は、一度の顕彰で終わらないことです。

「我々の祖先たる戦国大名も、何かすごい戦術や改革をしていたはず!」
そんな後世の願望が強すぎて、西洋寄りの戦術と混同するような傾向が見られるようになるのです。

戦前の軍参謀本部の分析が、その典型例。
その影響は、現在も払拭されたとは言えません。

「織田信長とエリザベス1世界はどちらが強いのか?」
というような記事も時折見かけますが、海軍力が強みだったイギリスと、そうではない日本とでは、比較のしようがありません。

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※『MAGI』(アマゾンプライムで無料)にはそのあたりの話が出てきます

ともあれ、ファンタジックな過大評価は、あくまでゲームや漫画にとどめておかねればなりません。

伊達政宗の「騎馬鉄砲隊」も、そうした一例でしたね。

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この手の背伸びした歴史はさておき、誇張のない「長篠の戦い」を考えてみましょう。

地盤による差はあるものの、軍隊の編成が大きくとなっていたわけでもありません。
ではなぜ、ここまで大きな勝敗の差がついたのでしょうか。

 

「長篠の戦い」

結論から申しますと、この戦いの決定打はまだはっきりとしておりません。

長篠の戦い(設楽原)に設置された馬防柵

しかし、一定の要素は認められている。

・織田徳川連合軍は柵の内側に立てこもり、実際よりも兵を少なく、士気が低いように偽装していた

・若い勝頼は、経験豊富な宿老の懸念を押し切って主戦論に傾いていた。とはいえ、当時30歳という年齢が、そこまで若いかどうか、判断がつきかねる

・徳川勢が武田勢の背後をつき、退路を絶っていた

こうした要素はあります。
とはいえ、誇張もあるのです。

・戦いは数刻に及んでいて、あっという間に勝利したとは言えない

・徳川勢が乗馬しなかったという記録はあるが、そこまで編成が異なっていたという証拠とはいいかねる

冷静かつ慎重に考えれば考えるほど、決定打はわからなくなります。

だからこそでしょうか。
後世の記録は誇張が増え、ますますわかりにくくなっています。

膨大な戦死者がいたことははっきりしています。
ただ、実数や損耗率は不明。これは戦国時代の合戦ではままあることでした。
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