関ヶ原古戦場

武田・上杉家

北条→武田→上杉→徳川と渡り歩いた武将・藤田信吉~関ヶ原合戦を引き起こす?

こんにちは!

“れきしクン”こと長谷川ヨシテルと申します。

一般的にあまり知られていない、ご当地マイナー武将をご紹介させていただいる本連載。

今回ピックアップするのは、埼玉県長瀞町&寄居町の「藤田信吉(のぶよし)」さんです。

初めて耳にする方も多いかもしれませんが、実は、歴史を大きく動かした男とも言えるこの武将。

まずは当連載おなじみ『信長の野望 革新』からデータチェック!

信長の野望 革新/amazonより引用

武田家臣。主家滅亡後は上杉家に仕え、佐渡攻略などに活躍した。関ヶ原合戦の直前に上杉家を出奔、上杉・徳川家間の調停工作を行うが失敗し、剃髪した

統率61
武勇59
知略65
政治48

能力値が微妙!
実に微妙過ぎる!

城代としてなら任せられるけども、部隊を率いて合戦するにも心許な過ぎるのです。

ところが、この地味〜な能力値に反し、藤田信吉さんの経歴はド派手だったりします。

早速、藤田信吉さん、波乱の生涯に迫っていきましょう。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

藤田信吉 長瀞町にある天神山城の生まれ

藤田信吉さんの生誕地は、埼玉県長瀞町。

1559年(永禄2年)の生まれと言われています。

私ごとですが、母方の故郷でもある馴染みの深い町です。

とは言っても、藤田信吉さんのことを知ったのは『信長の野望 革新』を始めた20歳頃でした。

さらにお恥ずかしいことに、出身地が長瀞町だったことを知ったのも、わずか5年前のこと。

お隣、寄居町の鉢形城を中心に開催される『寄居北條祭り』のトークイベントに出演させていただいた時でした。

鉢形城

このとき寄居町の正龍寺に参拝する機会があったのですが、そこに「藤田康邦」というお方の夫婦のお墓がありました。

私は思いました。

『藤田? 藤田信吉と関係あるのかな?』

調べてみると、藤田康邦は藤田信吉さんのお父さんという話ではあーりませんか。

そして、藤田信吉を初めてちゃんと調べてみて、長瀞町にある天神山城の生まれとされていることを知ったのです!

先日、初登城してきましたが、なかなかにしんどかった!

現在はボロボロの模擬天守が、廃墟マニアには堪らないスポットとなっているようです。

天神山城

 

「武蔵七党」と呼ばれた名門藤田家

さて、藤田信吉さんは『信長の野望』の説明文を見ると「武田家」だったり「上杉家」に仕えています。

なぜ埼玉県西部の長瀞町出身、藤田信吉さんが両家に仕えることとなったのか?

それは、大河ドラマ『真田丸』の真田家同様、国衆たちの生き残り戦略が関係していました。

藤田信吉さんの実家の藤田家は「武蔵七党」(武蔵が本拠地の強い武士団ベスト7)の1つに数えられる名門です。

ご先祖様には「野狂(やきょう)」と称された平安時代初期の異端公家「小野篁」がいるとされています。

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平安時代後期から約400年――現在の長瀞町や寄居町に勢力を張っていた藤田家。

戦国時代初期には山内上杉家に従っていたものの、小田原城を本拠地とする北条氏康が攻め込んできたのです。

小田原城

本能寺の変】後の真田家のように、藤田家はどの勢力に味方しようかと苦悩します。

そして、選んだ道が北条家への従属でした。

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当時の藤田家の当主は、藤田信吉さんの父である藤田康邦。

藤田康邦は、北条氏康の四男・北条氏邦を養子として、娘の大福(おふく)御前を嫁がせ、藤田家を譲りました。

毛利元就による吉川家や小早川家の乗っ取りと似たように、北条家は武力を背景に、武蔵の名門・藤田家を乗っ取ったのです。

北条氏邦は間も無くして、本拠地を天神山城から鉢形城に移しています。

この後、父の藤田康邦は名字を「用土」(ようど)と改めて、用土城に隠居。

当初は「重利」という名だったものの、北条氏康の「康」と北条氏邦の「邦」を取って「康邦」と改めたそうです。

その後、天文24年(1555年)に藤田康邦は死去しました。

藤田信吉さんの生まれはその4年後とされていますので、藤田康邦の甥や孫ではないか?とも言われています。

用土城

 

用土家を継いだ兄が北条に毒殺された!

用土の家は、兄の用土重連が継ぎます。

が、優秀ゆえに北条氏邦から危険視され、天正6年(1578年)、氏邦の密命でなんと毒殺をされています。

乗っ取った側と、乗っ取られて従属した側の二人には確執があったといいます。

ちなみに、毒殺された場所は沼田城(群馬県沼田市)でした。

越後(新潟県)の上杉家の支配下だったものの、上杉謙信亡き後の家督争い【御館の乱】の混乱に乗じて、北条家(この時の当主は北条氏康の跡を継いだ北条氏政)が制圧したのです。

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用土重連は、城代に指名されていました。

兄を毒殺された藤田信吉さんは用土家の家督を継いでご当主となり、兄に替わって引き続き北条氏邦に仕えます。

「おい! 藤田信吉さん! 兄の仇を討たないのか!」

と、読者の皆さんは、そうお思いでしょう。

ご安心ください。

赤穂浪士の討ち入り」然り、仇討ちには準備が必要です。

藤田信吉さんの準備が整ったのは2年後の天正8年(1580年)のこと。

この年、甲斐(山梨県)の武田勝頼が、本格的な沼田城攻略に取り掛かりました。担当したのは、あの真田昌幸です。

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真田昌幸の得意技といえば調略――さっそく藤田信吉さんを武田家へ誘い込みます。

「今こそ、北条家を見限る時ぞ!」

とばかりに、この誘いに乗って沼田城を真田昌幸に渡し、武田勝頼の家臣となったのです。

冒頭でご紹介した『信長の野望』の解説文が「武田家臣」と始まるのは、このためです。

沼田城を譲った藤田信吉さんは沼須城(沼田市)に移ったといいます。

沼田城

この前後、藤田信吉さんは姓を「用土」から、先祖代々継承してきた「藤田」と改めました。

ちなみに、官職名を「能登守(のとのかみ)」と名乗ったため「藤田能登守」と称されることも多いです。

この後も藤田信吉さんの武将ライフは波乱万丈です。

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