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【武田信繁】
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というと「左馬頭(さまのかみ)」の「唐名」にあたります。
左馬頭とは朝廷で厩(うまや)を管理する役目。
名門武家の武田家にふさわしい官名であり、かつ武田家中の教養も感じさせる。
『孫子』から「風林火山」を引用し、旗印にしていた家にふさわしい呼び名と言えましょう。
信繁は『武田信繁家訓』99ヶ条を残しており、『甲州法度之次第』を補うものと見なされています。
・主君への忠義
・礼儀作法
・文武に親しむこと
・神仏への向き合い方
・人付き合いの方法
などなど、きめ細やかに記されていたばかりでなく、文中には、四書五経をはじめとする漢籍引用も数多あります。
つまり同書には優れた教養があり、江戸時代になっても読み継がれたため、同時に武田信繁の人柄も賞賛の的となりました。
現代において人気が高いのも、元はと言えば江戸時代から続く影響なのでしょう。
そもそも武田家には信玄だけでなく、山本勘助など伝説的な人物が数多いて、徳川家康からも崇敬されるような武家でした。
優れた人柄や教養が武士の鑑とされた武田信繁も、そうした武将の一人だったのです。
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兄を支え 御一門として武田を盛り立てる
信虎を追放後、若き当主となった武田信玄にとって、家族である御一門衆は非常に重要でした。
なんせ家臣たちの多くは父を支えた世代で、みな年上。
自分と年齢が近く、心から信頼できる弟・武田信繁は、他に代え難い稀有な存在です。
天文11年(1542年)からの諏訪攻めでも、板垣信方と並び、信繁が攻略を担いました。
信玄に心から信頼され、かつ、性格的に頑固な一面もある板垣信方と共に行動させても問題ないからこその人選でしょう。
武田御一門としての役割は、戦だけではありません。
信濃攻略の際、武田の血筋を引く者が信濃佐久郡に養子として入ることとなりました。
このとき信繁の子である信頼と信永が選ばれたのです。
第四次川中島の戦い
南信濃を制圧し、北信濃へも進出していった武田家。
途中、村上義清に二度も敗れる苦い経験はあったものの、順調に北上を続け、いよいよ制圧――そんなあと一歩のところで立ちはだかったのが越後の上杉謙信です。
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合計五度の合戦をしたことで知られる【川中島の戦い】は、北信濃を巡る謙信との攻防戦であり、当然ながら武田信繁も出陣しています。
しかし、武田信繁に五度目はありません。
信玄の戦歴の中でも最も華々しく、そして最も苦い、第四次川中島の戦いで命を落としてしまうのです。
それは一体どんな戦いだったのか?
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