北条夫人(勝頼の妻)

北条夫人と武田勝頼/wikipediaより引用

武田・上杉家

勝頼の妻・北条夫人が迎えた哀しき最期~夫と子と自害して武田滅亡へ

2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、武田家の滅亡も描かれました。

わずかなお供を引き連れ、戦場に散った武田勝頼

槍を構え、大軍を相手に一歩も引かない姿は勇ましく映ったかもしれませんが、同時に違和感を覚えた戦国ファンの方もいらっしゃるでしょう。

勝頼は、その最期のとき、妻と子を連れていました。

子とは前妻が産んだ長男の武田信勝であり、妻とは北条夫人(法号:桂林院殿本渓宗光)。

北条氏康の娘である彼女はまだ19歳であり、子もなく、あらためて嫁ぐことのできる若さだったのに、実家の相模へ帰ることなく、夫らと共に散ることを選んだのです。

天正10年(1582年)3月11日はその命日。

なぜ彼女はそんな最期を迎えることになったのか。

北条夫人の生涯を振り返ってみましょう。

 

勝頼最初の妻は織田から

数多の戦国大名の子息がそうであるように、武田勝頼の婚姻は政治情勢ありきでした。

勝頼が青年期だった頃の父・武田信玄は他国にその名を轟かせるような非常に強大な存在。

このとき和睦の必要性をひしひしと感じていたのが尾張の織田信長です。

そこで信長から持ち込まれた縁談を受け、最初に勝頼が娶った妻が6歳下の遠山夫人(法号:龍勝院)でした。

血縁上は信長の姪だった彼女は、永禄8年(1565年)に名目的には信長養女として嫁いできます。

しかし、彼女は永禄10年(1567年)に男児を産むと、その4年後の元亀2年(1571年)に亡くなってしまいます。

この男児が後の武田信勝。

織田の血も引く武田家のご子息となりますが、この後、信長は武田との縁談を続ける必要がなくなります。

元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が没したからです。

両国は対立構造を深めてゆき、そして迎えた天正3年(1575年)5月21日に【長篠の戦い】が勃発。

織田徳川連合軍は強敵・武田を相手に大勝利をおさめ、もはや以前のように恐ろしい存在ではなくなりました。

こうなると武田勝頼としても別の同盟者から妻を探さねばなりません。

候補に挙がったのは関東の雄・北条氏でした。

※以下は織田信長・武田信玄の考察記事となります

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武田と北条を結ぶ姻戚関係

甲斐の武田と、相模の北条は、距離が近いだけに関係は非常に複雑で、同盟と決裂を繰り返してきました。

例えば天文10年(1541年)には当時晴信だった武田信玄が父の武田信虎を駿河へ追いやり、武田と北条の間で和睦が結ばれます。

天文13年(1544年)頃には武田・北条の間で【甲相同盟】を締結。

この同盟に際しては、信玄の娘である黄梅院と、氏康の嫡男・北条氏政で婚姻が結ばれ、両国の繋がりはより強固なものとなりました。

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一方で北条は、今川と数代にわたる姻戚関係を結んでいます。

結果、武田・北条・今川による【甲相駿三国同盟】へと発展するのですが、そのパワーバランスを崩したのも織田でした。

永禄3年(1560年)に「東海一の弓取り」として知られた今川義元が【桶狭間の戦い】で信長に討たれ、今川家が一気に弱体化してしまうのです。

今川家当主を継いだ氏真は、今川領の混乱を収拾できませんでした。

祖母・寿桂尼の働きでどうにか国としての体裁は保つものの、彼女が亡くなるといよいよ信玄は決断。

今川領への侵攻を開始するのです。

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しかし、事はそう単純でもありません。

今川氏真の正室は北条氏康の娘である早川殿です。

氏康は娘の嫁ぎ先である今川救援のために出兵し、武田信玄と激突、ここに同盟は決裂を迎えます。

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その煽りを受けたのが、信玄の娘である黄梅院でした。

彼女は夫との間に北条氏直をはじめとする4人の子が生まれていましたが、永禄12年(1569年)に子どもたちを相模へ残し、甲斐へ戻ることになったのです。

しかも、その年のうちに彼女は没したとされます。享年27。

現在では、離縁はされてはおらず、小田原城内に止まり、その地で没したという説もあります。

いずれにせよ、武田と北条の同盟は締結と破綻を繰り返しており、黄梅院の死から2年後の元亀2年(1571年)になると、武田信玄と北条氏政との間で再び甲相同盟が結ばれました。

ところが……。

今度は、そこの2年後に信玄が没してしまい、織田の脅威をひしひしと感じる勝頼にとって、この同盟締結強化は重要課題となってきます。

平たくいえば自身の妻を北条から迎えることが最善の策であったのです。そして……。

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