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【北条夫人】
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北条夫人が勝頼に輿入れ
天正5年(1577年)、甲相同盟の証として、北条氏康の六女である北条夫人が武田へ嫁いできました。
夫の勝頼が32歳であるのに対し、永禄7年(1564年)生まれの彼女は14歳。
【長篠の戦い】以来、重苦しい空気が満ちていた甲斐武田の領民にとって、救いの光となるような婚姻です。
しかし、穏やかな日々は続きません。
武田をめぐる事態は急速に悪化してしまいます。
それは天正6年(1578年)のこと。
越後の上杉謙信が後継者を定めぬまま没すると、後継者争いである【御館の乱】が勃発します。
同盟相手である北条氏政は、弟であり、謙信の養子であった上杉景虎の支持を勝頼にも要請します。北条夫人にとっては兄にあたる人物です。
しかし、この景虎に利あらずとなると、勝頼は敵であったはずの上杉景勝支持に方針を転換。【甲越同盟】を結びます。このあと景虎が敗れ自害。天正7年(1579年)、【甲相同盟】は破棄されたのです。
そのあとも北条夫人は実家に戻ることなく、夫のそばにいました。
北条夫人は、武田八幡に祈りを捧げました。卑劣な裏切りに傷つきながらも、勝頼をどうか守って欲しいと願っていたのです。
北条夫人は勝頼の妻として、武田を守ろうとしていました。
彼女自身に子はできなかったものの、勝頼の子である信勝を育てでいたのです。母と子というよりも、姉と弟といえるような歳の差でした。
斜陽の武田に対し、織田と徳川は力を伸ばしてゆきます。その対策は急務です。
武田の本城である躑躅ヶ崎館も、その詰城である要害山城も、鉄砲による戦闘を考慮すると弱点を抱えています。
そこで新たなる防衛拠点として、七里岩台地に新府城 を築きました。天正9年(1581年)末、勝頼夫妻はこの城に入りました。
夫と子と共に武田に殉じる
天正10年(1582年)2月、運命の年が訪れます。
信長の嫡男・織田信忠を中心とする織田徳川連合軍が武田の本拠地である甲斐へ攻め込んできたのです。
俗に【甲州征伐】とも呼ばれ、勝頼を追い込むための大軍を前に、武田は為す術なく敗退を重ねます。
戦場から逃げ出す者。
裏切って織田につく者。
他国から畏怖された武田軍はそこに無く、勝頼は妻子を引き連れ、新府城を出るほかありません。
僅かな将兵と侍女と共に逃げる一行は、田野(山梨県甲州市)へ逃げ落ちます。
北条夫人は一心不乱に祈り、逆転するよう願いました。
が、それは叶わぬ祈りでした。
ついに織田勢に追いつかれたとき、勝頼は夫人を逃そうとします。相模の北条へ向かえば助かる、と若い妻を諭したのですが……。
「仲睦まじいけれど、子宝には恵まれなかった」とも記述されている二人。
北条夫人は断固として別れを拒むと、懐剣で我が身を貫き、命を落としたのです。
享年19。
そして夫の勝頼も、我が子のように愛育していた武田信勝も、武田滅亡と共に命を落としました。
悲運の三人は、現在も残る肖像画の中で、在りし日の姿を見せています。
天正11年(1583年)、彼女は死して北条へ。
兄の北条氏規が妹を弔い、桂林院殿本渓宗光という法名がつけられました。
生き延びた勝頼の男児は出家し、甲斐の武田家は滅び、しかし伝説的な強さは人々の記憶や物語になって残されます。
滅びゆく夫の家から離れることなく、殉じた北条夫人はその凄絶な最期を残したのでした。
花のようにしとやかで香り高く、己の生き方を伝えた女性として、歴史にその芳名が残されています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon)
他