人物概略:服部半蔵正成
天文11年(1542年)生まれ。
父の服部保長が初代・服部半蔵で、正成は二代目・服部半蔵とされる。
家康と同年であり、若い頃から徳川軍の数々の戦に従軍。
伊賀忍びの者60~70名を引き連れて合戦に参加していたとする記録があり、宇土城攻めのときには城内へ忍び入って戦果を挙げた。
掛川城攻めや姉川の合戦、三方ヶ原の戦いにも参加しており、それらの活躍が認められて「伊賀者150名」を持つことを許されている。
さらには
・松平信康事件
・伊賀越え
などでも家康の信任を得て、晩年には遠江国に8,000石の知行を与えられた。
江戸に入ったときには与力30騎と配下200名を率いる立場に。
忍者ではなく武士として認められていた。
慶長元年(1596年)11月4日没。
享年55。
死後は長男の正就が5,000石を継ぎ、弟・正重が3,000石を与えられている。
なお、『寛政重修諸家譜』によると、【服部氏の祖先】は允恭天皇の時代に織部司に任じられ、伊賀へ土着したという説と、葛原親王(桓武天皇の子)の流れを汲む平氏という説がある。
以下本文へ
もくじ
11月4日は服部半蔵正成の命日
「Ninja」という単語が諸外国へ広がったのは1964年の東京五輪がキッカケだったのではないか?
そんな興味深い記事が以前、本サイトで掲載されておりました。
-
-
Ninja(忍者)という単語が世界に普及したキッカケは1964年の東京五輪…?
米 ...
続きを見る
外国人に限らず、Ninja=忍者は日本でも人気コンテンツの一つ。
その代表的人物がこの方でしょう。
慶長元年(1596年)11月4日、”服部半蔵”の通称で知られている服部正成(まさなり)が亡くなりました。
忍者というと冷酷・すばしっこい等々のイメージが強いですが、実はこの人は忍者よりも
【侍】
らしい仕事をよくやっています。
中でも有名なものは
「松平信康(徳川信康)の切腹」
と
「徳川家康の伊賀越え」
に関するものですね。
信康に薦めた側室が旧武田家臣の娘だった
織田信長と徳川家康の間には清洲同盟という強固な結びつきがありました。
しかし信長が、家康を疑ったことがないワケじゃありません。
家康の長男・松平信康に嫁いでいた信長の娘・徳姫が、父親の信長へ【12か条に及ぶ夫&義母批判】の手紙を送ってしまうのです。
それはざっと以下の通り。
全部を読まなくても大丈夫ですので、③と⑪に注目してください。
①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。
②築山殿は、女子しか生んでない私の事を「役立たず」と言う。
③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田関係者の妾を用意した。
④築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。
⑤武田勝頼は、信康を味方にし、織田・徳川滅亡後は信康を領主とし、築山殿は武田の武将・小山田と結婚させると言っている。
⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。
⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。
⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて殺した。
⑨武田勝頼は、信康を味方にしたいと言っているので油断しないように。
⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。
⑪築山殿は、武田勝頼に「(今川義元を殺した)織田信長と(両親の自害の原因を作り、さらに今川家を滅亡させた)徳川家康を殺して欲しい」と言っている。
⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が愚公だからだ。
※「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』)※2
③と⑪を繋げると、つまりは松平信康が武田家になびいて、徳川家と織田家に災いをなす(殺害を要請している)――と読めるわけです。
詳細は以下の記事に譲りますが、
-
-
築山殿(瀬名姫)が家康に送った最後の手紙 なぜ彼女は殺されたのか?
徳 ...
続きを見る
実際、なかなか男児が生まれない状況を心配した松平信康の母・築山殿が自分の侍女を息子に引き合わせておりました。
その侍女が旧武田家臣の娘だったんですね。
敵の女を旦那に近づけられるなんて、徳姫としては正室のプライドを傷つけられ、姑への不信感はMAX。
そりゃあ怒りたくもなる。
ってもんで、手紙を読んだ信長は、松平信康と築山殿の処刑を家康に命じました。
信長vs家康vs家康長男にはさまれて
いくら格上の同盟相手とはいえ、嫡男の処分とは穏やかではありません。
当然、徳川家は大混乱に陥りました。
「織田信忠(信長の嫡男)様より信康様のほうが出来がいいからひがんでるんだ!」
「娘の言い分だけ聞くとか何様!」
「同盟破棄して一戦しましょう!」
「でもウチだけじゃ勝てないだろ? 信玄のとき(三方が原の戦い)みたいになるかもよ?」
などなど、さまざまな意見が飛び交い、迷った家康は信長との同盟存続を選び、息子と正妻の殺害を決意するのでした。
実際は、家中が松平信康派と徳川家康派に分裂する親子の権力争いだった――なんて見方もありますが、いずれにせよ家康が処刑を決意したことには変わりません。
切腹を命じられた信康。
その介錯(とどめ)を命じられたのが二代目・服部半蔵こと服部正成だったのです。
やはり介錯はできませぬ……
しかし、いざ信康が腹を切ったとき、正成は、涙が溢れ出て刀を握ることができません。
「父祖の代から仕えてきた主筋のご嫡男に、刃を向けることなどできない」
一度は引き受けたのですから覚悟はしていたのでしょう。
それでも涙を流しつつ断ったそうです。
と、呑気に構えてもいられません。
なんせ目の前では苦しむ松平信康がおり、結局、もう一人の介錯人である天方通経が請け負いました。
「戦場で鬼と言われたお前も、主君を手にかけることはできないか」
家康はそう納得したといいます。
家康も代々仕えてきた信頼置ける家臣だからこそ、正成を信頼して大役を任せてはおりました。
が、それでも正成の評価は、かえって上がったようです。
なんだか天方さんが可哀相……。
本能寺で信長敗死!堺からの脱出劇
松平信康事件の後、疑いの晴れた家康は、安土城に招かれて歓待を受けておりました。
このとき出されたのが以下の料理。
-
-
安土城で家康に出された食事「信長御膳」舌で味わう歴史エンタメが再現された!
長 ...
続きを見る
各地の山海珍味が並べられ、デザートには超貴重な甘いお菓子まで出されます。
信長が本気で家康を歓待していた様子が伝わってきますが、とんでもない置き土産を渡されてしまいます。
本能寺の変です。
-
-
本能寺の変 真相に迫る諸説を検証! なぜ光秀は信長を殺したのか?
日 ...
続きを見る
安土城の後に家康一行は、信長の勧めで京都・堺(大坂)の見物へ行っていたのですが、このタイミングで明智光秀が蜂起し、本能寺で亡くなっていたのです。こうなったら……。
※続きは次ページへ