「実は別人と入れ替わってました」とか。
あまり表に出てこないミステリアスな話って面白いですよね。下世話といえば下世話ですが、人気があるからこそいろいろな説や創作の元ネタになったりもして。
しかし、言われる当人としてはたまったものではありません。
耳に入れば当然不快でしょうし、はっきり「そういうことを言わないでほしい」と示した人もいます。
元亀四年(1573年)3月18日に生まれた土井利勝です。
この人の話になるとたいてい「ああ、徳川家康の隠し子ね」という流れになってしまうので、優秀であるにもかかわらずあまり正当な評価がされていないような気がします。
そこで今回は、彼がどんなことをやった人なのかを中心に見ていきましょう。
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土井利勝は家康母方のイトコだが
そもそも土井利勝は、徳川家康の従兄弟です。
家康の母・於大の方。
その兄である水野信元という人の子供でした。
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つまり、家康と似ていても別段おかしなことではありません。
歳が離れているので、従兄弟同士というイメージもあまりないですけどね。
その信元が武田信玄と通じた――という疑いで織田信長に睨まれ、家康はこの伯父を処分せざるを得なくなりました(※1)。
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ところが、です。
利勝は一命を助けられるばかりか、家康の命で徳川家臣・土井利昌の養子に入っています。
(※1)佐久間信盛の中傷により信長が怒り、家康が石川数正と平岩親吉に命じて水野信元を殺害。後年、信長が佐久間信盛を追放したとき、信元が無罪だったのを後悔して水野忠重に刈谷城を持たせた。忠重は、戦国一の暴れん坊・水野勝成の父。
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鷹狩りに連れて行ったり 秀忠の傅役に任命したり
普通こういう時って息子も処分もしくはお寺に入れるのがセオリーですから、この辺はアヤシイといえばアヤシイですね。
ついでに、このあたりから家康は土井利勝を別格扱いし始めます。
鷹狩りに連れて行ったり。
6歳しか歳の変わらない徳川秀忠の傅役に任命したり。
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「本人の実子だから甘くしたんだよ」と言われても仕方のない扱いになりました。
家康は実の息子を軒並みひいきしていたわけではないですから、それもどうよという気がしますけどね。
どちらかといえば「顔が気に入った」とか「何か素質をうかがわせる出来事があった」のですかね……。
ひでやす と ただてる が うらやましそうに こっちを みている!
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陰口が噂を呼び「やっぱり家康の子じゃね?」
土井利勝は家康の期待によく応えたようで、関ヶ原の戦いでも秀忠隊につけられています。
例の大遅刻の現場に居合わせたわけですから当然戦功もほとんどないのですが、なぜか500石加増されました。お駄賃なのか。
その後も下総・小見川藩主に任じられたのを皮切りに、どんどん所領を増やされていきます。
ただ、利勝はそれにふさわしい働き方もしていたのです。
この頃になるとほとんど戦もないので、その功績は概ね事務処理やいざこざの仲介など地味なもの。
時は、戦国の気風が根強く残る江戸時代初期です。
そうした仕事が過小評価されたのと同時に「利勝は家康の子供だから特別扱いされているに違いない」という考え方をする人が一定数いてもおかしくはありません。
利勝自身は落胤扱いされるのを毛嫌いしていたといいますから、面と向かって言う人はそうそういなかったでしょうけどね。
しかし、そうなると余計に陰口を叩く人は増えるものですから、良かったやら悪かったやら。
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