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【徳川秀忠】
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遅参でも秀忠後継者に変わりはない
真田に苦戦したのは事実です。
予定よりも大幅に早かった関ヶ原の戦いについては、すべて徳川秀忠の責任とは言えないでしょう。
しかし結果として、関ヶ原の本戦で活躍した豊臣恩顧の武将らには恩賞(領地)を振る舞わなくてはならず、家康がご立腹となるのも無理はありません。
井伊直政と共に参戦した秀忠の弟・松平忠吉はバッチリ戦功を挙げているのです。
それと比べると秀忠の印象たるや哀しいものがありますが、この失態で後継者から外されることはありませんでした。
そもそも家康が激怒していた――というのも、ある種のパフォーマンスのような気すらします。
天下分け目の大事な戦いに参加してない者が次の将軍になっては、海千山千の戦国大名に舐められる。
そこで家康が「アイツはダメだ!」とブチギレまくり、“遅刻した秀忠”ではなく“激怒する家康”に目を向けさせたんですね。
漫画『センゴク』でお馴染みの仙石秀久などが秀忠擁護の役目を得て、ちゃっかり気に入られたりしています。
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実際、関ヶ原合戦の後に準備した島津征伐軍では総大将となっておりますし、他の重要事項でも秀忠の意見が優先されたりしています。
それは政治体制についても同様のことが言え、多くの有力者がその脇を固めるようになります。
ざっと挙げておきますと……。
・本多正信
・土井利勝
・酒井忠世
・大久保忠隣
・安藤重信
上記のような有力メンバーが補佐して、慶長10年(1605年)に将軍就任。
その後も家康の大御所政治が続きながら、徳川秀忠の治世が始まるのです。
側近の中でもとりわけ重要だったのが土井利勝でしょう。
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41名もの大名が改易に処される
土井利勝と徳川秀忠は、幼い頃から交流がありました。
徳川秀忠が生まれてすぐに土井利勝が近臣として側につくようになったのです。
この土井利勝は「家康の子供ではないか?」という説も根強いですが、土井家の人間として秀忠の家臣となったことが重要であり、利勝もまた秀忠だけでなく家康や家光ら江戸幕府のため働き続けました。
特に家康の死後は活躍めざましく、黒衣の宰相として知られる金地院崇伝が
「今は誰もが大炊殿(利勝のこと)に話を持っていく。利勝は人の話をじっくりと聞くのである」
と日記に記すほど。
では具体的に、秀忠の治世ではどんなことが行われたか?
当時はまだ武断政治と呼ばれ強硬姿勢で大名の処遇などが決められました。
例えば福島正則といった豊臣恩顧の武将だけでなく、本多正純なども含め、実に41名の大名が改易に処されるなどしております。
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元和9年(1623年)に徳川家光に将軍職を譲ってからも江戸城西の丸にあって大御所政治を実行。
紫衣事件(寛永4年=1627年)が起きるなど公家に対しても取締をすすめ、さらには家康時代から続くキリスト教の弾圧や、外国船の来航なども長崎平戸に限定しました。
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真新しいことは無い代わりに家康路線を厳格に継続した――ということが見て取れますね。
家光と忠長
最後に。
徳川秀忠自身は将軍就任に際して大きな障壁はありませんでした。
しかし、自身の息子である三代目将軍・徳川家光と徳川忠長については一悶着起きております。
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家光が嫡男でありながら、忠長の方が優れているから将軍になる――そんな噂が広まり、春日局が家康に訴えたことにより結局家光で収まったというドタバタがあったんですね。
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しかもその後、忠長がご乱心(輿の中から担ぎ手を刺殺するなど)を起こし、御家は改易、本人は自害へと追い込まれるのですからシャレにならない。
家光も、忠長も、母親は浅井三姉妹の江(ごう)とされています。
しかし、そこに問題がありました。
忠長は確実に江の息子だとしても、家光は実子ではないのでは?という見方があるのです。母体の出産ペースなどから考えて、家光が側室などの子である可能性を否定しきれないんですね。
ただ、だからといって一度嫡男にした人間をそう簡単に廃嫡にはできません。
たとえ側室の子でも、ひとたび正室(ここでは江)が自身の子供だと認めれば、嫡男として育てられるもの。それが基本的なルールであり、家光はあくまで嫡男でした。
なお、恐妻家で、女性は妻だけだったとされる秀忠ですが、実際は幾人か側室の子がおりました。
そのうちの一人が保科正之であり、会津松平家へと繋がっていくのですから、なんだか不思議ですよね。
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文:長月七紀
【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)