柳生宗矩

柳生宗矩の木像(芳徳寺)/wikipediaより引用

徳川家

柳生宗矩が剣豪の中で別格の出世を遂げた理由~悪役イメージから程遠い生涯76年

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大坂の陣――秀忠を守り抜いた柳生の剣

柳生宗矩は大坂の陣で徳川秀忠のそばにいました。

すると敵の兵が秀忠の陣へ乱入。

宗矩はあっという間に7人を斬り伏せ、主君を守り抜いた――と同時に、どうにも苦い出来事がその後起きてしまいます。

大坂城落城のとき、家康の孫娘である千姫が燃える城から脱出してきました。

秀忠は婚家に殉じぬ娘に苦い顔をしたものの、祖父である家康からすれば苦労をかけた孫娘ですからとにかく嬉しい。

この千姫を巡り、思いがけぬ事態が引き起されるのです。

千姫を無事に送り届けた恩賞として、坂崎直盛という武将が1万石を加増されました。

しかし、直盛はそれだけではおさまらず、千姫を奪う計画を立てたのです(【千姫事件】)。

千姫を助けた者は彼女を娶ってよいという条件がつけられていたとも、救出時に火傷をした直盛と結婚するのは嫌だと千姫が語ったともされていますが、どうにも話として盛られている感はあります。

いずれにせよ、何らかの不満があったのでしょう。

坂崎直盛/wikipediaより引用

そして計画は幕府の知るところとなり、坂崎直盛のもとへ説得に向かったのが柳生宗矩でした。

宗矩はどのように交渉をしたか?

直盛が自刃したら坂崎家は存続させるとか、奪い去るような真似をして恥ずかしくないのかと諭したともされています。

結果、坂崎直盛は自刃。

この功績により、宗矩は恩賞として坂崎の屋敷を賜ったものの、苦い結末を迎えてしまいます。

幕府は、坂崎直盛の自刃と引き換えに存続するとしていた坂崎家を取り潰してしまったのです。

事件後、柳生の家紋には坂崎のものであった二蓋笠が加わりました。

柳生家の替紋「柳生笠」/wikipediaより引用

「柳生笠」として知られ、恩賞として賜ったとも、坂崎を忘れぬためともされています。

宗矩は坂崎の者を庇護してもいるのです。

 

三代家光を教え導き 諸大名に目を光らせる

徳川秀忠には2人の男子がいました。

活発である弟・徳川忠長に対し、兄・徳川家光はどうにも消極的であるとされ、両親の秀忠と江は弟ばかりを寵愛したとされます。

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これに危機感を覚えたのが家光の乳母・春日局

徳川家康に訴えると、長幼の序を重んじるべきであるとされ、家光が次の将軍とされます。

そしてその剣術指南役となったのが柳生宗矩であり、兵法のみならず、精神性を高める教えを授けたとされます。

元和9年(1623年)、家光は3代将軍となりました。

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宗矩も、将軍剣術指南役にまでのぼりつめ、さらに出世は続きます。以下、リストにして確認してみましょう。

寛永6年(1629年)3月 従五位下に叙位・但馬守

寛永9年(1632年) 3千石加増・初代幕府惣目付(大目付)就任・老中および諸大名の監察を行う

寛永13年(1636年) 4千石加増により、計1万石の大名となる・大和柳生藩成立

寛永17年(1640年) 5百石加増・二男の友矩遺領分2千石加増も含め、1万2千百石となる

冒頭で触れた通り、宗矩の命日は正保3年(1646年)3月26日の享年76ですので、数えで70歳ぐらいまで幕府で働き続けたことが見えてきますね。

そしてその評価も大きいものだったのでしょう。

柳生藩は、代々の藩主が将軍剣術指南役として江戸にいるという、特殊な藩として明治維新まで続いたのです。

兵法家からここまで出世した人物は、宗矩しかいません。

彼が兵法のみならず、監視役としての能力を有することもあげられますし、宗矩には思想もありました。

 

剣禅一如、柳生の活人剣

兵法とは、ただ剣を振るものではない――そんな境地を見出してこそ、真の兵法家と言えるのでしょう。

柳生宗矩もそんな一人でした。

始まったばかりの幕府にとって、宗教勢力に対する規制を強めるのは重要な課題でした。かつてのように【僧兵】が猛威を振るった乱世に揺り戻すことはできません。

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その締め付けの一環として【紫衣事件】が起きるのですが、有罪とされ沢庵宗彭の赦免に尽くした人物として、宗矩もあげられるのです。

沢庵はその強い意志ゆえに叛いただけであり、教えと人柄は素晴らしいものがある。そのために赦免の動きも高まったのです。

その甲斐あってか、寛永9年(1632年)、秀忠の命により沢庵は許されました。

宗矩は家光と沢庵の面会のために尽力し、寛永13年(1636年)の家光上洛の際に実現しています。

家光は沢庵の教えに感銘を受けたのか、江戸で近侍するよう命じます。

家光の精神性を磨き上げた宗矩は、剣術のみならず人生の師としても信頼されるようになりました。

このことは宗矩の剣にとっても、新たな道を開きました。

宗矩の求めに応じ、沢庵は剣と禅を一致させる境地――剣禅一如を説いたのです。この教えは『不動智神妙録』として伝授されたと伝えられます。

殺人剣を振るわねばならなかった乱世が終わり、泰平の世にふさわしい活人剣が求められている。

宗矩は新たな兵法を見出したのです。

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