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【板倉勝重】
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猿楽の興行中、粗相をした客にブチ切れ抜刀!?
勝重はなんだかんだ言って戦国の武士でもありますから、温厚なだけの人ではなかったようです。
大坂の役については推進派だったり、禁中並公家諸法度が出たときには指導・監視を強化。
家康と秀忠の名で出された禁中並公家諸法度には何が記されてる?十七条すべてを確認だ
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「やるときはやる」タイプだったんでしょう。
出典がはっきりしない逸話の中には「京都の御所で猿楽(能)の興行があり、招待客の一人が粗相をして刃傷沙汰を起こした際、いきなりキレて刀を抜いた」なんてのもあります。
部下が間に入って何とか穏便に収まったそうですが、武士ってやはり怖いですよね。
75歳で息子・重宗に職を譲った
そんな感じで血気盛んな面もあった勝重でしたが、さすがに寄る年波には勝てず、75歳で息子・重宗に京都所司代を譲り隠居しました。
亡くなったのが4年後。
当時の寿命や「ギリギリまで現役だった」とみると、かなりタフな人だったのかもしれません。
若い頃はお寺暮らしで質素な生活だったでしょうから、頑健にできていたのでしょうか。
『板倉政要』には息子・重宗についての話も多く記録されています。以前取り上げた後光明天皇に諫言してやり込められた人ですね。
親子共に地味ではありますけれど……。知恵の使い方というか心の広さというか、そういうものは現代人も大いに手本としたいところですね。
なお、板倉勝重の息子・板倉重昌は【島原の乱】で諸侯の支持を得られず、自爆のような突撃で亡くなってしまいました。
最後の戦国「島原の乱」を制した知恵伊豆がエグい~板倉重昌は無謀な突撃で討死
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しかし、板倉家が滅びるようなことはなく明治時代まで家は続いております。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
板倉勝重/Wikipedia