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【本多忠真】
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難しい叔父と甥の関係
駿河や遠江へ侵攻してきた甲斐信濃の武田軍。
その猛攻により次々に支城を落とされ、さらには三方ヶ原へおびき出されたとされる徳川家康は、死を覚悟するほどの窮地に追い詰められます。
まさに絶体絶命に陥った、そのとき――
「ここからあとは一歩も退かぬぞ!」
殿(しんがり)を買って出たのが本多忠真でした。
家康の首を狙い、ひっきりなしに続く武田軍の猛攻。
そんな極めて厳しい苦境から、どうにか家康を戦場から離れさせた忠真は、ついに討死します。
無事に逃げおおせた家康が、その後天下を取ってゆく過程は、甥の忠勝が見届けることになりました。
今でこそ「この忠勝のおかげで家康は天下人になれた」というような見方もされたりしますが、それには忠真の存在や性格も大きく影響したのではないでしょうか。
戦国時代に限らず「叔父と甥の関係」は、しばしば問題が生じます。
・継ぐ一族がある
・兄が弟より先に亡くなる
・残された兄の子が幼い
泰平の世ならいざしらず、下剋上が横行する乱世でこうした状況を迎えると、叔父には野心が生じやすい。
幼い甥にかわって家を切り盛りしていた叔父が、自分の方が当主に相応しいと考え家を乗っ取り、甥を排除してしまう例はいくつもあります。
直近の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも典型例がありました。
跡継ぎレースは武家も公家も問題であった
和田義盛の父・杉本義宗は、和田義明の長男でした。
ゆえに本来なら三浦一族を率いる立場でしたが、この義宗が早くに亡くなったため、義宗の弟である三浦義澄が一族を継ぐことになった。
つまり甥である和田義澄は、叔父の三浦義澄に宗主の座を持っていかれたことになります。
しかし義澄の子・義村の代になると、宗家である三浦と、傍流であるはずの和田の力関係がどうにもあやしくなってきます。
和田義盛の方が年長であり、かつ幕府内でも発言権が強く、義盛が実質的宗主と見なされるようになったのです。
そして最終的に迎えたのが【和田合戦】でした。
三浦義村が北条義時と共に和田義盛とその一族を滅ぼす凄惨な結末を迎えたのは、ドラマをご覧になっていた方は記憶に新しいでしょう。
和田合戦(義盛vs義時)の結果は紙一重だった?鎌倉を戦場にした哀しき権力争い
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一方、騒動に発展しない叔父と甥の関係もあります。
大河ドラマで言えば2020年『麒麟がくる』に出てきた明智光安がその典型例ですね。
光安は、斎藤義龍に攻められると甥である明智光秀らを逃し、自らは城を枕に討死という印象的な最期を迎えています。
忠真の場合は?
手元に残された甥の忠勝はまだ幼児でした。自らが本多家当主の座に就いても、家の存続を考えればやむを得ないと見なされた可能性はあるでしょう。
しかし忠真はそうせずに甥を守り抜きました。
酒に溺れるようなアル中タイプどころか、人格者であることが伺えます。
2016年大河ドラマ『真田丸』にも注目しますと、草刈正雄さん演じる真田昌幸は三男でありながら真田家の家督を継ぎました。
兄二人が【長篠の戦い】で戦死したため、主君の武田勝頼にそう決められたのです。
このとき昌幸の嫡男・真田信之の妻は、亡くなった真田信綱の娘・清音院殿とされました。
いとこ同士で結婚することにより、三男の系統が家を継ぐ正統性を強くしたのです。
継ぐ家があるとなると、こうした配慮が必要となるケースもあります。
酔いどれサムライだったのか?
幼い甥を育て、彼らのために家を守り抜いた本多忠真。
前述のように彼は勇猛なだけではなく、人格者であることがうかがえるでしょう。
しかし『どうする家康』では「酔いどれサムライ」となり、最初から最後まで酒を片手にフラフラするような人物像でした。
いざ戦場ではスイッチが入ったように体が動く――ドラマ側では、そんなキャラ設定だったようで、まるでジャッキー・チェンの映画『酔拳』ですね。
たしかに戦国時代にも酒で失敗する人物はいました。
悪名高いのが福島正則の酒乱伝説でしょうか。
黒田家の母里太兵衛に飲み勝負をふっかけて名槍を取られたり、しまいには酔って家臣に切腹させたなんて恐ろしい逸話まで残されているほどです。
馬上杯と伝わっているものは三合入るとかで、大河ドラマ『風林火山』でも、陣中で酒を飲む上杉謙信の姿がありました。
他にも伊達政宗なんかもそうで
「酔っ払って家臣を殴っちゃった」
「二日酔いだから仕事休むね」
といった書状が残っているばかりか、細川忠興からはこんな風に呆れられています
「あいつの飲み方見ていると不安になるわ。酒で早死にするんじゃねえの?」
★
得も言われぬストレスがあったであろう、戦国乱世の時代。
酒に逃げたかったのは武将だけに限らず、兵士たちもなんとか工夫して飲んでいたようで、兵糧の穀物で酒を醸すことが禁じられた掟が残されているほど。
つまり上に立つ者は、その違反者がいないかどうか目を光らせなければならない立場であり、馬に乗りながら酒という描写は相応しいものではなかったと思えます。
宴会で酔い潰れて暴れる。
馬上で飲んでも軍神のような振る舞いを見せる。
そうした将なら理解できなくもありませんが、いざ合戦でも酔ってフラフラというのは……。
フィクションで特徴を際立たせるにしてもやり過ぎとしか思えず、甥の本多忠勝を世に送り出した本多忠真はそんな武将でなかったと信じたいばかりです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
柴裕之『徳川家康 (中世から近世へ)』(→amazon)
他