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お城野郎! 織田家 合戦

槇島城の戦いで足利義昭が見せた最後の意地 【シリーズ信長の城vol.8】

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戦国の革命児・織田信長の足跡を「城の展開・攻防」から読み解こうという【シリーズ織田信長の城】。

前回vol.7(コチラ)では琵琶湖を囲む水上ネットワークを構築し、安土城築城の前段階が完成したところまで紹介させていただきました。
年始から真田丸関連のお城を調査しておりましたので、随分と間が空いてしまいましたね。かなりタイムスリップ感は否めないですが、あらためて信長の城に戻りまして、今回は安土城築城以前に、この琵琶湖上のネットワークを存分に活用した攻城戦を見て参りたいと思います。

テーマはずばり、「将軍足利義昭との戦い(槇島城の戦い)」と、浅井久政、長政父子との「小谷城の戦い」。
今回はまず「将軍足利義昭との戦い」を紐解きながら、中世から近世へと変化していく城について確認してまいりましょう。

安土城はもうちょっと先になりますが、ここを押さえておくと、安土城の理解がより深まります!

 

京都を取り巻く畿内政治の闇について詳しく知ろう

信長と義昭の対立については一般的に――最近横暴になってきた信長に将軍足利義昭が反旗を翻して全国の戦国大名を巻き込み信長包囲網を形成して対抗するも、逆にフルボッコにされて京都から追い出され、室町幕府が終了した戦い――として知られています。

しかしこれだけでは、なぜ諸大名を抱き込んで完全包囲網を敷いた義昭が負け、孤立した信長が完勝した理由が分かりません。
そもそも多くの誤解が含まれていて、義昭も信長もその真の実力の半分も伝わっていません。両者の誤解も解きつつ、戦いの背景から経過まで見て行きましょう。

 

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「天下の仕事は義昭 軍事の仕事は信長」

信長の力を借りて第15代征夷大将軍に就任した義昭は真っ先に、自身の気に入らない「永禄」の元号を「元亀」に変えようと朝廷に働きかけます。元号は通常、朝廷と将軍の間で決められますが、「永禄」は当時の将軍、足利義輝に一言のことわりもなく、憎き三好家によって定められていたのです。
これまでも三好家は義昭の父で12代将軍である義晴を京都から追放し、兄・義輝を白昼堂々と殺害し、さらには義昭自身も本圀寺(ほんこくじ)で襲撃されるなど将軍家にとって天敵のような存在です。

しかしこの改元案に対し、信長は義昭の意に沿う考えではありませんでした。

信長「おいおい、個人的なトラウマで元号変えようとすんじゃねえよ。日本中が迷惑するだろ。てかどうしても変えたいなら『天正』一択だな!(超訳です)」

この信長の提案に対し義昭は、朝廷におねだりし、元号を「元亀」に変えてしまいます。信長が、若狭・越前遠征中という手も足も出ない時期を狙って強行したのです。
義昭が信長のことを「父」と呼び、信長が口うるさく政治にイチャモンつけてきても、天下の政治においては将軍優位に進められ、それを覆す権限がないことが分かります。

そして、やや調子に乗った義昭は、すでに信長が畿内から一掃したトラウマ・三好三人衆の再起を恐れ、大包囲網を勝手に画策します。

義昭は、三好三人衆が潜む四国を取り囲むように中国地方の毛利元就や九州の大友宗麟に御内書を密かに出し、畿内の「我が軍(当然、信長の軍勢です)と共闘で三好家を討伐せよ!」と命じたのです。

しかしこれは信長にソッコー見つかり、「余計なことをするな」とお叱りを受け失敗していまいました。

コチラ、信長の傲慢さがうかがえるエピソードとして取り上げられる一件ですが全くの誤解です。義昭が信長の軍事力に頼っている以上、相談もせず勝手に軍略を立てて、あとはヨロシクとはいきません。天下平定の大戦略は信長に決定権があるのです。

軍事については信長にほぼ全権があったことが分かりますね。

信長の城7-2

茶色の三好勢力を毛利(緑)、大友(青)、織田(赤)で取り囲むような義昭の構想は、壮大かつ無理があり過ぎてついていけません・・・/©2016Google,ZENRIN

将軍といえども流浪生活の長かった義昭に直臣は少なく、自前の軍事力の整備が遅れていました。畿内で将軍様としてふんぞり返るためには、自分に味方する大名の軍事力を背景にするしかなく、義昭にとってはそれが信長であり、畿内で無双状態の信長と手を組むことが最善の策だったのです。

このように義昭も信長もホンネはどうあれ、お互い利用価値のあるビジネスパートナーとしてオトナの関係が保たれており、決して将軍をないがしろにした革命児ではなく、最後まで幕府の秩序と将軍へのリスペクトは忘れていませんでした。

 

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信長の軍事力に陰りが見え始めるとオトナの関係はどうなるか!?

この後、信長は畿内に潜り込んだ三好三人衆を「野田・福島の戦い」であと一歩まで追い詰めながら、本願寺の突然の蜂起と比叡山まで押し出してきた朝倉家に背後を突かれ、三好家と渋々和睦。
続く「志賀の陣」でも延暦寺に陣を張った朝倉家、浅井家との長期戦をこじらせた末に和睦に持ち込み、最悪の事態を切り抜けました。

この頃から義昭は織田家の軍事力に不安を持ち始めます。

畿内一帯は信長の勢力圏でしたが、三好三人衆との和睦によって畿内の一部に三好家の勢力圏が生まれ、それがじわじわと拡大していたのです。

三好三人衆との和睦交渉のときに織田方の折衝役として活躍したのが、三好家宗家の三好義継や元・三好家家老の松永久秀です。これは織田家と三好家の関係以上に、分裂していた三好家同士に久々の和解をもたらしました。
三好義継の領地は河内半国、そして松永久秀の領地は大和一国。

キレ者の松永久秀ならば、さらに妄想を抱いたでしょう。
「ここで阿波、讃岐、淡路、摂津半国を支配下に置く三好三人衆と、河内の三好家宗家、そして大和の松永家が再び手を組めば、畿内の大半と四国が三好家の領地になり、天下の大半が我らのものになる。栄光よ、もう一度!」

信長の城7-3

三好家の構想。義昭の大包囲網構想よりも三好家の青写真の方がまだ現実的ですね/©2016Google,ZENRIN

 

義昭の感情を見誤った松永久秀

元サヤに戻った三好家と松永久秀は、ここぞとばかりに畿内乗っ取りを全力で開始します。元亀3年(1572年)、三好義継は河内を南北に半国ずつ分けていた畠山昭高の「高屋城」を攻めます。

高屋城は代々河内守護の居城で、そのためよく狙われたのでしょう。戦国時代では畿内でも随一の攻城戦の多い城です。

本丸は古代の前方後円墳を利用した大城郭でしたが、古墳は宮内庁管理のため、現在では高屋城に誰も入ることができないというマニアにとっても幻の城です。

三好家はこの高屋城を攻略し、河内一国を支配下に置きます。

また、三好三人衆を摂津に誘い入れた摂津池田城の池田知正も、家臣の荒木村重、中川清秀と共に、摂津三守護の一人・伊丹親興を伊丹城に押し込め、同じく摂津三守護の一人で、三好家討伐に出た高槻城の和田惟政を「白井河原の戦い」で敗死させます。

こうして三好三人衆の畿内復帰は、摂津を再び戦国の世に叩き落としたのです。

信長の城7-4

畿内が再び戦乱の世へ/©2016Google,ZENRIN

 

三好三人衆に四国から大軍勢を送り込む阿波三好家の家老・篠原長房は、摂津や河内、和泉など各地の国人衆に三好家に合力するよう調略し、畿内勢力をまとめます。

一方で、遠方の有力大名と手を結び、織田家を挟撃することも忘れません。

三好家は本願寺の寺内町の利権を保護して本願寺顕如と何かと仲良くしておりましたので、この本願寺顕如の妻(如春尼)と武田信玄の妻(三条の方)が姉妹同士という関係に着目、武田家とも手を組んで信長の背後をうかがったのです。

三好義継と松永久秀は『三好嫌いの将軍もこれだけ既成事実を積み上げればそろそろなびいて来るだろう』と考えました。

が、用心深い義昭はこれしきのことでは動きません。
動かないどころか摂津で破竹の勢いの荒木村重に講和の使者を立てた信長を支援するように、足利将軍家も荒木村重に使者を派遣します。また、河内、大和方面に出陣した信長に、義昭は数少ない直轄の援軍も出しています。

松永久秀はたまらず大和の信貴山城に、息子の久通は多聞山城に籠城。三好義継と久秀の誤算は、信長の危機への対応の異常な速さと、義昭の予想以上の三好嫌いでした。

信長の城7-5

©2016Google,ZENRIN

 

織田軍団に包囲された松永父子は結局、大和に籠ったまま出てきません。義昭は何食わぬ顔で信長の味方をしましたが、信長は畿内を大混乱に陥れた原因を、畿内勢力をまとめきれなかった将軍義昭の政治力や統率力の無さにあると考えます。また、織田家に内緒でコソコソと各地の大名に御内書を出してまくる義昭の姿勢にも不信感を抱きました。

一方の義昭も、織田家の軍事力に不安を感じながら、三好家による畿内支配も阻止したい。そのために地方の有力大名も積極的に巻き込んで上洛を促し、畿内の織田色と三好色をできるだけ薄めようと努めていたのです。

幸い織田家と敵対する朝倉家や浅井家、さらに遠方には武田家や上杉家、毛利家など足利将軍家をリスペクトしてくれる田舎、おっと失礼、地方の大大名は数多く存在します。
彼ら有力大名との友好関係をさらに強固に築き上げることで、義昭は織田家や三好家のカウンターとしました。

義昭が唯一使える武器は、諸大名に絶対命令が出せる「将軍御内書」しかありません。

このように畿内で三好家と組もうが織田家と組もうが、各地の諸大名と直接誼みを通じておくことが足利将軍家にとって最もリスクが低く生存可能な戦略だと分かります。
有名な信長包囲網も、全国に密書を飛ばして包囲網を敷くという壮大な陰謀を義昭が構想したというよりも、三好家の遠交近攻策に便乗しつつ、畿内での軍事力が相対的に下がってきた織田家と、畿内で再び勢いを増す三好家との勢力均衡の上で、義昭がふんぞり返って「どっちも気に入らないねぇ」と余裕を見せるため、各地の戦国大名を巻き込んだ結果に過ぎないのではないでしょうか。

 

信長の大義名分とは!?

元亀3年(1572年)9月、信長と義昭が袂を分かつ決定的な出来事の一つに、信長が義昭に対して17か条のきつ~い意見書を突きつけた出来事がありました。
この意見書は信長公記にも詳しく記されています。一言でまとめると「いい加減、将軍らしい仕事して下さい」という、至極真っ当な意見が書かれています。

信長は特に、朝廷に対する将軍の職務を懇々と説教しています。前述した通り、天下の政治、特に朝廷との調整は将軍の専権事項です。

17カ条の意見書の内容から、朝廷や貴族たちから将軍義昭に対する不満が相当出ていたことが分かります。

信長はこの朝廷の意向を大義名分とし、将軍の専権事項である天下の政治に物申したのでした。この時点でついに信長は、将軍の職務には踏み込まないというタブーに挑戦したといえるでしょう。

これは義昭に離反されたときに朝敵扱いされないよう、朝廷にいち早く根回しをするため、また各地の大名に手紙を送りつけて自らの正統性を宣伝する目的もあったとも云われています。情報戦の用意周到さで義昭は信長に既に遅れを取っていたのです。

 

動かざること・・・って、ついに山が動いてしもた!

元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて西進を始めました。

遠江をあっという間に席巻し、三河へ。
武田信玄の西進は、当初は三好家の依頼を受けた本願寺顕如からの要請と、近江で本願寺の権益を保護する関係にある浅井家からの要請で、上洛を促すというより織田家の背後とその同盟者である徳川家の領地を挟撃する目的で要請されました。

この反信長連合は三好家、本願寺、武田家、朝倉家、毛利家、浅井家、六角の残党、そして近江を中心とした寺社、国人勢力から成っております。

義昭は、信玄が「三方が原の戦い」で徳川家康を叩きのめしたタイミングで、この連立に乗っかっり、武田家に上洛を要請します。義昭は、ついに織田家でも三好家でもない、武田家という理想の軍事力をゲット! そして信長との断交を決意します。

このピンチを信長はどう凌いだのでしょうか?

信長の城7-6

紫色が武田軍/©2016Google,ZENRIN

 

各個撃破に必要なのはスピードだ!

将軍自らが信長に対して挙兵するという断交に対し、信長が取った戦略は、各地に散らばる敵に連携を取られる前に、各個撃破することでした。

各個撃破の戦術は軍の素早い移動と敵の分断工作が肝となります。

織田軍団の移動は他勢力に比べると元々かなり素早い方ですが、信長はさらにスピードを上げるために琵琶湖の水運を利用。佐和山城―坂本城間の琵琶湖上に舟を活用した進軍ルートと防衛線を構築しました。
これにより、湖北からやってくる朝倉、浅井家の琵琶湖上の進軍を阻止し、また陸路からの進軍に対しては佐和山城と坂本城で街道を封鎖して南下を阻止する分断工作に出たのです。

さらに信長は密かに荒木村重に摂津一国の支配権を約束して味方に付けます。

山城国でもすでに味方につけていた細川藤孝に、京都の将軍の動きを逐一報告させ、大和国では松永久秀を独力で破った筒井順慶を味方に獲得、大和国の中央にくさびを入れて松永家の多聞山城と信貴山城を東西に分断します。

この間、信長は相変わらず抵抗を続ける浅井・小谷城の包囲網を狭めつつ、横山城の羽柴秀吉や竹中半兵衛による北近江国人衆の切り崩しを行っておりました。

荒木村重に従う中川清秀、高山父子も密かに織田家への寝返りを画策します

荒木村重に従う中川清秀、高山父子も密かに織田家への寝返りを画策します/©2016Google,ZENRIN

この信長の分断工作に臆することなく朝倉家が越前から大軍勢を率いて北近江に陣を張れば、山城国での足利将軍家の挙兵と、武田信玄の西上は信長にとてつもないプレッシャーを与えるものになったでしょう。しかし、何を思ったか朝倉義景は「冬支度あるから帰りますわ」と荷物をまとめて越前に帰ってしまうのです。

これには武田信玄も激怒したと云われており、相変わらずの朝倉クオリティーにいぶし銀の戦国大名も振り回さっぱなしなのです。

しかし「信玄西上!」の報に、もう完全にお祭り状態の足利義昭は、ついに織田家に対して挙兵してしまいます。この一件からも朝倉義景より足利義昭の方が、地政学的な意味を理解し、極めて高い戦略眼を持っていたことが分かります。

 

将軍義昭による対織田家の戦略とは!?

元亀4年(1573年)2月、義昭は南近江の一向一揆を糾合して軍事力を増強します。

足利義昭の大戦略は、武田信玄と共に東西から織田家を挟撃することです。そのために信玄の尾張、美濃侵攻開始まで山城国および京都を防衛しなければなりません。

具体的な防衛戦略として、義昭は京へ通じる2つのルートを城郭を築城することによって遮断します。それが石山城(砦)と今堅田城(砦)です。

信長の城7-8

義昭が一人で考えたというより、三好家や本願寺の参謀がついていたのでしょうね。そのくらい的確な防衛線です/©2016Google,ZENRIN

 

石山城は古来より京都防衛の要衝である瀬田の渡し付近の伽藍山もしくは大平山(諸説あり)の山頂に築城されました。
一方、今堅田城は坂本城の北、ちょうど琵琶湖の両端が狭くなっている場所に築かれた湖城です。これは信長自慢の佐和山城―坂本城の琵琶湖水運のルートを遮断し、坂本城を孤立させることができます。

前回の記事で、坂本城の築城が京都防衛を永遠に確立させたと書きましたが、義昭と対立した今となっては、京都防衛の要から、京都侵攻の最前線の城となります。しかも比叡山の仏教勢力無き今、ほぼ無傷で洛中へ侵攻できる絶好の位置にあり、無防備な京の東側面は坂本城でがっちり押さえられています。
義昭にとっては、この坂本城を最初に無効化することで、京都を守りながら近江方面への道を開き、浅井家や朝倉家、そして武田家との連携が可能となるのです。

このように義昭は意外にも的確な防衛戦略を敷いています。

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ただ単に武田信玄の後詰を待つだけではなく、敵地に突出した要衝に2つの城を築き、陸上と水上の侵攻ルートを阻み、信長の京都侵攻をできるだけ遅らせるという積極的な防衛戦略です。浅井長政も少しは見習えと言いたいくらいですね。

 

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