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【大久保長安事件】
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後日譚
将棋好き
◆大久保氏は、家康にとって非常に関係の深い一族です。
その団結の強さで「大久保党」とも呼ばれ、三河時代から常に粉骨砕身、徳川のために働き続けてきました。
大久保忠隣は、そんな大久保一族で中心的存在(父は大久保忠世)。
徳川秀忠を二代目将軍に推し、江戸幕府でも重要なポジションを担っていく――そう思われた矢先に起きたのがこの【大久保長安事件】でした。
敵対する本多正信・本多正純らの手により長安一族の処分が進められ、その後は忠隣が、自らの不手際などもあり、慶長19年(1614年)1月19日、ついに改易へと追い込まれてしまいます。
要は、本多親子との権力闘争に負けたのですね。
上記マンガのように、旅館で将棋を指していたのは同年1月25日のこと。
改易に処された忠隣は、その後、近江上笠村(現草津市)や彦根で隠居生活を送ることとなりました。
彦根はご存知、井伊直政に任せられた近江の重要エリアであり、忠隣は、その息子・井伊直孝から何度も再出仕をすすめられます。
忠隣は潔白であるから名誉を取り戻すべき――。
直孝からそう言われるたびに忠隣は、こう答えたと言います。
今さら私の無実を証明しても、亡き家康の過誤を公にするだけ。
主君の恥を公言するのは臣下として不忠の極みである。
そして大久保長安事件から15年後の寛永5年(1628年)6月27日。
忠隣は、最期を迎えました。
享年76。
徳川政権樹立の功労者にしてはあまりに寂しい、されど見事な引き際だったのかもしれません。
続きは次週へ。
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著者:アニィたかはし
文:五十嵐利休
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