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女性 西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

美人すぎる尼僧・太田垣蓮月の歌は、西郷隆盛に無血開城を決意させた?

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幕末~維新にかけて。
江戸の城下を戦禍から守ったとされる「無血開城」。

文字通り、血を流すことなく(=徳川幕府と官軍が戦争することなく)江戸城を明け渡した――というものですが、このとき薩摩・西郷隆盛の英断に一人の女流歌人が影響を与えたという話があります。

太田垣蓮月(おおたがき れんげつ)

彼女の歌がどこまで西郷に影響を与えたのか。
その真相は不明ながら、歌が届けられたというのは事実です。

それは一体いかなる歌で、蓮月とはどんな女性だったのか?

彼女の生涯をたどってみたいと思います。

 

出家後は自ら歯を抜き美貌を貶めた!?

寛政3年(1791年)、旧暦1月8日。
後に蓮月となる女児は、まだ幕末動乱の薫りはしない平和な京都で生まれました。

もとの名を誠(のぶ)と言う幼子の彼女は、生後十日ほどで大田垣光古(てるひさ)の養女となります。
養母は早くに亡くなりました。

娘時代の誠は、活発で武芸もたしなむ、ちょっと変わったおてんば娘だったようです。

しかし、結婚してからの誠は運に恵まれない……どころか、ほとんど呪われてると言っていいほど過酷な運命が待ち受けておりました。

最初の結婚。
父・光古が、養子として望古(もちふさ)を迎え、誠の婿としました。

彼らの間に生まれた三人の子は夭折。
望古も離別後、ほどなくして亡くなってしまいます。

二度目の夫として、今度は古肥(ふるひさ)が養子に迎えられました。
が、彼も、その間に生まれた子供も、立て続けに亡くなってしまうのです。

何か呪われているんではないか。と、当時であれば、本気で疑ってしまうような、恐ろしいまでの不幸の連続です。
結果、この父娘は剃髪して出家し、父は西心、娘は蓮月と号するようになります。

その後ほどなくして養父である西心も亡くなり、蓮月が一人きりになってしまったとき、彼女は42才になっていました。

もともと蓮月は、その美貌さを知られておりました。
年を重ねても一向に衰えぬ蓮月の美しさに、下心を持って近づく男もいたそうです。
が、彼女はわざと歯を抜いて自らの美貌を台無しにして、誘惑から身を守り抜いたという逸話があります。

この話はおそらく作り話とされていますが、それぐらいのことはやりかねないほど気丈だったとか。

 

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人付き合いを避け転々とし、引越し魔と呼ばれる

蓮月は、岡崎村(現・京都市内)に移り住むと、生活のために陶器を作り始めました。

土をこね、ろくろを回し、出来上がったのは素朴な味わいのある器。
といっても、素朴というのは婉曲的な言い回しでして。彼女が最初に手がけたのは「きびしょ」、現代で言う「急須」でした。

当初の作品は酷いものでした。
子供の作品のように、ぐにゃぐにゃとしてうまく作れません。
それでも蓮月はあきらめず、作り続けました。

蓮月の作品は、洗練されているわけではありませんが、表面に自作の歌を釘で描いて焼くと、独特の味わいが出ました。

これが評判を呼んで彼女の名は世に知られるようになり、土産物として人気が出ました。
「蓮月焼」と呼ばれ、生活には困らなくなりました。

しかし人気が出るのも考えものです。
この器の作者は誰だろう?と人々が好奇心を抱き、彼女の家をたずねてきます。
と、彼女は嫌気がさして、さっさと引っ越してしまうのです。

あまりに引越しが多いため、次第に「屋越し蓮月(引っ越し魔蓮月)」と呼ばれるようになるほど。
その理由として「勤王活動のために身の危険を察したから」と言われることもありますが、単純に人付き合いに疲れたのが原因のようです。

そうは言っても、彼女が完全に孤独を目指したというワケではありません。
むしろありとあらゆる階層出身の文化人と交流があり、その中には勤王家もいれば、安政の大獄に連座した者も含まれていたのです。

そのため心ならずも「勤王歌人」と呼ばれたことがあったようです。

 

西郷隆盛の心をも動かす? 届けられた和歌

蓮月は、世を捨てた尼僧というわけではありませんでした。
世の中の動きは察していたのです。

ただ、彼女は達観した人物でした。

ペリーの来航を知っても驚くことはなく、「世の中を動かすだろうが、騒ぐことでもない」と落ち着き、悟りきった心境でした。
この時点でペリー来航がむしろ世の中をよい方向に進める可能性があるのだ、と冷静に考えていたのですから、凄い人物です。

蓮月は「自他平等」という仏教思想を持っておりどちらかだけに味方するわけではありませんでした。
むしろ人々が争っていたらば、両者ともに憐れむような考えを持っていました。

慶応4年(1868年)1月。蓮月のもとに、鳥羽伏見の戦いの知らせが飛び込んできました。
蓮月は怒り、また心をいため、和歌を短冊にしたためました。
そして薩摩藩士のつてを頼り、この短冊を西郷隆盛に届けさせたのです。

あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば

 

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動かしたとは言えないが、響いてないとも言えず

技巧も何もない、ストレートな、だからこそ胸を打つ歌でした。

この歌を読んだ西郷はどう思ったのでしょうか。
それはわかりません。

この歌こそ、西郷を江戸城無血開城に導いたとされることもありますが、流石にそれは話が大げさである気はします。
しかし、まったく西郷の心に響かなかった、とも言えないような、そんな力を感じます。

蓮月の嘆きとは裏腹に、日本は戊辰戦争の泥沼の中に転げ墜ち、同じ国の同士が殺しあいました。
そんな内戦の悲惨さを歌に託したのが、蓮月なのです。
もしもこのとき、誰もが彼女の歌と同じ考えを抱いていたらば、いくつの命が救われたことでしょうか。

明治8年(1875年)、蓮月は85才という長い生涯を終えます。
夫や我が子をはじめとして多くの人々に先立たれた生涯でした。

が、実り多く感性の輝きに満ちた一生であったのではないでしょうか。

文:小檜山青




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【参考文献】

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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