長州征討

長州征討に出向く幕府軍(高田藩)/wikipediaより引用

幕末・維新

長州征討で別れた明暗|長州藩は復活し幕府は凋落した 天下分け目の戦い

2025/07/22

もしも江戸幕府が存続できるとしたら何をどうすべきだったか――。

そんな”if”を考える幕臣たちの、たどり着く答えはいつも同じでした。

「あのとき長州をきちんと潰していれば……」

これは幕府側だけでなく、長州側も意識していたことでしょう。

長州は潰される寸前、まさに首の皮一枚。

そんなところで幕府のオウンゴールで勝てた。

幕末の最終局面における長州藩は、薩摩藩と違い、佐幕側に徹底して厳しい態度をとり続けています。

なぜそこまで苛烈になったのか。

「もしも幕府のように寛大な対処をしたら、逆襲されるかもしれない」

特に【長州征討】であと一歩のところまで追い込まれながら、詰めの甘かった幕府に助けられた長州は、常にそんな恐怖を抱いていたのです。

それはまさに薄氷を踏む、逆転勝利。

一方で、グダグダと腰が砕けてしまい、崩壊へと導かれてしまった幕府。

両者の趨勢が交錯した二度に渡る長州征討では一体何が起こっていたのか?

元治元年(1864年)7月23日、朝廷から幕府へ命が下されることによって第一次が始まった、長州征討を振り返ってみましょう。

 


まずは5W1Hで長州征討の概要確認

まずは5W1Hで概要だけスッキリさせておきたいと思います(以下、本文は西暦表記で)。

【長州征討の5W1H】
Who:江戸幕府 vs 長州藩
When:◆第一次 1864年8月24日〜1865年1月24日
◆第二次 1866年7月18日〜10月8日
Where:長州藩(周防国・長門国)
Why:長州藩の暴走に激怒した孝明天皇および朝廷が幕府に討伐を頼む
How:結局ろくに戦いもしないまま、不発に終わる。幕府側の自滅
What:幕府権威の決定的失墜、薩摩が長州と手を組み、後の倒幕へ

実はこの事件が2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』で注目を浴びる可能性があります。

このとき、幕閣でも策を練っておりました。

「フランスに借款してでも長州は絶対に潰すべきである」

そう主張していたとされるのは、主役を務める小栗忠順です。

これに対し、その「ライバル」ともされる勝海舟は、明治になってからこの策を否定しています。

「フランスに助力を求めれば、その後、政治介入を招くリスクもあるだろう。そもそもフランスが本気で助けるわけがないだろう」

さて、どちらの言い分が正しかったのでしょうか。

 


孝明天皇 長州の横暴に激怒

そもそも、なぜ長州藩は幕府の征伐対象となったのか?

発端は【八月十八日の政変】あたりから議論されてきました。

簡単に要約しますと、長州藩過激派が暴走し公卿と手を組み、偽勅を乱発したことが、孝明天皇の逆鱗に触れたのです。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用

確かに当時の長州藩過激派は、久坂玄瑞らを筆頭にやり過ぎでした。

すでに詳細記事が他にあり、重ねる部分も含めて説明させていただきますと……。

八月十八日の政変で京都を追い出された長州藩は、その後、懲りずに池田屋事件でテロ計画を建てようとします。

そこへ突撃してきたのが新選組であり、近藤勇永倉新八などが大活躍。

続けざまに長州藩は天皇を強引に連れ出そうとして【禁門の変】に発展、ほどなくして長州征討へと追い込まれるのです。

ざっとチャートにしておきましょう。

1863年 八月十八日の政変

1864年 池田屋事件

1864年 禁門の変

1864年 第一次長州征討

1866年 第二次長州征討

すべては長州藩の暴走行為が影響しております。

特に孝明天皇の怒りはひどく、元治元年(1864年)正月、参預会議で長州征討は決定されました。

しかしこの計画は参預会議の崩壊と共にお流れになってしまいます。

この辺りのすっきりしない状態は以下の松平春嶽の記事でご覧下さい。

松平春嶽(松平慶永)
幕末のドタバタで調停調停に追われた松平春嶽(松平慶永)生涯63年まとめ

続きを見る

結論から申しますと、ともかく【禁門の変】は決定的でした。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用

よりによって長州藩は御所へ砲撃したのですから、とんでもない行為でしょう。

生来が生真面目な会津藩は、孝明天皇の意志をくみ取り、絶対に長州藩が近づかぬよう、さらにガードを固めたのでした。

しかもこの時期、長州藩のやらかしは、他にもありました。

 

下関戦争

やらかしとは他でもありません。

「下関戦争」です。

1863年、1864年、長州藩は四国艦隊に襲来され、完膚無きまでに叩きのめされる屈辱を味わいました。

それまで血気盛んに「攘夷!攘夷!」と叫んできた過激派も、事ここに至って現実に直面。

「やっぱり、攘夷は無理ではなかろうか……」

と意気消沈します。

連合艦隊によって砲台を占拠され/wikipediaより引用

下関戦争の和睦交渉で「高杉晋作が魔王のようだった」と、相手を圧倒させた話は今も非常に人気があります。

あのエピソードは国民的大作家がアーネスト・サトウの日記を切り貼りしたもので、本当は愛想が良かったとも伝わっています。

哀しいかもしれませんが……実際に該当箇所を読んでみても、サトウらが圧倒された節はありません。

しかし、長州藩にとって屈辱的完敗だったこの戦争。

実は、幕府にとっても痛恨としかいいようのない顛末となっています。

下関戦争の結果、幕府(日本)が以下のようなダメージを食らったのです。

1. 関門海峡の自由な通行が認められる

2. 石炭・水・食料の補給が可能となる

3. 関門海峡の砲台修理・新設禁止

4. 莫大な賠償金の要求

次々に国土を脅かす要求がなされ、さらには下関が勝手に自由貿易港とさせられそうになり、幕府もそれだけはなんとか阻止しました。

代わりに莫大な賠償金をむしりとられるわ。

おまけに長州藩は急速に外国勢力に接近していくわ。

まさしく踏んだり蹴ったり。

子供の不始末を弁償させられる親のようなもので、幕臣の中には「下関戦争は(長州藩が仕組んだ)八百長なのか?」という声があがるほどでした。

長州藩の過激な攘夷行動が、結果的にここまで危険な事態を招いていたのです。

同時に、イギリスにも思惑がありました。

当時の外国人たちは、日本にはミカド(天皇)を中心とする勢力と、タイクーン(将軍)を中心とする幕府があると見抜いておりました。

そんな列強の中でも、イギリスは為すべきことがありました。

イギリスとロシアはチェスに例え【グレートゲーム】と呼ばれる国際的な外交戦を展開しています。なんとしても極東に足掛かりを作り、ロシアを牽制できれば実にうまい話です。

ロシアとイギリスについていえば、幕府はアメリカのペリーよりも先んじて注視していました。

二カ国の外交状況も把握しており、狼とヒグマのようなこの二カ国とだけは距離を近づけすぎないよう警戒していたのです。いずれかに肩入れすれば、危険な状況に巻き込まれかねないのです。

そこを踏まえつつ、幕府は消去法でフランスを同盟相手として選んでいました。

こうなると、イギリスとしては面白くない。さらには薩摩藩士が【生麦事件】でイギリス人を殺傷してしまったものだから、ヴィクトリア女王が激怒します。

開戦をけしかえる女王を宥めつつ、イギリスは薩摩を攻撃し薩英戦争となります。

この和睦の席で、イギリスは確信したのでしょう。話の通じそうな薩摩に倒幕をけしかけクーデターを起こし、自国に親和的な新政権を打ち立ててはどうか。

実にうまみのあるシナリオが組み立てられてゆきます。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用

このあたりも、なかなか複雑でして。

前述の通り、小栗忠順は長州を叩きのめす秘策がありました。しかし、それには金がかかる。そこでフランスから借款をしようと話を進めておりました。

勝海舟曰く、フランスが政治介入するのではないかとを察知し、この借款を取り消したとのこと。しかし、これはあまり信じて良い言い分とも思えません。

むしろ水面下では、イギリスが動いています。

イギリスは幕府を倒し、新政権を樹立させたい。そのため薩摩に接近します。フランス側も政治情勢が変動し、幕府に対し懐疑的になってゆき、ついには借款が取り消されてしまいます。

とはいえ、幕府の背後には孝明天皇がいる――黙って見過ごすことはできません。

このあたりには京都と江戸に分裂してしまった、幕府の政治体制におけるねじれがあります。小栗はじめ江戸の幕僚は、自分たちの見識で政治を進めています。

一方で京都の一橋慶喜は、得意のパワーゲームで権力を掌握しようとします。孝明天皇が信頼している松平容保を推したて、天皇の権威を笠にきて物事を進めようとしたのです。策士策に溺れるという、慶喜の思惑が裏目に出てしまいました。

 


第一次長州征討

長州藩の横暴に激怒した朝廷は1864年8月、幕府に【長州征討】の命を下しました。

ついで有栖川幟仁親王ら親長州派の廷臣も処罰しました。

このあたりが、幕末史の面倒なところなのですが……このように孝明天皇から激しく嫌われた側が「後の明治維新では勝利者」となり、真の尊皇忠臣扱いされたりします。

一方で、孝明天皇の意志を受けて動いていた皇族や朝臣が、逆賊扱いされるようになる。

そういう逆転、ねじれ現象が発生しています。

当時は、

我こそが、まことの忠臣である――。

という自負のあった長州藩にとって、孝明天皇に激怒されてしまったことはあまりに痛い現実です。

そこで彼らは、ねじれた感情を変化させ、

「孝明天皇を誑(たぶら)かした会津が悪いんじゃ!!」

と、なってゆきます。

重ねて申し上げますが、このへん幕末史でかなり勘違いしやすいところで、非常に重要な局面ですね。

前述の通り、京都のいる家茂とその背後の慶喜は、孝明天皇の意向となれば動かざるを得ません。

禁門の変直後、朝廷から命をうけた幕府は、まず西国21藩に長州への出兵を命令、将軍の徳川家茂自らが進発を布告しました。

徳川家茂/wikipediaより引用

第一次長州征討の始まりです。

征長総督は前尾張藩主の徳川慶勝であり、副将は越前藩主の松平茂昭。

15万という大軍であり、長州藩は為す術なく降伏の道を選ぶしかありません。

結果、長州藩主である毛利敬親・世子定広および支藩主の官位を剥奪しました。

これはかなり厳しい処分です。

そもそも長州藩内部では、禁門の変(1864年7月)で久坂玄瑞ら過激派が壊滅状態となっております。

そこで幕府側は、益田右衛門介・福原越後・国司信濃(くにししなの)たち三老臣の切腹と首級の提出を要求しました。

 

長州藩主父子の命を要求すべきだった?

幕府は、長州藩主父子の命までは求めませんでした。

幕末でそんなことまで要求すればもう引き返せない。つまり大規模な衝突不可避の、最悪の要求となってしまうリスクが高かった。

それは【薩英戦争】で、薩摩がイギリスと戦わざるを得なかった理由を考えればご理解できるかもしれません。

当初、薩摩は「島津藩主父子の首が求められている」と誤解したため、これは絶対に後には引けないぞ!となって戦闘へと突入したのでした。

実際にイギリス側が要求していたのは「生麦事件の実行犯」の逮捕です。

生麦事件のイメージ/国立国会図書館蔵

藩主の首ではなかったんですね。

そうした勘違いから両者は薩英戦争に至り、その後はwin-winの関係を築いたので、まぁ、結果オーライかもしれません。

たとえば会津藩主の松平容保にしても、長州藩主父子の命を要求しては武士として引き返せない――として寛大な処置を求めているほどです。

しかし、幕府や会津にとってはその甘さが、のちに跳ね返ってくることとなります。

 

第二次長州征討

第一次長州征討の後、第二次は西暦で1866年7月18日〜10月8日の間に行われました。

第一次に関しては、効果がなかったわけではありません。

長州藩は首の皮一枚を残し、復活の芽までは摘み取れなかったとはいえ、ある程度、成功はしています。

だからこそ、幕臣たちは悔しがります。

「あのとき、長州を、立ち上がれなくなるまで叩いておけば!」

そして第二次長州征討へと繋がるわけですが、第一次と第二次の間には、幕府の知らない様々な要素がありました。

特に大きかったのが薩摩の動きでしょう。

◆イギリスによる倒幕勢力への接近

◆薩長同盟の締結

薩摩が長州と秘密裏に手を結んでいたんですね。

薩長同盟というと、薩摩と長州が倒幕を決意した――と誤解されがちですが、同盟の段階でそこまでの意思はありません(詳細は以下の記事へ)。

薩長同盟
薩長同盟は倒幕のために締結されたワケじゃない!龍馬が西郷と木戸を繋いだ理由

続きを見る

ただし、薩摩が、長州と戦う気がないということは確か。

それでも幕府は、第二次長州征討に薩摩の参戦も求めていたのですから、なんとも酷いことです。

幕府が甘かったのか? そうとも言い切れません。11代将軍である家斉の御台所は、薩摩出身の広大院でした。これ以来、薩摩藩は外様大名でありながら最も幕府に近い存在としてアピールしています。

川路聖謨ら幕臣は、のちに薩摩を裏切り者だと憤りを込めて振り返っています。はじめから幕府に抵抗していた長州はまだましだ。しかし薩摩は途中から裏切った。なんと卑劣な連中なのかーーそう思われるだけの理由はあるのです。

なお、この薩摩の裏切りには責任を求められるべき人物がいます。一橋慶喜です。

家定の後継をめぐり、薩摩藩の島津斉彬は慶喜を熱心に推しました。これは失敗に終わるものの、そんな兄の意を汲んだ久光は、慶喜と共に京都で政治を行おうとします。

あるとき慶喜は泥酔した挙句、久光を罵倒しました。これにより、久光はもはや慶喜と訣別する意を固めたとされます。

それまでは己の目を盗んで政治工作をする藩士を処断していた久光ですが、「もうよか」とゴーサインを密かに出すようになってゆくのです。

何も知らない幕府軍は、軍艦から大島を砲撃し、芸州口・石州口・小倉口から攻め込みました。

第二次長州征討は「四境戦争」とも呼ばれ、高杉晋作はじめ多くの英雄が暴れ回った舞台とされています。

滅亡寸前まで追い込まれて彼らの士気は非常に高かったとされます。

高杉晋作の「功山寺挙兵」は幕末もの定番の名場面です。この挙兵の場所はそもそも「功山寺」であったのか。そういった論争もありますが、そんな些細なことよりも重大な検討すべき事項があります。

イギリスと背後で手を組んでいる薩摩藩は、最初からやる気がない。

小栗がフランス借款でどう戦うつもりだったのか。彼が海軍力を使うつもりであったことは推察できます。なにせ、当時の幕府海軍は際立って強いのです。

この海軍を使われたら勝てない。そう察知していたのはイギリスでした。

「海上戦闘にわが国の艦船が巻き込まれては困ります! 海軍は使わないでいただきたい」

そう諸国が合同して幕府に陳情し、海軍という最強の切り札が封じられてしまいました。

幕府は圧倒的な不利の中で、戦うほかありませんでした。

そして第二次征討が始まってから約1ヶ月後、幕府軍にとっては致命的な不運に見舞われます。

生真面目な名君とされていた徳川家茂が薨去してしまったのです。

 

なぜ幕府は敗れたか?

家茂の死を受け、勝海舟はひそかに「これで幕府は終わった」と記しました。

家茂没後、将軍の座が巡ってきた一橋慶喜は狼狽し、さんざん嫌がった末にやっと引き受けることになります。

家定のあと、将軍継嗣をめぐり、「慶喜こそ英明で将軍の座に相応しい」とさんざん喧伝されてきました。しかしいざ蓋を開けてみると、全く向いていないことを幕僚たちは思い知らされることになります。

ましてや慶喜によってさんざん振り回されていた松平春嶽は、己の過ちを苦い思いと共に噛み締めるしかなかったことでしょう。

もはや、合戦を続けるわけにもいかず、朝廷の仲介を経て長州藩と休戦を結ぶのでした。

第二次長州征討は、かくして幕府の権威失墜という結果に終わるのでした。

徳川慶喜(左)と島津久光/wikipediaより引用

間に立った松平春嶽も心がポッキリ折れてしまい、当初は倒幕の意志がなかった久光も、ついには「幕府などもう要らん!」と決意を固めてしまうのでした。

そして長州藩を憎み続けた孝明天皇も、慶応2年(1867年)に崩御してしまいます。

一会桑政権が崩壊してしまうと、その後、慶喜は自己保身に走り、会津と桑名は滅びの道へ。

長州を叩き潰すことに失敗した幕府の権威は失墜し、もはや瓦解の道しかありませんでした。

 

小栗忠順の策は二度却下される

歴史に”if”はありえない。

それでも江戸幕府が言うとしたならば「あのとき長州をしっかり潰していればよかったのに」となりましょう。

幕府海軍は、戊辰戦争まで実質的に一強でした。これがイギリスの不可解なことですが、実は海軍はフランスのみならず、イギリスの指導も受けています。

陸軍にせよ、フランス式調練とシャスポー銃を投入しており、十分に強かったといえる。

ただ、最後の将軍である慶喜の腰が引けていました。小栗忠順は慶喜の袖を掴み、「我が策を用いて迎撃すべし」と訴えるも、慶喜はすげなく断ってしまいます。

このあと徳川慶喜の首は繋がったものの、そうならなかったものもおります。

もはやこれまでと悟った小栗は自領に隠棲し、世の転変を見つめるほかありません。彰義隊を率いる渋沢成一郎が助力を頼んでも、首を縦には振りませんでした。

それにもかかわらず、そんな小栗を危険視したのか、あるいは功を焦っていたのか。新政府軍は彼を捕え、ろくに取り調べもないまま、冤罪を着せて斬首刑に処したのでした。

松平容保はじめ、かつて長州と敵対した勢力も、恭順の意を示しました。天皇の世になるのであれば従うほかないと理解していたのです。容保は藩主の座も退いていました。

しかし、長州藩は振り上げた拳を下ろしたくない。会津にこう迫ったのです。

松平容保の首を差しだせ」

そんな長州藩の厳しい態度は、会津藩を救うべく奥羽越列藩同盟を結成した東北諸藩にとっては受け入れがたく、また、到底理解も出来ないものでした。

長州藩は完全に相手を潰さねば、会津に仕返しされるかもしれないと思ったのかーーと、言いたいところですが、それだけでもありません。

進軍する新政府軍の背後には、金勘定をするイギリスがおりました。幕末動乱のころ、アメリカでは南北戦争が終結。そこで使われて余った武器を極東の内戦勢力に売りつければ、濡れ手に粟で儲かるのです。

そのせいで人命が損なわれようと、さして気にも留めなかったのでしょう。

この成し遂げた一連の流れは、「無血革命」とすら明治新政府によって喧伝されることになります。白人の意に添わなかった命はカウントしないということであれば、確かにそうなりましょう。

しかし、2020年代にもなって、そんな理屈は通りません。

2027年に『逆賊の幕臣』が放映されれば、視聴者の多くはそのことを再確認することでしょう。

小栗忠順の胸中にあった、長州征討における策と、新政府軍迎撃策は、二度も却下されます。

彼からすればなんと無念であったことか。そう視聴者は噛み締め、歴史の見方まで変えることになるのかもしれません。


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【参考文献】
野口武彦『長州戦争 幕府瓦解への岐路 (中公新書)』(→amazon
一坂太郎『明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』(→amazon
半藤一利『もう一つの「幕末史」』(→amazon
『国史大辞典』

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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