2018年夏、歴史好きの間で、こんな記事が賛否両論を巻き起こしました。
◆「明治維新150年」を祝わない日本人の不思議 東洋経済オンライン
そもそもこの記事については、問題があります。フランス革命と明治維新を並列にしていることです。
ちょっと冷静に考えればわかることで、フランス人全員がフランス革命を祝いますか?ってなもんで、祝わない王家支持者だって当然おります。
明治維新も同様。
当時、幕府を支持していたのがフランスで、薩長支持がイギリスでした。
両者が戦った場合、
幕府勝利=フランス式政府
薩長勝利=イギリス式政府
という図式となり、いずれにしても西洋流の政府が成立しえたのです。
それが明治維新の本質ですから、負けた方に祝う気力が湧いて来ずともおかしくありません。
しかもややこしいのは、明治政府の川路利良以下が、当時から【思想統制につながりかねない】とみられていたフランス式警察組織を導入したところ。
後に、政府に反発する自由民権運動主義者あたりからすれば、この警察組織導入は、理想の西洋式自由闊達な世界からほど遠いものでした。
ともかく明治維新は、フランス革命のような西洋流革命とは別物。
薩長が中心であるため西高東低の図式となり、明治政府が東北、北海道、樺太に対して無関心であったことは否めません。
その姿勢は、地方住民、特にアイヌ民族に大打撃を与え、実質的には江戸期まで日本領だった資源豊かな樺太が、ロシア領(一時期ソ連領)として失われる契機ともなりました。
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明治時代に打撃を受けた東日本出身者やアイヌ人が活躍する、漫画『ゴールデンカムイ』がアニメでも世界規模のヒットを果たし、明治政府の北海道政策矛盾点を衝いているのも、興味深いところです。
※TVアニメ「ゴールデンカムイ」PV第1弾
明治維新を祝う祝祭や行事は西日本中心。
東日本はむしろ、自分たちの正義や武士道を高らかに宣言しています。
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◆戊辰150周年記念ドキュメンタリー作品_トレーラー映像
そんな最中、薩長のように維新に乗るわけでも、会津のように武士道に振り切るわけでもない自治体も存在します。
明治政府から切り離され、自由民権運動に懸けた土佐藩(→link)。
英主・鍋島直正(閑叟)のもとで幕末トップクラスながら、「薩長土肥の“肥”って何?」と言われがちな佐賀藩(→link)。
そして、今回取り上げたいのが福井藩(→link)のある人物になります。
福井藩には、賢人が多く、理想的な藩政改革のみならず医療改革すら行い、幕末政治史においてもしっかりと存在感を示しました。
しかし……。
幕末史においてイマイチ目立たないッ!
名君・松平春嶽以下、佐幕派であったことや、アピールよりも実務重視だったせいか、偉人が散ってしまったせいなのか。
何かと地味な存在になりがち。
そんな幕末福井藩において、坂本龍馬もプッシュしたのが由利公正(ゆり きみまさ)でした。
日本初の財務大臣であり、明治東京の煉瓦街といった都市計画にも一枚噛んだ、知性溢れる財政マン。
彼もまた、かの名君・松平春嶽に見いだされた福井の傑物でした。
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福井藩財政を立て直した男・由利公正
のちに初代財務大臣となる由利は文政12年(1829年)、百石取りの御近習番嫡子として生誕。
西郷隆盛より1歳下、橋本左内よりは5歳上にあたります。
幼名は義由。
初めは三岡石五郎と名乗った由利が、ビビビと来たのは、1847年(弘化4)に来藩した横井小楠の教えを学んでからのことでした。
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福井藩の財政も、横井先生の教えを元に改革すれば出来るのでは?
そう思いついた由利は、財政チェックを開始します。僅か20歳くらいの青年が張り切ったわけです。
しかも由利は、武士として体力作りも怠りません。
馬術、剣道、槍術、冬の鴨狩り。ありとあらゆる武芸の場で、やたらと興奮しハッスルしまくる由利は目立っていました。
西洋砲術の演舞で死傷者が出て、他の人々が怯えたあとでも、彼は「一度の失敗で見限るな」と率先して入門訓練を続けたほどです。
タフでなければ武士じゃない――そんな気合いを、学問でも武術でも、存分に発揮しておりました。
このような気合い十分の若手武士を見守る環境があったのも福井藩の特徴です。
若手藩士間の交流も活発で、由利は、橋本左内とも意気投合。
松平春嶽も熱心に関わった「将軍継嗣問題」でも、共に熱意をあげていました。
しかし、左内はこの問題の弾圧(安政の大獄)のため斬首刑で命を散らします。
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左内の志は、由利の中に残りました。
そうした感傷的な話だけではなく、横井から学んだ財政知識で、幕府の懐も確認できるようになっておりました。
商才冴え渡る
明治維新の後、「武士・士族の商法」という皮肉な言葉が流行します。
士族授産によって商業に従事した旧武士は、失敗連発。
「刀を算盤に持ち替えても、あのザマさ」
と皆が失笑したものです。
この諺は、不慣れな事業などに手を出した者が、下手くそで偉そうな失敗をすることをさすものとなりました。
しかし、です。
この諺をもって武士=商業下手と決めては早計です。
由利を見てみましょう。
「将軍継嗣問題」敗北の翌安政6年(1859年)。
由利は長崎に出張し、「越前蔵屋敷」を設立しました。オランダとの交易を始め、生糸や醤油を販売したのです。
幕末当時、欧州旅行中の福沢諭吉は、オランダで醤油を購入し大喜びしております。もしかしたら、福井藩産のものだったかもしれませんね。
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このあたりの商売感覚が最高ですね。
幕末に勇躍した薩摩藩も、南北戦争後にアメリカから生糸を買えなくなったイギリス相手に売りさばいて一儲けしています。
ゲットマネーしたいなら、西洋との交易は必須です。
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由利も、輸出をより強化したかったのでしょう。
藩内でも、物産総会所をつくり、養蚕事業の奨励等をしています。
実際、明治42年(1909年)に日本は清を上回る絹生産量となり、その輸出を外貨獲得の大きな商材としました。
由利のセンスの冴えが伝わって来ますな。
彼は10年間の財政改革で、90万両という福井藩の借財を帳消しにし、黒字転換した実績もあります。
商才の冴え渡りはダテではなかったんですね。
福井発マネーの虎は坂本龍馬とも仲良しに
しかし、当時の福井藩は幕末政治に深く関与していたため、由利も浮沈を経験します。
文久2年(1862年)、島津久光による幕政改革。
このとき、政事総裁職にあった慶永に対し、由利は列藩会議を建議するのですが、翌年は藩論が一変してしまい、一時、幽閉蟄居を命じられてしまうのです。
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ひそかに薩長支持を取り付けようとした――それが失脚の原因となったようです。
謹慎中はさすがに停止するかと思われた由利の活動も、世間は放置しません。
土佐藩から、意気盛んな青年藩士・坂本龍馬がやって来て、彼と話し込んだのです。
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海援隊の坂本が、先進性あふれる由利に心惹かれるのは当然のことでしょう。
経済政策を語り合いながら、この二人で「五箇条の御誓文」原案をまとめたとも伝わります。
「こりゃあ福井の由利公正殿に財政を任せたらええ!」
そんな坂本の推挙が、明治新政府に届いたのでしょう。そして……。
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