討幕の密勅

徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

疑惑にまみれた討幕の密勅! なぜ大政奉還と同日に出されたんだ?

天皇の世を作るべく、幕府の将軍・徳川慶喜を倒せ――。

学校の授業で習う【江戸幕府の終わり】って、そんなイメージがあります。

薩摩と長州が天皇にお願いされ、嫌われ者の慶喜たちをやっつけろ、みたいな。

しかし、実際はさにあらず。

慶喜は孝明天皇から非常に信頼されておりました。

それよりもその年の10月、なんだかキナ臭い動きが起きていたのを、ご存知でしょうか?

・朝廷へ政権が返上となった大政奉還が慶応3年(1867年)10月14日

・幕府を倒すよう薩長に命令が下された討幕の密勅(とうばくのみっちょく)も慶応3年(1867年)10月14日

両者は同日――って、なんだかおかしいと思いません?

幕府が政権にしがみついて仕方ないから、それを止めさせるために「討幕の密勅」を出すならわかる。

でも、徳川慶喜は【大政奉還】に応じている。

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もしも政権が返上されるのならば、討幕の密勅などは不要。だって倒すべき幕府はもうないのだから……。

なんだか妙でしょう。

薩摩藩や長州藩は、明治天皇からの勅をもとに東へ兵を進めたとされますけど、なんだか話の筋が通らないのでは?

そんな疑問だらけの【討幕の密勅】について、できるだけわかりやすく考察してみたいと思います。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

そもそも倒幕は天皇のご意志なのか?

明治維新は、武家から天皇に支配権を取り戻した――と考えられております。

しかし、これをそのまま受け取るには多くの問題点もあります。

というのも、その直前の

【孝明天皇が倒幕派ではなく、討伐したかったのはむしろ長州藩】

だったからであります。

たしかに孝明天皇は、攘夷を望んではおりましたが、幕府については倒すどころか、朝廷と協力してこの国を統治したいと願っておりました。

紆余曲折を経て実現した徳川14代将軍・徳川家茂と、皇女・和宮の縁談という【公武合体】も、そのご意志によるもの。

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そもそも長州征伐をプッシュしたのが孝明天皇です。

長州藩を京都から追い払った【禁門の変】と、その後、長州藩を成敗しにいった【長州討伐】も、天皇が幕府に強く迫ったものであります。

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ではなぜ孝明天皇は、そこまで長州藩を嫌っていたのか?

ざっとチャートで確認してみましょう。

◆長州藩は伝統的に皇室に近いという“思い込み”があった

◆過激化した長州藩士が、公卿に偽勅(ニセモノの天皇の命令)を出させ、テロのような攘夷行為を行った

◆身に覚えのない偽勅の出所が長州藩と理解した孝明天皇が激怒した

ここらへんはほとんど学校の授業で習いませんので、幕末の政治史がややこしくなっているんですね。

より詳細を知りたい方は下記の関連記事をご覧ください。

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ともかくこの流れは薩長にとっては問題なワケです。

明治維新の一翼を担う長州藩が、実は朝敵だった――そんなお粗末な過去を表にしたくないのが勝者の歴史でしょう。

しかし、証拠というものはやっぱり残ってしまうもので。

その最たる証が、明治維新後に判明した孝明天皇の【御宸翰(ごしんかん)と和歌】です。

御宸翰とは、天皇直筆の文書です。

非常に重みのあるものだとご理解できますね。

それが旧会津藩に保管されていて、旧長州藩関係者はその内容を知って顔面蒼白になったとも伝わっております。

以下に原文訳文を記しておきますので、ご確認ください。

最初にざっと説明しておきますと、

【会津藩への信頼感を示し、朝廷と武家は協力しよう】

という内容です。

【御宸翰と和歌】

◆たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこひてよめる

◆やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ

◆武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて

【意訳】

◆この大変な時勢において、武士の忠誠を喜び詠んだ歌

◆公家の柔らかい心も 武士の勇猛な心も 根は同じ相生の松のようなものです 枯れぬ松葉のように ともにこれからも栄えてゆきましょう

◆武士と心を合わせることで 岩のように堅い状況も打破できるはずです 今味わっている辛い気持ちもいつかよい思い出となるでしょう

いかがでしょう?

倒幕なんて微塵も思ってないことがご理解できますよね。

では、なんでそんなことになったのでしょうか。

 

一会桑政権

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桑名藩主であり京都所司代を務めた松平定敬。

孝明天皇はこの三者に深く信頼を寄せておりました。

この政権は【一会桑政権(いちかいそうせいけん)】と呼ばれます。

そこで苦虫を噛み潰していたのが、同政権から弾き出されてしまった薩摩藩主の父・島津久光でした。

大河ドラマ『西郷どん』のように史実を大きく変えたフィクションでは、馬鹿殿とされがちな久光ですが、それは違います。

極めて優秀な人物です。

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彼は文久2年(1862年)の上洛以来、京都の政権中枢におりました。

その流れが狂い始めたのは、徳川慶喜が登場したからです。

諸侯と対立し、露骨にイニシアチブを取りたがる慶喜と、久光は対立。

このあたりの詳細をお知りになりたい方は松平春嶽の記事をご覧ください。

松平春嶽(松平慶永)幕末のドタバタで「調停調停また調停」だった生涯63年

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下手すりゃ薩摩がヤバい

松平春嶽が「幕府反正の望みは絶え果てたり」と嘆くほど、慶喜と久光は対立しました。

そうして久光を切り落とした慶喜が作り上げたのが一会桑政権です。

この一会桑政権は、天皇の篤い信任を得ていて、非常に盤石でした。

下手すりゃ薩摩がヤバいことになりかねません(とはいえ明らかに敵視されていた長州とは違いますが)。

そんな久光が、慶喜に対して一発逆転するとしたらどんな手が考えられます?

やはり幕府に反発している勢力を味方に取り込むことでしょう。

具体的には、孝明天皇に憎まれ、追い詰められている長州。

ぶっちゃけ、あらゆる面で危険すぎる相手です。

なにせ長州藩は禁門の変以来、薩摩藩を憎んでおり、薩摩藩の船が長州藩に砲撃されるなど、両者は激しく憎しみ合っておりました。

普通なら手を組める相手ではない――しかし、いつまでも長州を敵にしていたら、自分が政治力を失ってしまうかもしれない。

ただ、やっぱり簡単にはいかない。

前述の通り、長州藩は、孝明天皇から憎悪されている勢力です。それに協力するということは、薩摩藩も危険地帯に一歩踏み込むことになります。

ゆえに全面的には協力しきれていません。

その頃(1866年)に結ばれた【薩長同盟】がわかりやすい例でしょう。

薩長同盟とは、薩摩と長州で倒幕を計画したものではなく、

・長州征伐で薩摩は幕府に協力しない

・長州が認定された朝敵を取り消すために薩摩は努力する

そんな内容です。

なんだか曖昧でデリケートだと思いません?

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誰にでもわかるように、がっつりタッグを組んだワケじゃないのです。

内心では敵じゃないよ、表向きは味方でもないけどね、みたいな。

そして、もしも孝明天皇の時代が続けば、この薩長同盟がそれ以上発展する時代は来なかったかもしれません。

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