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【討幕の密勅】
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孝明天皇、疑惑の多い崩御
1866年12月(旧暦)、孝明天皇が突如崩御されました。
暗殺すら囁かれた死。
「何処から天然痘でも持ち込まれたのでは?」なんてミステリーまでありますが、そんな疑惑が囁かれるのも“タイミング”が原因でした。
というのも、後ろ盾を失った一会桑政権が崩壊に向かうのです。
確かに孝明天皇の頑なな攘夷思想は、時代の流れからして厄介なものでありました。
しかし薩摩や長州にとって、それ以上に厄介なのが、孝明天皇の後ろ盾を得ている一会桑政権。
逆に彼らが天皇の威光さえ失えば、自分たちに出番が回ってくるワケです。
孝明天皇の跡を継いだのは、まだ十代半ばの明治天皇でした。
いくら聡明だろうと、さすがに若いのでは?
幼い天皇を操って好き放題やるって、日本の政治の定番だよね?
天皇ご自身の愚痴すらないって、もしかして操られている?
そんな風に突っ込みたくなりませんか?
実は、そう思うのは、後世の人間だけではありません。
慶応3年(1868年)。
「王政復古」が宣言されると、土佐前藩主・山内容堂は、泥酔して小御所会議に参加、こう嫌味を吐きました。
「今日決まった事なんざ、どうせ二三の公卿が、幼冲(まだ幼い)の天子を擁して企てたことだろうが!」
これに対して岩倉具視が「畏れ多くも天子様に幼冲とは、一体何事どす!」と反論し、容堂も黙るほかありません。
ただやっぱり、突っ込ませていただきます。
中学生ぐらいの明治天皇が、幕末を生き抜いてきたツワモノたちを相手に反対意見を言うことができますか?
余談ですが、明治天皇は、薩摩藩に養育係を殺害されております(詳細は以下の記事へ)。
明治天皇の恩人・田中河内介の殺害事件は幕末薩摩で最大のタブーだった
続きを見る
このことが判明してからは、二度とその話を口にしなかったといいますから、少なからず苦しい気遣いがあったのでしょう。
元長州藩主である毛利敬親は、大久保利通相手にこう言ったそうです。
「玉を奪われるな」
この【玉】とは、天皇およびその権力者のこと。
孝明天皇によって苦渋を味わされた長州藩主らしい言葉とも言われておりますが、それでも天皇を道具扱いするようだと批判されるものであります。
「討幕の密勅」の疑念
結論に入る前に、あらためて確認しておきたいことがあります。
それが「勅(みことのり)」です。
一般的には、天皇陛下ご自身の意志による命令ですが、幕末から明治維新にかけてはそうとは言い切れません。
前述の通り、孝明天皇が長州藩に激怒したのは、ご自身が出した覚えのない勅が、長州派公卿から勝手に連発されたことでした。
それでは「討幕の密勅」はどうでしょうか(原文の後に超カンタン訳文あります)。
【読み下し文】
詔す。源慶喜、累世(るゐせい)の威(ゐ)を籍(か)り、闔族(かふぞく)の強(きゃう)を恃(たの)み、妄(みだり)に忠良を賊害(ぞくがい)し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂には先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)し顧みず、罪悪の至る所、神州将(まさ)に傾覆(けいふく)せんとす。 朕、今、民の父母たり、この賊にして討たずむば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしう)に報いむや。これ、朕の憂憤(いうふん)の在る所、諒闇(りゃうあん)を顧みざるは、萬(ばん)已(や)むべからざれば也(なり)。汝(なんじ)、宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して、生霊(せいれい)を山嶽の安きに措(お)くべし。此れ朕の願なれば、敢へて或(まど)ひ懈(おこた)ること無(な)かれ
【超カンタン訳文】
徳川慶喜が武力で政治を奪い取った悪党であると断じ、これを武力討伐すべし――
この勅を奉じた者として、三者の署名があります。
中山忠能
正親町三条実愛
中御門経之
実はこの勅は、大きな問題を2つ孕んでいます。
・天皇自身の承認印である「可」の文字がない
・天皇自身が見たと示す日付の一文字がない
そうしたことから、この書状は、
①岩倉具視の秘書である玉松操が草案を書き
②正親町三条実愛、御門経之が分担執筆した
というのが打倒なところでは?という見方も根強く囁かれております。
なにせ、ほぼ彼らの筆跡しかないのです。
天皇の命令を内密に伝える「密勅」ですから、正式な手続きを経ないと言われれば、そうかもしれません。
が、大きな不審点として残ります。
実は当時、倒幕派は、強引に政治を動かす必要性を感じていました。全国の諸侯が日和見を決め込み、上洛しないからです。
そこで大久保利通らは、天皇による処断で政治を動かそうと決意を固めました。
ちなみに「討幕の密勅」原本写真は、明治維新70周年を祝った『維新史料聚芳』(1936年発行)に掲載されるまで非公開。
長州藩主の毛利家に保管され、門外不出のものとされておりました。
かつては、勅を疑うことすらできませんから、このような不審点・不備については、明かされることすらなかったのでしょう。
もし公開されていたら、大変な騒ぎになっていた可能性があります。
大政奉還と同じ日だった
「討幕の密勅」は、実は大変急いで発行されたものです。
なぜか?
「大政奉還」を封じるためとされています。
先に政権を返されてしまい、取り潰す江戸幕府が無くなってしまえば、倒す相手もおりません。
実はこの「討幕の密勅」とほぼ並行して、徳川慶喜も動いておりました。
同じ倒幕派でも土佐藩は、薩摩藩や長州藩とは異なり、ソフトランディング路線です。
彼ら土佐は、大政奉還を進言しており、そこであっと驚き、慶喜が「将軍の地位をお返します」と受け容れてしまうのです。
ただし、そこは頭脳派の慶喜。
裏には本音もあります。
自分が政権を投げ出したところで、後任者ができるはずもない。
結局、オレたち旧・江戸幕府組に泣きつくんだろ?と、そんな自信がありました。
一方、新明治政府は、幕臣を政治から排除しすぎて、実際に、明治時代の初期は相当ゴタついています。
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こうした慶喜のしたたかなやり方に対し、薩長側も動きました。
彼らが抱いていた懸念と目的は、以下の通りです。
・手強い徳川慶喜を、二度と政治に関わらせない
・残る「一会桑」の会津と桑名を排除
・摂関家の朝廷支配を排除
篤姫や幕臣が、倒幕派のやり方に激怒した一因に、慶喜を当主とする徳川家の領地があまりに少ないことがありました。
これも、慶喜排除論ゆえのこと。
どうやって排除するか?
そのアンチ慶喜の決定打が「討幕の密勅」でした。
天皇家に対する崇拝が強い慶喜に「勅」はてきめんの効果を発揮するはず。
同時に、会津藩と桑名藩は、潰すべき敵として強く意識されておりました。この両藩は、幕府の政権放棄に激しい抵抗を見せていたからです。
倒幕派と慶喜は、まさにギリギリの戦いをしていました。
「大政奉還」の上奏文が朝廷に提出されたのが、慶応3年10月14日(1867年11月9日)。
「討幕の密勅」が出たのと、同じ日です。
慶喜自身としては、朝廷も、もっと議論して時間がかかるだろうと思っておりました。
しかし、翌日には承諾。
殊勝な心がけだから、この後もこの国のあとに尽くせとのことです。
もっと揉めるだろうと構えていた慶喜は、さぞかし驚いたことでしょう。
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