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【討幕の密勅】
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そして倒幕、戊辰戦争へ
どちらの取り決めが有効か?
「期限」という観点から考えれば大政奉還に理があります。上奏文がアッサリ受理され、倒幕しようにも理屈上その相手は消え去ってしまったのです。
討幕の密勅が出された状況も明らかに不自然でした。それでも新政府サイドは押し進めます。
そんなことして意味はあったのか?
あります。
武力倒幕派にとっては、これぞまさしく動機であり、燦然と輝く大義名分です。
日付等の問題は些末なものです。
特に、孝明天皇から嫌われ抜いていた長州藩からすれば、念願の勅でしょう。
「討幕の密勅」を受け取った薩摩藩ともども、イザ進軍とばかりに、いきり立って出兵するわけです。
尊皇思想が強い水戸藩出身であり、しかも母が皇女である徳川慶喜は、もとより親天皇派ですから「勅」を相手に逆らえるはずもありません。
徳川慶喜は勅を抱えた相手に、完全に降伏状態。
一瞬だけ大坂城に立てこもり、その後はアッサリ東へと逃げ出してしまいます。
西郷や大久保は、武力による幕府討伐を望んでいたと思われます。
彼らは戦闘的であるがゆえに若い志士たちの支持も厚いものでしたが、狙いはそれだけではないでしょう。
「王政復古(幕府の政権を返上して朝廷に戻すこと)」に反発する二藩を潰せば、他の反対勢力も怖気づく――そう計算したのは間違いありません。
いわばスケープゴートとして選ばれたといえます。
相楽総三を煽動し江戸城での戦争を望んだ西郷の計画は、不発に終わります。
しかし、会津藩は彼らの望む通り、犠牲となりました。
東軍を震撼させた「錦の御旗」
戊辰戦争で「討幕の密勅」と並んで東軍を震撼させたのが「錦の御旗」です。
これが意外なほどに、かなりの即席モノです。
慶応4年(1868年)正月、「鳥羽・伏見の戦い」で、薩摩藩の本営に掲げられたこの御旗。
実は、岩倉具視プロデュースのものでした。
前年に、岩倉が薩摩藩の大久保利通、長州藩の品川弥二郎に命じて作らせたのです。
デザインは、先ほども出てきた岩倉の腹心である玉松操。
大久保が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、作成しました。
この布を買ったのが、大久保の妾・おゆうだという話もあり、『えっ、よりにもよって妾が調達したのか』というツッコミもあったり。
しかし、この錦の御旗が重大な役割を果たすのですから、シンボルの強さを痛感します。
佐幕派として戦い抜いた会津藩も、城の外に錦の御旗が掲げられたのを見て、もはやこれまでと開城を決めたのです。
このように「討幕の密勅」にせよ「錦の御旗」にせよ、明治天皇のご意志というよりは、岩倉具視とその腹心・玉松操、および薩摩藩と長州藩主導と思われても仕方ない部分が大きい。
それはご理解いただけるはずです。
当時から議論の的であることは「討幕の密勅」が70年間も門外不出であったことからも察することができましょう。
幕末は陰謀だらけの時代です。
そのど真ん中にいたのが、この「討幕の密勅」かもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』(→amazon)
半藤一利『もう一つの「幕末史」』(→amazon)