西南戦争

城山を取り囲む帝国陸軍の要塞/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷を美化するなかれ~とにかく悲惨だった「西南戦争」リアルの戦場

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この辺りのエピソードにも西郷特有の性格が見えてしまいます。

「江戸無血開城」でもあったような、身一つで相手の懐に飛び込む――よくいえば豪胆、悪くいえばギャンブラー的な気質。

こうした危うい状況の中、真偽すらハッキリしない暗殺疑惑等を経て、西南戦争は勃発してしまうのです。

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本当の生き地獄がそこにあった

では、西南戦争が起こった結果、殺された兵隊の遺体はどう処理されたか?

人々の暮らしはどうなったか?

凄惨な過去に蓋をせず、当時の記録を振り返ってみたいと思います。

死屍累々

諸外国からの銃が導入されるなど。

激しい戦争が起き、当然ながら、周辺は死屍累々となりました。

そこには「官軍、薩軍ともに死体損壊をした」という記録が残されております。

試し切りの跡があるもの。

追い詰められて絶望していたせいか、捕虜をバラバラにして木に縛り付け放置したもの。

捕虜殺害の禁止は徹底されていたはずですが、薩軍はそんなことも言っていられませんでした。

当時の銃弾は鉛製です。

鉛製の弾丸は摘出できなければ、手足ごと切断するほかありません。戦場には切り落とされた四肢がそこら中に転がっています。

内臓がはみ出した死体。

脳みそがこぼれた死体。

……見るに堪えないほど無残な死体があふれ、埋葬すら間に合わず、海に遺棄されるものも大量にありました。

薩軍は敵への憎しみのあまり、官軍警視隊の埋葬を一時禁止したこともあるほどです。

放置された遺体は?

例えば動物の餌食となるなり、見るに堪えかねるほど無残な有様と化していきました。

人肉食

映画『野火』では、太平洋戦争下での人肉食を描いたことで話題をさらいました。

 

戦場における人肉食は、戊辰戦争や西南戦争でも記録が残されています。

田原坂の戦いで苦戦した官軍では、敵兵の死体を斬りつけ、肉を口に運ぼうとしているものもいたとか……。

あるいは牛肉があったと称して、人肉を運んでくる者がいたとか……。

恐ろしいほどの戦場の狂気。

信じられない話かもしれませんが、残念ながら記録にも残されていることです。

同じような人肉食の話は、戊辰戦争のときにもありました。

犠牲となった子供たち

会津戦争で屈指の悲劇といえば、白虎隊の集団自刃が必ず挙げられます。二本松少年隊の悲劇も知られております。

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西南戦争でも、幼い少年たちが従軍しました。

西郷隆盛の長男である菊次郎と甥・市原宗介もそうした者にあたります。

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菊次郎は脚の切断という悲運に見舞われましたが、それでも他の少年よりは恵まれていたかもしれません。

兄弟そろって命を落とすような少年兵も、西南戦争ではおりました。

南洲神社の墓地(→link)には、「少年烈士」の墓があります。ここに葬られている少年は14歳です。

犠牲となったのは、こうした少年兵だけではありません。

戦地となった場所では学校が閉鎖され、子どもたちの心も荒れ果てました。当時、石をぶつけ合い暴れる目撃談が残されています。

女性たちも平然と遺体を見るようになった、と記録されています。人の心はこれほどまでに荒廃しきるものなのか……と、当時の記録者は書き残しております。

 

動員、虐殺、暴行される民衆

少年たちの平穏な日常すら、一変させてしまった西南戦争。

大人となれば、さらに過酷な運命が待ち受けておりました。

軍夫

戦争というものは、兵士だけでは成立しません。

食料や弾薬を運搬する軍夫が必要となって来ます。映像化作品では省かれることも多い存在です。

薩軍、官軍共にこうした人員を【強制的に徴募】しました。

人員が不足するあまり、数あわせのために老人、病人、女性すら動員されることもありました。

一応は給与が出るとはいえ、支払われたとは限らなかったようです。

最初のうちこそ定められていた基準も、時間経過とともに守られることなく、無給で酷使されることもあったわけです。

たとえ給与が出たとしても、死傷してしまってはどうしようもありません。

軍夫は兵士より一段下として見られ、扱いがよいとは言えないものでした。

一方、働き手が奪われた地域では、農作業の停滞を招くことにもなります。

軍夫供出を拒む地域、くじ引きで決める地域もありました。

徴募すら、戦争長期化にかけてどんどん困難となっていったのです。

アウトローである博徒が軍夫となり、近隣住民に危害を加えることもありました。いろいろな面において、大迷惑をかけた話なのです。

女性の動員

徴募されたのは男性だけではありません。

女性も、食料調理のために徴募されることがありました。

食料・物資徴発

西郷隆盛の軍勢は、武器弾薬や食糧不足のまま挙兵した一面があります。

官軍も物資が豊富とは言えません。

ゆえに両軍ともに、地域から食料や物資を徴発しました。

戦場となった地域には、焦げ付いた飯が投げ捨てられていたという目撃談もあります。本来は地域住民が食べるはずのものが、時に無残な扱いをされたのですね。

しかも、です。

農作業の停滞と食料の徴発は、戦後まで食糧難として影響を与えることになります。

こうした徴発の際、官軍は料金を支払いましたが、ロクな準備をしなかった薩軍は支払う気なんてありません。

要するに、掠奪したわけです。

 

奪われる土地と家屋、焼かれる町や村

田原坂には当初、住民がおりました。

しかし「戦うためだ」として追い出され、別の村へ。

と思ったら、今度はそこで入ってくるな、と追い払われたりします。

家屋も接収されてしまいます。

元が田畑であった場所では、当然のことなばら農作業ができなくなります

熊本城下はじめ、作戦と称して焦土と化した市街地もありました。

 

拷問、惨殺、婦女暴行

両軍ともに地域住民を苦しめた内戦。

突発的な残虐行為は薩軍に目立ったようです。

スパイ容疑だと地域住民を引き立て、残虐な見せしめ暴行殺害まで行われました。

官軍と比べて薩軍は、かなり不利な状況。

残虐さによる恐怖支配を行うほかなかったのです。

薩軍の婦女暴行は、はじめのうちこそ抑制がなされていました。

しかし追い詰められてゆくと、そうもいかなくなってゆきます。

敗戦の憂さ晴らしをするかのように、大分県南の女性に暴行を加えた記録が残されています

巻き添え

避難できず、戦場の巻き添えになる住民もおりました。

この西南戦争は、官軍の海軍力が大きな役割を果たしたものでもあります。

艦砲射撃に巻き込まれて命を落とす住民もおりました。

農民一揆

西南戦争の影に隠れているかのようですが、呼応した農民一揆も、戦場となった地域の阿蘇等で発生しています。

農民兵が自主的に薩軍に加わることもありました。

しかし温かく受け入れられたのか?というと、そうではありません。

士族より格下の扱いを受けた挙げ句、戦争後は忘れられたかのような扱いを受けています。

 

一方で戦争バブルも

「戦争はプラスになる」と考えた――たくましい民がいなかったわけではありません。

焼きとうもろこしを売って一儲け狙うもの。

落ちた弾丸を拾い集め、小銭稼ぎをするもの。

戦場見物をする者。

そうした人々もおりました。戦場では……。

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