徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

2027年大河ドラマも“一橋”が憎い!慶喜こそ『逆賊の幕臣』ではラスボスか

2024/12/04

江戸幕府最後の将軍は、ご存知、第15代の徳川慶喜――。

存在感がある。歴史のテスト対策でも覚えなければならない。幕末フィクションにも登場する。

大河ドラマでもおなじみで、『青天を衝け』では草彅剛さんが演じ、人情味あふれる魅力的な人物として描かれました。

一方で2023年NHKドラマ10『大奥』では、とんでもなく嫌味ったらしい人物に描かれておりました。

そして2027年『逆賊の幕臣』では、主役である小栗忠順にとって、衝撃をもたらす人物であると予告されています。

フィクションで人物の解釈が異なることはよくあることながら、果たしてどうなるのか?

史実を辿ると、江戸近辺で近代化を進める主人公である小栗忠順たちは、京都で政治闘争を繰り広げる慶喜に足を引っ張り続けられるようなもの。

突如政権を返上し、江戸に戻ったかと思うと、小栗忠順の献策すらすげなく拒んでしまいます。

2025年大河ドラマ『べらぼう』では、視聴者は一橋治済の極悪非道ぶりに怒りを募らせたものです。

2027年になれば、今度は『逆賊の幕臣』でも“一橋”に対して怒りを募らせることになるでしょう。史上最も憎たらしい慶喜像を目撃することになってもおかしくはありません。

これは何も、ドラマだけの問題でもありません。

徳川慶喜は、日本史上最も上司にしたくない人物ランクイン間違いなしと思われる要素が実に多い人物なのです。

そんな慶喜の予習をしておきましょう。

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の徳川慶喜/wikipediaより引用

 


最初と最後は例外的な徳川将軍

渋沢栄一を主人公とした大河ドラマ『青天を衝け』は、冒頭に北大路欣也さん扮する徳川家康が出てきました。

黒子を前にして歴史解説を述べるユーモラスな姿が、わかりやすいという評価もありましたが、幕末史を考える上では大きな問題となりそうです。

徳川家康と慶喜は、最初と最後ということもあり、例外的な徳川将軍とも言える。

この二人を徳川将軍の典型とすると、事実誤認が発生しかねません。

江戸時代の特徴的な制度とされる【海禁政策(いわゆる鎖国)】、大奥といったものは、家康が定めたわけではありません。

慶喜にしても、将軍時代は江戸城に入ったことがありません。

幕末政治におけるイデオロギー争いにおいて、たしかに慶喜は存在感を示しています。

一方で【横須賀造船所】などの幕政最後の重要決定は、慶喜の手から離れたところで決められている。

そういう例外的存在の家康が、同じく例外的存在である慶喜をナビゲートする『青天を衝け』の描写は適切とは思い難い。

ドラマとしては面白くとも、歴史を振り返るという点では頭から消し去った方がよさそうです。

 


将軍継嗣問題 その後始末

【黒船来航】直後に12代将軍の徳川家慶が急死。

後継者である13代・徳川家定に男子がいなかったため勃発した、14代将軍をめぐる【将軍継嗣問題】は、幕府に深い禍根を残しました。

この問題はそもそも、血統でいえば慶福(14代・徳川家茂)で決まっていたはず。

にもかかわらず、一橋派が年長賢明という要素を持ち出し、強引に割り込んできた。

将軍継嗣問題とは、本来問題にすらならないようなことを、徳川斉昭とその周辺が担ぎ出して、わざわざ幕府にトラブルを持ち込んだのです。

徳川家茂/wikipediaより引用

一橋派と南紀派という図式も正確ではありません。実情は、一橋派の無茶苦茶な言動に反対していた勢力が南紀派と言える。

一橋派の神輿である一橋慶喜自身には、どの程度政治的野心があったかどうか、よくわかりません。

むしろ熱心だったのは父親である徳川斉昭。

斉昭と一致団結していた松平春嶽は、後に「斉昭の親馬鹿に振り回された」と振り返っています。

慶喜は聡明であるが、その人間性までは考慮しきれていなかった――それが明治になってからの、松平春嶽の偽らざる本音でしょう。

そんな春嶽にも歯切れの悪さはあります。彼や一橋派があまり触れない不都合な点があった。

当時、南紀派の中枢にいた人物が世を去るか、口をつぐんでいたため、それが露になってこなかったのですが、後の史料解析により、その後ろ暗さが明かされつつある状況です。

まず、春嶽自身の動向です。

慶喜だけで政権運営するわけではなく、松平一門代表者として、春嶽を大老にかわる「宰補」につけんとする動きがありました。

慎重な春嶽は二の足を踏んだとはいえ、これが野心とみなされた結果が、のちの【安政の大獄】に繋がったとみなされてもおかしくありません。

この処分において福井藩士・橋本左内は処刑されておりますが、それも春嶽擁立に関与したことが影響しているのかもしれない。

橋本左内の肖像画

橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用

己の擁立のために若き天才たる橋本が処刑されたとすれば、春嶽としては痛恨の極みでしょう。

そして、慶喜の器量を必ずしも高く評価していたとも限らない点があげられます。

一橋派は慶喜があたかも希望の星のように唱えていたけれども、果たしてそうであったのか? 幕政参与の野心を隠すものではなかったか?

そう思われても無理はないところがある。

確かに慶福は慶喜よりも歳下で、まだ将軍としては幼いといえました。

そうはいっても、彼は聡明で先進性に富んでおり、思いやりがありました。勝海舟はじめ幕臣、正室となる和宮も彼の人間性を慕ったものです。

一方の慶喜の人間性は後述するとしまして、本当の一橋派の目的としては、斉昭らが掲げた「言路洞開」(げんろとうかい)路線が魅力的であったということが考えられます。

一橋派に名を連ねた大名たちは、幕政に参加する意欲はあるものの、格式として参加できない立場のものが多い。

これに対し、斉昭は優れた言説ならば立場や身分を無視してでも取り込むように訴えかけておりました。

斉昭の推す慶喜が将軍となれば、自分たちも幕政に参加できるかもしれない――そんな野心も、彼らにはあったわけです。

こう書くと、さながら議会制民主主義を先導するようで、斉昭が開明的に思えます。聡明な阿部正弘もこれには賛意を示しています。

しかし、誰でも意見を述べることができるという政治には、リスクが伴う。

政治的見識が怪しいにも関わらず、周囲を煽動し、酔わせる政治家が出現すると、歯止めが効かなくなる。

いわばポピュリスト、デマゴーグの達人が政治に参画すると危険です。

その日本史における典型例が、この斉昭であるといえます。

斉昭は人気取りはうまいのです。しかし、持ち込んでくる政策は「ペリーを騙し討ちにして殺す!」といった非現実的な無茶振りばかりでした。

そんなヘイトを撒き散らすポピュリスト政治家の息子が慶喜であることは、実に注目に値すべきことと言えるのではないでしょうか。

さて、ここまででも十分、一橋派には後ろ暗いところがあるとおわかりいただけるかと思います。

それよりも不審な点がまだ出てきます。春嶽は13代将軍・家定をこうも酷評しています。

凡庸中の尤も下等なり――凡庸な中でも最も程度が低い。

いくらなんでも大名が将軍をここまで罵倒するというのも言い過ぎのように思えます。逆に何か理由があったのではないか? そう思えてきます。

愚かであるばかりではなく、身体虚弱で芋ばかり食べ、政務すらできないという評価まである家定。しかし、これは大袈裟ではなかったか。家定には意思などないかのように誇張しているのではないか。そう考えられなくもありません。

家定は慶喜を信頼していない。そのため一橋派の島津家は篤姫を家定正室として送り込んだとされています。家定には決定権があればこその策と言えます。

それなのに見切り発車のように、一橋派が勝手に人事を進めようとする。それに苛立ち、幕閣が一橋派に染まりつつあったからこそ、家定は井伊直弼を大老に就任させたとしても話として筋は通ります。

井伊は己だけの決断でなく、主君たる家定の意思を受けてのことだと書き残しているのです。そして家定の怒りを募らせた一因として、春嶽の抜擢があるとすれば、彼の言うことに弁明があるとみなしても何らおかしくはないのです。

そんな春嶽ですら、かつて信頼したはずの斉昭と慶喜父子はまったくもって肯定的評価をしていない。父子揃って臆病者で、いざとなれば逃げ出すと苦々しく振り返ったものでした。

さて、このやらなくてもよかった、迷惑極まりない政治闘争である【将軍継嗣問題】は、幕政に深い禍根を残してしまいました。

その一例が、家定の意を受けた井伊直弼による【安政の大獄】です。

吉田松陰の処刑が真っ先に挙げられますが、あれは偶然のタイミングと言える。

別の捜査で松陰を取り調べていたところ、勝手に老中暗殺計画を自白したため処刑されたのです。

当時の吉田松陰はそこまで大物ではありません。松下村塾生の多くが後に明治政府中枢に座ったため誇張され、現在にまで名が轟くようになりました。

吉田松陰/wikipediaより引用

橋本左内の処刑も大きく扱われますが、西郷隆盛のメンタリティに影響を与えたため、フィクションで大きく扱われるのでしょう。

しかしそれだけはわかりにくくなります。主君である春嶽を幕政関与させるべく動いたことが、問題視されていてもおかしくはないのです。

結果、幕府に大きな傷跡を残してしまった一連の騒動。

岩瀬忠震、川路聖謨永井尚志といった有能な幕臣も処罰を受け、幕政にとっては最大の悪影響となりました。

さらには一橋派の諸大名(水戸斉昭・松平春嶽ら)も処罰を受けたため、その復讐として水戸藩士が主導した【桜田門外の変】が勃発してしまいます。

「暴力により政治が変えられる」という悪しき前例は、この後の幕末から近代にかけても深い傷を残しました。

この政治闘争の煽りを受けた中には、小栗忠順もおります。

当時の幕府は仕事が山積みです。

そんな幕府喫緊の課題である【日米和親条約】締結のため【万延元年遣米使節】を選ばなければなりません。

大物が謹慎する中、使節団中第三位である「目付」として白羽の矢が立ったのが、小栗忠順でした。

小栗はアメリカからの帰路、将軍暗殺という衝撃的なニュースを聞かされます。

帰国後、将軍ではなく大老であったと判明するものの、小栗にとっては悪夢のような事態でした。

海外出張から帰国したら、自分を抜擢した上司が殺害されている。おまけに勢いづくヘイトテロリストから、売国奴として命を狙われかねない、そんな状況に直面したのです。

小栗忠順の幕臣としてのキャリアは、はなから徳川斉昭と慶喜父子によって呪いをかけられたようなものでした。

そして肝心の斉昭が、この後、心臓病で急死すると、慶喜は、芝居がかったほどの謹慎生活を送ります。

風呂に入らない。

月代を剃らない。

麻袴着用。

昼間でも雨戸を締め切って読書すらできない。

縁側にも出ない。

といっても、政治の表舞台から遠ざけられたことを本人がどれほど気に病んだか? 真実のところは判然としません。

慶喜には、他人には理解し難い不可解なところがあります。真意が見えないことが、政治の舞台に立った慶喜に付き纏うのでした。

 

慶喜と一橋派の復活

斉昭の急死は、徳川慶喜こそ将軍に相応しいと考えていた者にとって、歓迎すべきことだったかもしれません。

当時の慶喜はこんな風に評価されていました。

「聡明だし、見どころもあるかもしれない。しかしあの人はオンブオバケだからな ※背中に妖怪、つまり父・斉昭がついているということ

それが斉昭の急死により、厄介な父というオプションが外れ、慶喜は期待の人材となった――そう思えたのかもしれません。

徳川斉昭/wikipediaより引用

万延元年(1860年)になると【安政の大獄】による処分が解かれ、待望の貴公子が復活できる状況が揃いました。

このころから政局の舞台は江戸から京都へ。

何か意見があれば、上洛すること。それが藩主から志士まで、共通理解となるのです。

立ち上がったのが薩摩藩の島津久光。

その兄・島津斉彬は、安政5年(1858年)に亡くなる直前、成し遂げようとしたことがありました。一橋派の弾圧に抗議するため、上洛することです。

国父(12代藩主・忠義の父)として政治を取り仕切っていた久光は、【安政の大獄】により処罰を受けた西郷隆盛に代わり、大久保利通を懐刀として上洛に突き進みます。

そしていざ上洛すると、久光は玉突き状態で政局を動かしました。

島津久光/wikipediaより引用

朝廷にかけあい、勅使・大原重徳を江戸に派遣。

そこで一橋派の復活を推し進めた結果、松平春嶽が政事総裁職となり、慶喜は一橋家相続が再度認められ、さらには将軍後見職とされたのです。

ここに、ひとつのビジョンが実現したことになります。

一橋派の面々、こと島津斉彬のような大名は、慶喜の力量に惚れ込んで支持したわけではない。

慶喜を担いだ政治体制の方が大名家の意見が通りやすい。そう見越してのことであり、久光は目論見を達成したことになります。

しかし久光にも、見落としていたことがありました。

「慶喜は聡明であるが、だからこそ、将軍として担ぐにはかえって弱点となる」

斉彬がそう懸念していたように、実際、久光は身をもって知ることとなるのです。

 


権力の東西分裂 上洛する慶喜

徳川慶喜は、政治の表舞台に立った時から、幕臣に嫌われる宿命がつきまといました。

勅使である大原は傲慢であり、幕臣はカチンと来ていた。

【文久の改革】は将軍となった徳川家茂と幕僚たちが知恵を出し合い進めることになります。

慶喜はよくわからない存在のうえ、実務をせず、面倒事を押し付けてくる朝廷や久光一派と見なされてもおかしくありません。

慶喜と春嶽は幕政から浮いていました。

松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

この二人が主導して改革を進めたように誘導されますが、そういうわけでもありません。

慶喜と春嶽は朝廷の御機嫌取りをするようなことはあれども、実質的な幕政や江戸周辺の変革にはさほど関わっていません。

明治以降、それを主導した幕臣が亡くなり、意見表明の場がなくなったため、慶喜に都合の良い話ばかり残ってしまったのです。

久光が主導した幕政改革の案は、江戸の街を寂れさせる要素もありました。

例えば参勤交代の廃止です。

確かに合理的な改革ではあるのですが、大名とその家臣や妻子が帰国するとなれば、屋敷に雇用されていた江戸の人々は失職する。

攘夷の実行もそうです。

外交のことなど何もわかっていない朝廷の権威。ヘイトスピーチと陰謀論を振り翳し、世論を煽る志士たち。

そんなポピュリズムを振りかざされたことで、幕府は窮地に追い込まれてゆきます。

その最も迷惑な例が【生麦事件】です。幕政に直接口出ししようと江戸までやってきて、その道すがら外国人を殺傷した事件です。

異人を殺傷することは、確かに江戸っ子にとっても一瞬の爽快感はあります。しかし、そのツケがべらぼうに高いことに、彼らは気付かされる羽目になります。

実行犯の薩摩藩士たちは、事件の後始末を江戸に押し付けて帰国してゆきます。江戸っ子はイギリス艦隊報復に怯える羽目になります。さらには横浜に、自国民保護のために外国軍が駐留することになったのでした。

慶喜が、聡明な頭脳で切り抜けようとするけれど、限界はあるうえに、彼はどうにも保身第一に思えるのです。

小栗忠順ら幕僚にとっては、実に頭が痛い話。

彼らも薄々もう幕府は持たないと察知しつつ、それでも日本のために全力を尽くすしかないと覚悟を決めて目の前の課題に挑み続けました。

江戸や関東に暮らす民衆は、開国に対してさほどアレルギーはありません。これには幕府も推進していたのではないかと思われる点はあります。

当時の江戸っ子が夢中になって買い漁ったお土産として【錦絵】があります。

歌川派の人気絵師たちが手がけた作品は、美術品としての役割だけでなく、ジャーナリズムの役割もあります。そんな中、この時代には新ジャンルが生まれました。

【横浜絵】です。

浮世絵には長崎の異国情緒を描く【長崎絵】がありました。横浜が開港すると、その様子を描くジャンルが生まれたのです。

堂々たる黒船。楽しそうなサーカス。軍服に身を包んだ精悍な士官。ふくらんだスカートを履く婦人。

そうした絵を眺めた江戸っ子は興味津々となり、サーカスを見に行く者たちもいたとされます。

小さな漁村に過ぎなかった横浜は、たった人口四百人という規模から始まりました。それがみるみるうちに発展したのは、当時を生きた人々の熱気と、幕府の開発があればこそ実現できたものでした。

こうした絵を眺めて、ビジネスチャンスを思いつくものもいたのでしょう。

外国人をもてなす遊郭。主力商品である生糸を商う商人たち。彼らは攘夷なぞどこ吹く風といった風情で、横浜の熱気の中にいたのです。

そんな横浜で、外国人殺傷をやらかす志士たちは、迷惑なテロリストでしかありませんでした。

文久3年(1863年)――将軍家茂が上洛することとなりました。

徳川家光以来、およそ230年ぶりのことであり、この上洛に合わせて西へ向かった一部が、のちに新選組を結成しています。

これに先がけ、慶喜と春嶽をはじめとする一橋派も露払いをするように京都入りを果たしていました。

例外が会津藩主・松平容保です。

松平容保/wikipediaより引用

京都守護は直政以来、井伊家の役目でした。

しかし井伊直弼の暗殺により混乱していて、とても同役を担える状況ではない。そこで義理堅い容保が、春嶽から押し付けられるようにして京都守護職となったのです。

京都は治安が悪化していました。

とりあえず京都へ行けば政治活動ができる。攘夷をアピールしたい。

そんな無謀な志士たちが、事の理非など無く愛国心に欠けたと見なしただけで血祭りにあげ、晒し者にしていきます。

松平容保は、はじめこそ「言路洞開」(話し合いによる解決)を求めていましたが、血の雨が降る状況に考えを変え、新選組という対テロリスト特殊部隊に治安維持を任せることとしたのです。

問題は慶喜です。彼はいわば「爆弾」を伴っていました。

武田耕雲斎です。

武田耕雲斎像(左)と天狗党員の墓/wikipediaより引用

一橋家の家臣団は、旗本から任命することとなっていましたが、慶喜は、自分の爪牙となる聞き分けのよい家臣が欲しかった。

そうなると父・斉昭の代からの子飼いと言える武田耕雲斎ら【天狗党】こそうってつけ。

血の気が多い連中ですから、慶喜を守るためなら、たとえ火の中水の中……と期待されたとしてもおかしくはありません。

慶喜がこうしてイエスマンを求めたことを把握しておくと、渋沢栄一と成一郎が一橋家に拾われた理由も見えてきます。

そもそもは攘夷思想にかぶれ、討幕派だったこの二人。いざ自分たちが追われる身となったとき、一橋家に誘われて転がり込んでいます。

弱みのある者のほうが忠誠を誓うであろう――そんな見通しがあってもおかしくはありません。

実際、この奇妙な関係を、後に小栗忠順は渋沢栄一本人に向かって皮肉を言っています。

「幕府を倒すだのなんだの言っておいて、どういう風のふきまわしで一橋家に仕えたのか?」

徹頭徹尾、自分の有利不利で動くのではないか?と突っ込まれても仕方のない状況でした。

こうしたことをふまえると、『逆賊の幕臣』での渋沢栄一は好意的に描かれなくとも仕方ないと予測できます。

慶喜、渋沢栄一、勝海舟あたりはあまりよい描き方はされないと思われます。それは必ずしもドラマシナリオの都合でもなく、史実を反映させた結果だと言うことは理解しておきましょう。

 

 

奮闘する家茂

徳川家茂が上洛し、義兄である孝明天皇と面会を果たします。

しかし幕府としては【生麦事件】も発生しており、とにかく将軍が江戸に戻ることを願っていた。事件に伴いイギリスから賠償金の支払いを迫られていたのです。

生麦事件のイメージ/国立国会図書館蔵

かつて、幕僚でも優秀な岩瀬忠震らは、それなりにフェアな条件で条約締結に漕ぎ着けていました。

それが【生麦事件】のような外国人殺傷が連発してしまうと、賠償金も膨らみ、幕府の命運も傾いてゆきます。

幕府というより国としての借金であり、京都を震源地のひとつとする攘夷が国力を大きく損なっていたのです。

4月11日、孝明天皇は石清水八幡宮行幸・攘夷祈願することになっていました。

このとき家茂が供奉する予定でしたが、前日夕方に風邪で熱を出し、取りやめとなっています。

攘夷の詔を出されることをおそれ、風邪を名目に断ったのではないかという説が後年出されています。慶喜も政治的配慮による中止と後年振り返っています。

しかし、実際に発熱していたという証言もあり、はっきりしません。

この後、家茂は蒸気船・順動丸に乗り、大坂へ向かいました。

まだ船の安全性が確保されていないにも関わらず、堂々乗り込んだ家茂のことを勝海舟は讃えています。

勝が家茂を回想する時、敬愛が込められるものでした。家茂の人格がそれだけ優れていたのでしょう。

なお、このときの上洛について、慶喜が主役で、家茂が添え物のような記述も多く見られますが、実際はそうではありません。

孤独と異例づくしのことに耐えながら、幕府のために奔走していたのはあくまで家茂でした。

 

文久3年というターニングポイント

文久年間ともなると、大河ドラマはじめ幕末作品では、まず京都での政治闘争が注目されます。

文久3年(1863年)――【参預会議】という政治体制が成立。

諸侯による合議制であり、民主主義の前のステップといったところです。

将軍と幕僚によるトップダウン政治を否定した、一橋派の政治ビジョンが実現したといえる体制であり、メンバーは以下の通り。

・徳川慶喜(一橋徳川家当主、将軍後見職)

・松平春嶽(越前藩前藩主、前政事総裁職)

・山内容堂(豊信、土佐藩前藩主)

伊達宗城(宇和島藩前藩主)

・松平容保(会津藩主、京都守護職)

・島津久光(薩摩藩主・島津忠義の父)

・長岡護美(追任、熊本藩執政。藩主斉護の子)

・黒田慶賛(追任、福岡藩世子)

果たして“会議”という政治体制はどこまで本気だったのか。生真面目な松平春嶽、松平容保はやる気はあったと思いたいところですが……。

このとき幕府を悩ませていた問題が【横浜鎖港】でした。

小さな漁村から、国際的な港へ向かいつつある横浜。

明治時代の横浜港/wikipediaより引用

一方で孝明天皇は頑固な攘夷論者ですから、天皇の好感度を稼ぐために横浜鎖港は使えるカードでした。御宸翰(天皇自ら書いた文書)まで下されていたのです。

とりあえず問題を先送りにせざるを得ない幕府と、得点を稼ぎたい慶喜の思いが、ここで一致。

【参預会議】の崩壊へと繋がります。

舞台は中川宮邸(久邇宮朝彦親王)。

横浜鎖港問題が議題にあがります。

攘夷を願う孝明天皇の意に沿うため議題にのぼったもので、参預諸侯は、そんなことは不可能だとして開港継続を支持していました。

しかし、慶喜は孝明天皇へのサービスとして閉鎖を支持します。

そして同年2月16日――中川宮の前もとで酒席が開かれ、参預会議の面々が呼ばれると、泥酔した慶喜がこう怒鳴り散らしたのです。

「この三人は天下の大馬鹿者、天下の大悪人ですぞ。将軍後見職である私と一緒にしないでいただきたい。なにゆえ宮は信じますか!」

話には裏があります。

慶喜だって、横浜鎖港が無理だということくらい、わかっちゃいます。それでも朝廷相手の得点稼ぎのため、ポーズとしてできるように振る舞っておきたい。

それなのに、この三馬鹿はそこを理解せず「鎖港はできかねる」と正直に腹芸をせずにいうから、ともかく嫌だったと慶喜。

久光が慶喜のそんな腹も知らず「朝廷で決めたこと(横浜鎖港)はなかったことにすると中川宮がおっしゃった」と慶喜に耳打ちしたものだから、中川宮のもとへ押しかけ泥酔し、一芝居打ったのです。

『青天を衝け』にも出てきた原市之進は、痛快だったと振り返っています。

あのドラマでは劇中で斉昭や慶喜の決め台詞とされていた「快なり!」を叫ぶ慶喜が映されていました。

実際のところ、この泥酔罵倒作戦が当たったと慶喜は思っていたそうです。爽快だったと。

そして歴史の結果からすればあまりに盛大なオウンゴールであるため、かえって擁護する意見もあります。

慶喜もストレスが溜まって疲れていたとか、泥酔のせいだとか。計算づくであんな大失点はしないだろうと庇いたくなるものです。

しかし、これは大失敗でした。

慶喜が、得点稼ぎのためだけに先延ばしにしようとしたことを【参預会議】の面々だって見抜けないわけでもない。

中川宮と面々はなんとか鎖港に向けて調整するも、相互に不信感が蔓延し、崩壊へ向かってゆきます。

哀れなのは池田長発です。

横浜鎖港交渉のため、エジプト経由ではるばるフランスへ使節団として派遣されますが、そもそも幕府は結果を残せるなんて考えちゃいない。

まだ若い池田なら失敗しても仕方ないと見越しての派遣、いわばアリバイです。

フランス相手に本気の交渉をするなら優秀な幕臣は他にいます。

例えば小栗忠順や栗本鋤雲などがそうで、栗本はフランスの僧侶メルメ・カションと懇意であり、この二人がいてこそ幕府とフランスの関係は成立しています。

メルメ・カション(左)と関係の深かった栗本鋤雲/wikipediaより引用

そういう重要な人材をあえて外し、失敗しても仕方ない人材を派遣するあたりが実に姑息。

これは慶喜の欠点もあるのでしょう。

慶喜はイエスマンを求めます。諫言をしてくるような者は重用しません。

聡明さと頑固さを併せ持つ勝海舟、栗本鋤雲、そして小栗忠順のような人材が遠ざけられることは、致し方ないのかもしれません。

もう一点、上司としての慶喜には大きな欠点があります。

二枚舌、狡猾さは反発を買い、暗殺計画もしばしば起きる。

そんなとき、主君に代わって犠牲になったのが平岡円四郎はじめ側近たちでした。

文久3年(1863年)は、政変の年です。

過激派の暗躍に危機感を抱いていた孝明天皇とその側近が薩摩藩・会津藩に呼びかけ、長州藩および過激派公卿が京都から追い払われました(【八月十八日の政変】)。

ただし、この孝明天皇が頼ったのが薩摩と会津というところに、慶喜の不満はあります。慶喜には手持ちの軍隊がいないのです。

【参預会議】が解体された元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任。

かわって禁裏御守衛総督に就任します。

幕府よりも朝廷寄りであり、西日本において力を持つこの役職の就任に、江戸幕府は不信感を募らせました。

小栗忠順の眉間に皺が寄っても不思議はない。なぜ、近代化のブレーキをあの男は踏み続けるのか? 口さがない江戸っ子のように「ニシン殿」(二心殿)と罵倒することはなくとも、心中苦い思いでいたことでしょう。

 

一会桑政権

しかし慶喜はぬかりなく勢力基盤を強化していました。

会津藩と桑名藩を味方につけた【一会桑政権】と呼ばれる勢力がそうです。

会津藩主・松平容保は病弱であり、裏表のない人物。言い換えれば政治力は低い。その実弟である松平定敬も、兄に似た性質でした。

ただ彼らは、裏表がないだけに孝明天皇の好感度は高い。

孝明天皇/wikipediaより引用

政治力が低く、孝明天皇の寵愛を受けているこの勢力は、抱き込むにはもってこいです。幕府でもない、朝廷でもない、独自の勢力を慶喜は手にしました。

京都では大きな事件が続きます。

元治元年6月5日(1864年7月8日)に不穏な動きを察知した新選組が、池田屋を襲撃(【池田屋事件】。

元治元年7月19日(1864年8月20日)には、長州藩過激派が上洛し、御所を攻撃するも敗退(【禁門の変】)。

禁門の変は、慶喜が颯爽と戦場に立った唯一、最初で最後の機会といってもよいでしょう。その様は『青天を衝け』でも雄々しく描かれたものです。

意図していないところから勝手に勅が出され長州藩が暴走する――そんな事態に怒りを燃やしていた孝明天皇の意図を背景にしつつ、【奉勅攘夷】を掲げる長州藩過激派を抑え込む。

その動きはこうして完了しました。

江戸城が火災に襲われる不幸があったものの、家茂による二度目の上洛も決まります。

人格温厚であり、誠意あふれる家茂は孝明天皇から大事にされていました。家定よりも上の従一位となり、孝明天皇と饗応の席をともにしました。

 

天狗党処断という痛恨事

長州を京都から排除し、あらゆる事が順調に進む中、慶喜は「泣いて馬謖を斬る」としか言いようのない、非情の決断に迫られます。

元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山にて藤田東湖の遺児である藤田小四郎が天狗党を引き連れて挙兵。

軽挙妄動を諌めようとした武田耕雲斎も引きずられるように参加することとなります。

筑波山神社の参道入口のそばにある藤田小四郎像/wikipediaより引用

彼ら天狗党は、元を辿れば徳川斉昭の側近ですから、斉昭の鍾愛する慶喜のもとへ馳せ参じ、さらなる尊王攘夷を訴えようとしたのです。

自前の手勢を持たない慶喜にとって、天狗党は使える手駒とも言えます。

しかし、その手駒連中がよりにもよって長州藩過激派と接近していたのだからたまらない。

実は天狗党は【禁門の変】と連動して動いていたのです。

【禁門の変】で長州藩を叩き潰しておきながら、その連中と共犯関係にある集団が自分の配下から出た――絶体絶命のピンチを前にして、慶喜が出した決断は「切り捨てるしかない」ということ。

冷徹で現実的な判断かもしれませんが、慶喜は天狗党の追討を朝廷に願い出ます。

このことを知った天狗党は、絶望し、力尽き捕縛され、大量処刑の憂き目に遭うのでした。

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夫の塩漬け首を抱えて斬首された武田耕雲斎の妻|天狗党の乱はあまりにムゴい

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安政の大獄】とは比較にならないほどの犠牲者を出したこの顛末。

その酷さと慶喜の冷酷ぶりを知った大久保利通は「徳川の命運はもはや尽きた」と喝破しています。

大久保利通/wikipediaより引用

実はこのとき慶喜と同じ考えに至った配下の者もいました。一橋家に仕えていた渋沢栄一です。

藤田小四郎とは互いに「畏友(いゆう・尊敬する友)」と呼び合うほど親しかった渋沢。

彼を頼り、天狗党の一員であった薄井龍之が上洛し、渋沢に助けを求めました。

しかし渋沢はこれを黙殺するのです。

渋沢は自著で藤田東湖の名言を引くことはありましたが、天狗党の追悼はごくひっそりとするに留まっています。

天狗党の流血など無かったかのように取り繕った慶喜も、政局に居座り続けています。

ただし、後年は、悔やんでいたのかもしれません。天狗党の話題になると口が重たくなり、暗い翳が顔に落ちたとされます。

他ならぬ渋沢が「辛かったに違いない」と同情していますが、そうした悔恨は『青天を衝け』で描かれることはなく、田沼意尊の独断による処刑として描かれていました。

そして、その同じ放送回で、慶喜と渋沢は早くも立ち直りかけています。

ああも軽薄な描写は、かえって慶喜と渋沢、そして犠牲となった天狗党を侮辱しているのではないでしょうか。

『逆賊の幕臣』では、こうはならないでしょう。

天狗党挙兵の地は筑波山です。その報告を聴き、ただでさえ忙しいのにどうして仕事を増やすのかと、小栗忠順とその周辺はため息をつきつつ、田沼意尊を派遣するのではないでしょうか。

正しい歴史知識を学ぶ機会が訪れることを願ってやみません。

 

下関戦争と長州征討

禁門の変で京都から長州藩士が追い出され、彼らと誼を通じていた水戸の天狗党も慶喜に見捨てられる。

恐ろしい事態は終わるどころか、より過激に発展してしまいます。

イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が下関まで押し寄せ、長州藩が敗北したのです(【下関戦争】)。

連合艦隊によって砲台を占拠される長州藩/wikipediaより引用

この四国とは条約を結んでいます。

オランダなんてそれこそ江戸時代を通じての長い付き合いがある。

にもかかわらず襲来されたのは「奉勅攘夷」だと騒いで外国船を砲撃し、点数稼ぎをしていた長州藩の自滅に他なりません。

こうなった以上、孝明天皇も長州を厳罰に処したい。

そこでまず西国21藩に長州への出兵命令が出され、将軍・徳川家茂自らが進発を布告します。

征長総督は前尾張藩主の徳川慶勝であり、副将は越前藩主の松平茂昭。そして参謀には薩摩藩から西郷隆盛が加わっています。

当初は長州を潰すべく動いていた西郷。それも無理もなく【禁門の変】以来、長州藩士過激派は「薩賊会奸」と書いた草履を履いていたとされるほど薩摩と会津を憎んでいました。

しかし、勝海舟と会談を果たした西郷は発想を転換します。

追い詰めらたらむしろ結束しっせぇ、窮鼠噛んことになりもはんか――幕府内部を食い破りかねない魔星がひとつ、また飛び出していたのです。

結果【第一次長州征討】は穏便に終わります。15万の連合軍を前に、長州は為す術もなくあっさり降伏したのです。

・長州藩主である毛利敬親と世子の定広、および支藩主の官位を剥奪

・益田右衛門介と福原越後と国司信濃(くにししなの)三老臣の切腹と首級の提出

【戊辰戦争】への批判として、松平容保のような藩主クラス(実際の容保は前藩主)の死罪がないということが挙げられます。

しかし幕末の武士にとって主君の死は最悪の侮辱であり、そこまで要求しないのが慣例。あくまで家臣の首でとどめておくことが前例でもありました。

長州を始末した。天狗党も消え去った。

西日本の動きに鈍感というか、そもそも横浜や横須賀においてフル回転で動き回らねばならない幕閣は、とりあえず落ち着いたことでしょう。

このころ幕府の小栗忠順は、まさしく文明開化の先駆けをしていました。

小栗忠順/wikipediaより引用

外国人をもてなす築地ホテル館、フランス式陸軍操練といった重要な事業に次々に取り組んでゆきます。

横須賀造船所にはスチームハンマーが輸入され、稼働も始まっていました。

それで小栗は満足していたかというと、そうではない。彼の目は西にも向けられ、長州藩を倒す秘策を練っておりました。

しかし、それには金がない。そこでフランスから借款をしてでも戦費を調達し、長州を完膚無きまで叩きのめすべきだと考えていたのです。

ところが、このフランス借款が取り消しとされてしまいます。その悲報を耳にした小栗が顔面蒼白になっていたと、のちに勝海舟は回想しています。フランス側もそのことに驚いていたとか。

はたしてこのあと変わった「慶応」という元号は、幕府の幕引きと、小栗の人生最期に添えられることとなります。

 

福沢諭吉も悔やむ あのとき叩き潰しておけば

明治時代になってから、幕臣としての誇りを捨て切れぬ福沢諭吉は嘆きました。

外国勢力の助力を得てでも【第二次長州征討】で奴等を叩きのめしておけば幕府は滅びなかった――そう悪しきターニングポイントとして振り返っています。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用

福沢の見解には、もうひとつ面白いものがある。

腰抜け勝海舟が【江戸城無血開城】をしたのは恥晒しだ!と批判をしています。

これに反論したのが徳富蘇峰。

あそこで戦っていたら海外の干渉を受ける。それを避けるためであった……としているのですが、その過程で福沢は言い切っています。

外国の干渉なら第二次長州征討の時から既ににあったではないか!

これはその通り。

江戸の幕閣はフランス式陸軍調練に励み、兵器も購入しています。既に幕府はフランスの干渉を受けていました。

それのみならず第二次長州征討はイギリスの思惑あっての長州勝利といえる。

結果、長州藩は第一次長州征討から第二次長州征討にかけて、疾風怒濤の再起を果たすのです。

元治元年12月15日(1865年1月12日)に起きた高杉晋作の【功山寺挙兵】は銅像まで建てられるほど。

実際の挙兵地は馬関でしたが、司馬遼太郎が作中で章タイトルに功山寺を入れてしまったため、誤認が生じることになった悩ましい話です。

【第二次長州征討】は、この手の“神話”に彩られすぎて、実像がわかりにくくなっています。それを念頭に置き、話を進めましょう。

福沢諭吉ら幕臣の意見を参照すれば、この第二次長州征討にはもっといい選択肢がありました。

・そもそも兵を挙げない

・兵を挙げたからには徹底的に敵を叩き潰す

結果は、そのどちらでもなく、責任は京都の【一会桑政権】にあります。

彼らは京都から江戸の将軍に対し「自ら出馬なさるべきだ」とせっつきました。

幕閣が江戸に戻そうとすると、朝廷が割り込んできてうまくいかない。

身動きの取れない家茂。

このとき江戸には、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が迫っていました。

「まだ開港されていない神戸港はどうなったのか?」というわけで、イギリスのパークスは特に強硬でした。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用

彼らイギリスは文久3年(1863年)に【薩英戦争】を戦い、方針転換していたのです。

武力で日本を制圧するより、薩摩藩らの反幕府勢力を焚きつけ、親英政権を打ち立てた方がうまみがあるのではないか?

姿勢が固まったパークスは、同僚たちですら当惑するほどの強硬姿勢で幕府に迫ってきます。

しかし、一方で京都の孝明天皇は攘夷を捨て切れません。

孝明天皇の手前、さき延ばしにしていた横浜鎖港も忘れ、また神戸の港を開くなんて不可能に近い。

板挟みになった家茂は、将軍職を投げ出すことすら視野に入れたとされます。

ただし、追い詰められて自暴自棄になったわけでもなく、大御所体制の構築も考えられます。

 

第二次長州征討失敗…倒幕序曲

【第二次長州征討】では、あまり注目されない、しかし見落とせない要素があります。

イギリスがこのとき、幕府に対してこう迫っていたのです。

「戦闘時に、我々の艦隊が攻撃されては困る。海上は通行しないでください」

さんざん外国船を砲撃していたのは長州なのに、そっちには何も言わず、幕府の手足だけを縛るような制限がつけられたのです。

そもそも幕府が指揮を託した西郷隆盛だって全くヤル気がありません。

慶応2年(1866年)に【薩長同盟】が締結されていたからです。

西郷隆盛/wikipediaより引用

そんな絶望的な状況の最中、徳川家茂は長州征討で先頭に立つことも、大御所になることも、江戸へ戻ることすら叶いませんでした。

慶応2年7月20日(1866年8月29日)、病に倒れた家茂は、大坂城で命を終えてしまいます。

享年21。

江戸城の大奥で、和宮は夫が贈ってきた西陣織を抱きしめ、涙に暮れたのでした。

死の間際、家茂は田安亀之助(のちの家達)を後継者に指名しました。

しかし彼はまだほんの幼児にすぎず、将軍職は慶喜に巡ってきます。

慶喜が将軍になればいいと期待していた一橋派の面々も、すでに白けているし、島津久光はむしろ恨みと思っている。

慶喜に忠義を尽くしていたかのような渋沢栄一ですが、彼は別の意味で焦りました。

かつて倒幕を志し、テロ計画が発覚してからは、捕縛を逃れるため一橋家に仕えていた。

それが今また情勢が代わり、今度は自分たちが倒される幕府側になってしまった――。

慶喜自身にしても「幕府はもうもたない」という認識は大いにありました。

なんとしても「将軍にだけはなりたくない」とゴネたという話もあります。

なんせ最初の仕事は、無様な敗北をした【第二次長州征討】の後始末です。

と、ここで考えたいのは、先の福沢諭吉の仮定ですね。

果たしてこのとき、勝ち目はあったのか?

なかったとは言い切れない要素はあります。

・フランス支援が見込めたこと

・幕臣随一の切れ者である小栗忠順が「断固として長州藩を叩き潰すべきだ」と主張していたこと

まったくあり得ない“if”ではない。

その一方、家茂の死をもって、実質的に上様を失ったと嘆いていた幕臣が多かったことも確かです。

「せめて家茂が生きていれば……」という声は確かにありました。

源頼朝以来、忠義が芽生えていった武士たち。それが慶喜の頃には偽りに塗れてしまっていたのは、実に皮肉なことに思えます。これも時代の流れでしょうか。

そして事態はさらに悪化してゆきます。

討幕を目的とするというより、政権から弾き出されていた薩摩が手を組む相手を模索していると、慶応2年末(1867年)、孝明天皇が崩御したのです。

 

大政奉還という大ばくち

慶応3年(1867年)ともなれば、もはや幕府は風前の灯。

だからこそ不可解なのが土佐藩というピースです。

土佐藩でも内部抗争はありました。

しかし、武市半平太率いる【土佐勤王党】の崩壊後は、実質的権力者といえる山内容堂の主導で動いています。

山内容堂は聡明で、彼の懐刀であった吉田東洋の薫陶を受け、先進的な思想を持っていました。武市半平太一派を壊滅させたあとは、その路線に立ち戻っています。

そもそも【大政奉還】は土佐藩主導のアイデア。

しかし、この土佐藩の政権構想がつかみにくいのです。

明治維新が、彼らの想定していた政権の在り方でないことはわかる。しかし、目指した道が何だったのか?というと掴みにくい。

慶応3年(1867年)10月12日、幕府は二条城二の丸に老中たちを呼び出し、【大政奉還】を宣言しました。

教科書などでもお馴染みの絵画もあり、

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用

いかにも理路整然と進められたように思われる幕末一のビッグイベントですが、実際は大混乱を招いています。

慶喜一世一代の大ばくちで、またもや彼の欠点が出てしまう局面を迎えるのです。

慶喜は確かに有能だけれども、あまりにも空気が読めず「ほう・れん・そう」を軽視する傾向もあった。

まず【一会桑】を構成していた会津藩と桑名藩ですら慶喜の考えを理解していない。

彼らが理解できないことを、どうして他の者が理解できようか。

【大政奉還】は、発案した土佐藩、慶喜とその周辺くらいしかわかっていなかったのではないかとすら思えます。

当時の人も思いました――慶喜は一体何を狙っていたのか?

この件に関しては、慶喜本人もアピールしてないことから未だに謎が多いものとされています。

徳川慶喜/wikipediaより引用

ただ、例外的に深い満足感を抱いていた人物もいます。

イギリスのパークスです。

慶喜と面会したパークスは、知性あふれる姿にすっかり魅了されていました。

思えば彼の祖国であるイギリスは、二度の革命を経験しています。最初の【清教徒革命】は国王を斬首したものの、二度目の【名誉革命】ではそうはならない。

イギリスは【フランス革命】を野蛮で残酷だと非難してきました。

そんなイギリス人からすれば、潔く政権を返上した慶喜は素晴らしい! そう拍手でもしたくなったのかもしれません。

しかし、パークスは日本独自の権力構造をどこまで理解していたか。

日本では上皇と大御所という特異的な制度があります。その座を退いた権力者が依然として権力を保ち、ときには現在の在位者より影響力を与えることがある。

慶喜が【大政奉還】で本当にアッサリと権力を返上するつもりだったのか?

それは断言できませんが、確かなことはあります。

倒幕側は「慶喜が諦める」とは思わなかった。権力を投げられたところで、朝廷には国事を行うノウハウがなく、困惑するしかない。

慶喜は依然として800万石の大大名でありカリスマもあった。

そのため事態は悪化してゆきます。

先程パークスに触れましたが、実はイギリスには「日本で内戦が勃発して欲しい」という思惑がありました。

2013年大河ドラマ『八重の桜』初回冒頭は、アメリカ【南北戦争】の光景が入りました。

ただの受け狙いではなく、あれには意味があります。戦争で余った武器を売り捌けば、一儲けできる。そう考えたイギリス商人たちが、日本を市場とすることを見越していたのです。

実のところ、イギリスは日本を大切にしたいという気持ちなんて毛頭ありません。

なんせヴィクトリア女王は【生麦事件】の報告を受け、戦争しろと怒りを燃やしていたほど。イギリスが考えた江戸総攻撃計画も存在します。

清の二の舞にならなかった幕末明治の日本については、華々しい伝説が語られています。

司馬遼太郎『世に棲む日々』では、敗北したにもかかわらず、高杉晋作がイギリス人らを圧倒した場面が印象的に描かれます。

しかしこれはあくまで創作。実際にイギリス人が見た高杉は、すっかりおとなしくなっていたと記録されています。

幕末史では、司馬遼太郎を否定する論が往々にして登場します。こうした司馬の描写は歴史的根拠はありません。根底にあったのは明治維新百周年のお祝いムードと、高度経済成長期が重なり合った当時の上向きの世論です。

大河ドラマやマスメディアもこれに乗じていわば共犯関係で盛り上げた論調がいまだに残存し、幕末史理解をかえって妨げていることは理解しておきましょう。司馬のことはいったん脳裏から消し去ったほうが、日本近代史理解は捗ります。

こういう明治以来の“神話”はなぜかしつこく残り、ことあるごとに語られます。

現実は、資本主義社会へ向かいつつあるイギリスその他列強の思惑次第でした。

清は戦争してでも侵攻し、領土にするだけの旨みがある。領土は広く、絹はじめ魅力的な物産がある。なんなら清国人を労働者にしてもよい。

一方、日本は魅力が一段劣る。無理に侵攻するよりも、傀儡国家を置いて、極東の牽制をさせたらよいのではないか? うまい具合に内戦に持ち込めば武器を売り捌くことができるし、従順になるだろう。

そういう今流行の「地政学」を明治維新に応用すれば見えてくることもあるのでしょう。

さまざまな思惑と流血がこの間にありました。坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺。そして赤松小三郎の暗殺です。

坂本龍馬は彼一人の思惑だけでなく、土佐藩の意向を受けて動いていたとみなされます。暗殺の実行者は京都見廻組・今井信郎であると確定しています。

そのため、京都守護職・松平容保の命令があったのではないかとされていますが、これまた不可解な点がある事件です。今後の研究が期待されます。

坂本と中岡の死は、もう一人の犠牲者である赤松小三郎について考えることで理解が深まります。

坂本・中岡、そしてこの赤松に共通しているのは、武力討幕回避を目指していた点です。

赤松は会津藩の山本覚馬とも距離が近い。薩摩藩とは深い繋がりがある。列強の介入を引き起こしかねない内戦を避けるべく、彼は積極的に動いていました。それが目障りであったのか、薩摩藩の指示により暗殺されてしまいます。

暗殺実行者である中村半次郎は精神状態が悪化するほど、この事件に心を痛めたものです。それほど理不尽なものだったのでしょう。

赤松と近かった山本覚馬は、薩摩藩により捕縛されています。彼は幸運にも、命までは奪われませんでした。

かくして内戦を阻止せんとするものは歴史の中に埋もれてゆき、結果的に事態は幕府の破滅と、それに伴う流血へと進んでゆきます。

それは散々語られてきました。

断固として武力倒幕を果たしたい西郷隆盛らの欲求は流血を伴いながら通り、慶応4年(1868年)が徳川幕府最後の正月となりました。

こうして、慶喜は一度たりとも将軍としては江戸城に入らなかったまま、その治世を終えたのです。

NHKドラマ10『大奥』では、徳川家定が慶喜のことをこう評していました。

「慶喜には心が無いのだ 国の民や家臣を思う心が無い者はどんなに聡くても将軍にはふさわしい器の者ではない!」

勝海舟は、将軍となった慶喜にこう語ったとか。

「御先代はお若かったが、とてもよいお方で、みな望みを託していたんですよ。それがああなって……私の奉公というのは、先代あってのことでして。あなたに奉公するとは思っておりません」

勝海舟/wikipediaより引用

勝海舟にとって、最後の徳川将軍は家茂でした。

後に福沢諭吉からさんざん批判された勝海舟があっけらかんとしていたのも、どこか慶喜に冷たい気持ちがあったからかもしれません。

これは勝一人のことでもなく、福地桜痴ですら、家茂こそ実質的に最後の将軍ではないかと振り返っているほど。多くの幕臣が同じ思いでした。

江戸っ子ともなれば、さらにそうなります。

彼らからすれば上洛を見送った家茂こそが最後の愛すべき公方様。彼の上洛を描いた錦絵は、華々しく絵草紙屋で翻っていたものです。

一方で慶喜は、江戸から離れた京都で公方になり、放り出してきた無責任な存在です。

豚を食う一橋という意味の「豚一」。すぐ言うことが変わる「二心殿」。そんな蔑称までつけられたほどであり、慶喜はせいぜい「一橋様」どまりでした。

幕臣たちが納得するだけの、将軍としての心が無い――それが徳川幕府の悲劇であったのかもしれません。

慶喜の独断専行ぶりは、松平容保が悲憤の思いで詠んだ漢詩からもわかります。

古より英雄数奇多し

何すれぞ大樹 連枝をなげうつ

断腸す 三顧身を許すの日

涙を揮う 南柯夢に入るとき

万死 報恩の未だ遂げず

半途にして墜業 恨みなんぞ果てん

暗に知る 気運の推移し去るを

目黒橋頭 子規啼く

 

古来より英雄は数奇な運命を辿ることが多い

何故、大樹が連枝を見捨てるのか(大きな樹の枝、将軍と親藩のこと)

断腸の思いだ、三顧の礼にほだされて許してしまったことが(何度も断った京都守護職を受け入れたこと)

涙がこぼれてしまう、儚い我が人生を思えば(南柯夢、唐代伝奇小説「南柯太守伝」に基づく)

恩義に応じられなかったことは万死に値する(孝明天皇の信頼に対する恩)

志半ばで失墜してしまったことを、恨んでも恨みきれない

機運が去ったことすら、あとで知らされたのだ(大政奉還を会津藩に知らせずにしたこと、討薩を演説しながら大坂城から単独で慶喜が逃げた事等、通達が全くない状態か)

目黒の橋頭では、ホトトギスが血を吐き鳴く声が響く

【大政奉還】直前、会津藩は京都から会津へ戻ることを何度も強く願い出ていました。

それを引き留めたのが慶喜です。

慶喜はずっと手勢を持たずにいたため、身を守るための駒を常に必要としていました。

そのボディガード役を果たすよう強要されたために、彼らは戻れなかったのです。

鳥羽・伏見の戦い】で大敗したあと、大坂城から慶喜はこっそりと逃げ出します。

その前に、慶喜は朗々たる声音で配下の武士たちに「共に戦おう!」という【討薩の表】を命じていました。

こうして下された慶喜の命令は、【箱館戦争】終結まで徳川武士たちを縛り付けます。

そこまでされて慶喜に対し「怒るな、恨みを捨てろ」というのは、あまりに酷ではありませんか?

何がなにやら意味がわからない、ただ、見捨てられたことだけはわかる――そんな悲痛の思いを、慶喜に従った者たちは噛み締めたのでした。

それでも容保は、生き延びたからこそ、その思いを残すことができました。

江戸城へ逃げ帰ってきた慶喜の前に、小栗忠順は迎撃策をあげました。慶喜がそれを振り払うと、その袖に縋ってまで献策を続けようとしました。

江戸近郊から東北、そして北海道まで、西軍は鎧袖一触の快進撃を続けたような印象があります。

しかし決してそうではありません。

当時の認識では、あくまで天皇のおわす京都を制圧すれば政権交代は完結できました。関東以北でも勝てるか、実は攻める側にもわからなかったのです。

後に小栗の迎撃案を見た西軍の将たちは、顔色を蒼ざめさせたと伝えられています。

これでは勝てない、なぜこれが採用されなかったのか。そう冷や汗をかいたのです。

策を却下された小栗忠順は自領に戻り、身重の妻の安産祈願をする静かな日々を送ることにしました。彼の元に彰義隊の渋沢成一郎はじめ、再起を促す誘いは幾度かありました。しかし小栗はそれを拒みました。

しかしそこに功を焦る西軍が押しかけ、ろくな取り調べもせぬまま、小栗を斬首。

もしもあのとき、小栗の策が採用されたいたら――明治新政府が目を光らせる世で、そう嘆いた者は少なくなかったことでしょう。

小栗忠順をよく理解していた福沢諭吉は、彼をこう評しています。

鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)

心身ともに全力をを捧げ尽くして努力すること

この言葉は諸葛亮「後出師表」からの引用です。

たとえ諸葛亮ほどの知謀の持ち主であっても、それを発揮できたのは主君である劉備と劉禅は採用したからといえます。

小栗はある意味、この諸葛亮よりも不運でした。

【第二次長州征討】でも、江戸城でも、慶喜は彼が出した必勝の策を取り上げることすらなかったのです。

劉禅は蜀が滅んだあと、亡国など忘れたかのように振る舞ったことで、暗君とみなされました。

明治の慶喜も静岡で悠々自適の暮らしを送り、幕臣たちを嘆かせたものです。

あえて諸葛亮の言葉を用いて小栗忠順を評した福沢からすれば、日本最後の将軍である慶喜は、劉禅以下の人物に思えたのかもしれません。

どれほどの苦い思いとともに彼が将軍の世の終焉を見ていたのか、想像するだけで胸が痛くなります。

『逆賊の幕臣』では福沢諭吉の姿にも注目したいものです。


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【参考文献】
家近良樹『徳川慶喜 (人物叢書)』(→amazon
久住真也『幕末の将軍』(→amazon
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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