斉昭と慶喜の女性スキャンダル

徳川斉昭(左)と徳川慶喜の親子/wikipediaより引用

幕末・維新

女性スキャンダルが痛すぎる斉昭&慶喜親子 幕府崩壊にも繋がった?

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斉昭と慶喜の女性スキャンダル
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お芳が開陽丸に乗り込んだから大変だ

鳥羽・伏見の戦い前夜――。

慶喜は『討薩表』を記し、家臣たちの士気を鼓舞しました。

そうだ! 今こそ薩摩を討つべきだ!

そう奮い立つ幕府の将兵ですが、戦略ミスもあって【鳥羽・伏見の戦い】に敗北。

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一方で大坂城は、煮えたぎるような興奮に沸き立っていました。

今度こそ、慶喜公が御出馬なさるべきだ! さすれば勝つ! せめて城を枕に討ち死にをしよう!

しかし、主戦論が息巻く中、慶喜の姿が忽然と消えたのです。

一体何があったのか?

実は逃亡の直前、会津藩の神保修理長輝が慶喜に東帰(江戸へ戻ること)を勧めたという話があります。

大政奉還したのにボタンの掛け違いで戦闘に至ったからには、おとなしく罪に服する

・あるいは東から捲土重来を狙う

言い分としてはこの辺り。

ただ、このことは神保側と慶喜側の間で、証言の行き違いがあり、明確にされていません。

確かなことは神保夫妻の運命です。

神保の言動に会津藩士が激怒し、切腹処分となったのです。さらに神保の未亡人・雪子は会津戦争において娘子軍として従軍し、戦死を遂げました。

鳥羽・伏見の戦いで、錦旗が翻ったからには朝敵にだけはなれない――慶喜がそう思い詰めたのも理由にされたりしますが「錦旗が本物かどうか……あれは胡散臭いぞ」というのは当時から散々指摘されています。

ともかく慶喜は、拉致するようにして会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬を引き連れ、軍艦に乗り込みました。

容保を連れていくにも関わらず、会津藩士にそのことを告げなかったのは、反対されると面倒だから。容保は涙ながらに抵抗するも、慶喜が主命をふりかざすため、それこそ血を吐くような思いで軍艦に乗り込んだのです。

ここまでは涙があふれそうな顛末です。

しかし、話はここで終わりません。

慶喜らが乗る停泊中の軍艦に、一艘の小船が近づいてきます。なんとその上には、あのお芳がいるではありませんか。

「ええい、いかに寵愛を受けたとはいえ不届なやつ!」

そう追い払われそうになるも、お芳得意の啖呵でも切られたのか。結局、彼女は開陽丸に乗り込みました。

彼女の姿を見た者たちは呆然とします。

家臣を煽っておきながら、自分だけ東へ向かう。それだけでも言語道断なのに、よりにもよって女連れとは……。

武士の誇りとは? 武家の棟梁とは? この人を公方様として仰いできた家臣の立場とは?

あまりに無惨な幕府瓦解の姿がそこにはありました。

なお、お芳は明治になると実家に戻されました。

 

聡明だが臆病な父子

斉昭と慶喜父子に振り回された者は大勢おります。

会津藩士や幕臣ともなると、まず激怒が先立つ。

大坂城から東帰するあたりを回想するとなると、怒りと軽蔑のボルテージがあがり、ただならぬ迫力があります。

そういったバイアスを差し引いて、冷静に慶喜の性格分析をできる人物がいます。

一橋派として斉昭に振り回され、慶喜につきあいきれず苦労した松平春嶽で、彼はこう分析しています。

慶喜は聡明である。感心せずにはいられない。

だが、これはあまり世間では知られていないものの、肝っ玉が小さい。臆病なのだ。

この性質は、父譲りと思われる――。

慶喜は家康の再来とはされます。

しかし、人間の器量とは、聡明さだけでは測れない。

確かに家康は【三方ヶ原の戦い】で武田勢の猛攻から逃げたとされます。

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それでも一度は信玄に立ち向かい、敗戦を受け入れての逃亡ですから問題ない。勝敗は兵家の常でしょう。

では慶喜は?

ほぼ戦場に出ません。

慶喜が颯爽とした姿を見せた戦場は、味方が有利であり、窮鼠猫を噛もうとしていた【禁門の変】ぐらいのもの。あとは出陣を乞われても、のらりくらりとかわしていたのです。

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こうした性質は、こと女性に関しても表れていると思えてきます。

嫌がらせのように唐橋に手をつけておきながら、堕胎させるままにし、こっそり茨城で囲う斉昭。吉子の目をおそれてか、身分の低い女中を狙って手をつけるあたりにも、臆病な性質が見えます。

慶喜は子沢山ではありますが、それでも、母親である側室は身分の違いもあってか、細やかな愛情を示した類の逸話はさしてありません。

この父子は「安全圏であれば傲慢に振る舞い、そうでなければ縮こまる」という悪しき傾向を感じるのです。

 

斉昭と慶喜親子をどう評価すべき?

歴史とは、見る側の意識や世相が反映されます。

第二次世界大戦を経験した世代は、慶喜と近衛文麿を重ねる傾向が出ます。

無責任な国の上層部と慶喜を重ね、苦さを噛み締めてたのです。

樺太出身の綱淵謙錠(つなぶち けんじょう)は、終戦を学徒動員された第七師団で迎えました。

樺太という故郷を失った綱淵は、慶喜が薩摩を討つべく出した命令と、自分一人逃げ帰ったことをどうしても戦争と重ねてしまったと言います。慶喜は軍の上層部であり、戊辰戦争で戦った人々は、樺太に残された人々と重なって思えたのです。

戦中派であり、同窓生の多くを戦争で失った山田風太郎は、慶喜の「豚一」をこう皮肉っています。豚肉を食べる一橋公だから「豚一」だが、男10人、女11人を産ませた点も“豚”に思えなくもないと。

こうした戦中派の辛辣な評価を、我々はどう見るべきか。果たして時代のせいだとして軽んじてよいものか。

斉昭のように強烈な自己愛で社会を引っ掻き回す人物。

慶喜のように無責任極まりなく、人の気持ちを軽んじる小心者。

こうした権力者を無批判に称え、持ち上げることは危険ではありませんか。

そんな連中に乗せられた結果を、戦争体験者は知っているからこそ、ああも厳しい評価になる。

平和な令和日本だからといって、大河ドラマで父子のキャラクターを過剰におもしろがり、「いい人すぎる!」と持ち上げる危険性について、どうしても考えてしまいます。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
野口武彦『幕末パノラマ館』(→amazon
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon
半藤一利『もうひとつの幕末史』(→amazon
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』(→amazon
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon
山田風太郎『人間臨終図鑑』全3巻(→amazon

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