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【薩長同盟】
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龍馬と慎太郎と薩長同盟
坂本龍馬と薩摩は、以前から親密な関係が築かれておりました。
一方、尊皇攘夷派の志士だった中岡慎太郎は、土佐脱藩後に長州藩で世話になるなど、長州との関係は深いものがありました。
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要は、龍馬も中岡も、薩摩と長州を繋げるのに、うってつけの人物だったのですね。
そして龍馬は実際に、自身の亀山社中(後の海援隊)を通じて「薩摩藩から長州藩へ武器を融通する」お手伝いを実行します。
あれほど憎しみ合っていた両藩も、いざ武器の調達が始まると現金なもので、長州藩主の毛利敬親・元徳父子から薩摩藩の島津久光・忠義父子に手紙が送られるなど、両者の関係性は急速に良化するのでした。
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かくして迎えた1866年1月。
長州藩の木戸孝允が、薩摩との会談に向けて上洛します。
話し合いが行われたのは、小松帯刀が京都の宿舎にしていたという「御花畑」でした。
が、いざ会談が始まると、これが残念なことに全く上手くいきません。
木戸孝允と西郷隆盛が向かい合うと、かつての遺恨やプライドが邪魔して、自分たちから折れるような真似ができなかったのです。
「長州がお願いするなら、まぁ、受けてもいいけど」
「いやいや、そんなこと言ってねーわ!」
「んじゃ、どうしたいワケ?」
「ダメだこりゃ、帰るわ!」
とまぁ、超訳するとこんな感じで、互いに引けなくなっていたのです。
見かねたのが坂本龍馬でした。
「いい加減にせい!」ということで両者に熱弁を奮って態度を軟化させ、難しい局面を乗り越えます。
いかにもドラマチックで、そりゃあ幕末No.1の人気キャラになりますよね。
ともかくも、これにて薩長同盟が成立。
しつこく申しておきますと、あくまでこの時点では倒幕の約束はしておりません。
主目的は、お互いを助け合う――というものでした。
薩長同盟その後と慶喜
犬猿の仲である薩摩と長州が密約を交わしていた――。
いくら幕府が催促しようとも、薩摩は一向に重い腰を上げず、ついには1866年4月、大久保利通から「薩摩は長州征伐に参加しない」という建白書が提出されてしまいます。
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そして薩摩不在のまま長州へ攻め込み、幕府軍は連戦連敗。
1866年7月には将軍・徳川家茂が大坂城で亡くなってしまい、慶喜は強引に休戦を推し進めて、第二次長州征伐は幕府の事実上敗北となるのでした。
と言っても、スグに幕府が滅びるようなことにはなっておりません。
1867年5月に開かれた四侯会議では、島津久光・松平春嶽・伊達宗城らと、15代将軍となった徳川慶喜が対面。
影響力を持とうとした彼らを蔑ろにするかのようにして会合を潰し、同年10月にはあっと驚く大政奉還をやってのけ、明治天皇に政権を返上するのです。
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たとえ政権を手放したとしても、徳川一門の経済力は圧倒的です。
さらには長らく政権運営を担ってきたという自負もあり、徳川のチカラなくして政府の運営を行っていくのは無理――という判断をしていたとも伝わります。
しかし、その後の行動は、幕府サイドの人々を落胆させるものでした。
1868年に鳥羽・伏見の戦いが始まるや、途中で大坂から撤退。一連の戊辰戦争となり、佐幕派の諸藩は、薩長を中心とした新政府軍に敗戦を喫するのです。
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かくして薩長を中心とした明治の世が明けるのでした。
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文:五十嵐利休
【参考】
国史大辞典
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編 3』(→amazon)
粒山樹『維新を創った男 西郷隆盛の実像 明治維新150年に問う』(→amazon)