こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【有馬新七】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
過激すぎる尊皇攘夷派
幼き頃から頭脳明晰だった有馬。
こうなると性格もおとなしそうに思えてきますが、実際は真逆でした。
「生まれつきキレやすく過激」
「荒ぶる」
「目上の人の教えに従わない」
そう自認するほど、激しいタチだったのです。
顔にはあばたが残り、その迫力には西郷隆盛でも圧倒されるほど。
周囲の人々は、そんな有馬を「今高山彦九郎」と呼んだとか。
高山は、江戸時代後期の尊皇思想家であり、幕末の人物にも大きな影響を与えた人物です。変わった性格でも知られていました。
優秀で過激な性格の有馬は、そんな高山を彷彿とさせたのでしょう。
こんなエピソードがあります。
あるとき有馬は、役人に尾行されました。
その際、わざと荷物検査をさせまして、役人が唖然とする姿を見て大層おもしろがったとか。
中に、事前に友人から借りておいた女からの手紙が入っていたんですね。
一筋縄ではいかない豪気なタイプという感じで。
さすが薩摩は個性的な面々が多いです。
先鋭化してゆく有馬たち
地頭は優秀。
ときにエキセントリックな性格。
そんな有馬にとって、幕末の混乱期は肌に合っていたのでしょう。
どんどん思想を先鋭化させてゆきます。
特に1858年は複数の問題が一気に噴出した年でありました。
・幕府による無勅許条約調印(日米修好通商条約)
・島津斉彬の死
幕末薩摩の名君・島津斉彬~西郷らを見い出した“幕末の四賢侯”50年の生涯とは
続きを見る
安政の大獄は井伊直弼が傲慢だから強行されたのか? 誤解されがちなその理由
続きを見る
安政の大獄においては、月照が入水自殺しただけでなく、西郷が島流しにされ、有馬と親しかった梅田雲浜も獄死します。
一方、有馬は「精忠組」の一員として常に先頭を走るような状態です。
止められるはずがありません。
西郷や大久保を輩出した薩摩の精忠組(誠忠組)目をかけていたのは久光だった
続きを見る
かくして安政3年(1856年)、幕府のやり方に憤激した有馬は、水戸藩士らと井伊直弼暗殺を計画。
途中で島津久光の牽制にあい、この計画からは手を引くと同時に帰国します。
桜田門外の変と意外な事実~井伊の首を取ったのは薩摩藩士だった
続きを見る
文久元年(1861年)、造士館訓導師に昇進すると、藩士たちに尊王精神を教え込みました。
それは校風を変えてしまうほどの影響力であり、有馬の教えに大きく感化される者も続出します。
迎えた文久2年(1862年)。
薩摩藩の「国父」こと実質的な指導者である島津久光が、兵を率いて上洛することになりました。
時は今、倒幕すべき――。
有馬は今こそ尊王攘夷派を糾合し、倒幕を実現すべきだと考えます。
そして、それが悲劇の始まりでもありました。
※続きは【次のページへ】をclick!