有馬新七

有馬新七/wikipediaより引用

幕末・維新

有馬新七 最期の言葉は「おいごと刺せ!」幕末薩摩で屈指の激しさだった生涯38年

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過激すぎる尊皇攘夷派

幼き頃から頭脳明晰だった有馬。

こうなると性格もおとなしそうに思えてきますが、実際は真逆でした。

「生まれつきキレやすく過激」

「荒ぶる」

「目上の人の教えに従わない」

そう自認するほど、激しいタチだったのです。

顔にはあばたが残り、その迫力には西郷隆盛でも圧倒されるほど。

周囲の人々は、そんな有馬を「今高山彦九郎」と呼んだとか。

高山彦九郎/wikipediaより引用

高山は、江戸時代後期の尊皇思想家であり、幕末の人物にも大きな影響を与えた人物です。変わった性格でも知られていました。

優秀で過激な性格の有馬は、そんな高山を彷彿とさせたのでしょう。

こんなエピソードがあります。

あるとき有馬は、役人に尾行されました。

その際、わざと荷物検査をさせまして、役人が唖然とする姿を見て大層おもしろがったとか。

中に、事前に友人から借りておいた女からの手紙が入っていたんですね。

一筋縄ではいかない豪気なタイプという感じで。

さすが薩摩は個性的な面々が多いです。

 


先鋭化してゆく有馬たち

地頭は優秀。

ときにエキセントリックな性格。

そんな有馬にとって、幕末の混乱期は肌に合っていたのでしょう。

どんどん思想を先鋭化させてゆきます。

特に1858年は複数の問題が一気に噴出した年でありました。

安政の大獄においては、月照が入水自殺しただけでなく、西郷が島流しにされ、有馬と親しかった梅田雲浜も獄死します。

一方、有馬は「精忠組」の一員として常に先頭を走るような状態です。

止められるはずがありません。

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かくして安政3年(1856年)、幕府のやり方に憤激した有馬は、水戸藩士らと井伊直弼暗殺を計画。

途中で島津久光の牽制にあい、この計画からは手を引くと同時に帰国します。

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文久元年(1861年)、造士館訓導師に昇進すると、藩士たちに尊王精神を教え込みました。

それは校風を変えてしまうほどの影響力であり、有馬の教えに大きく感化される者も続出します。

迎えた文久2年(1862年)。

薩摩藩の「国父」こと実質的な指導者である島津久光が、兵を率いて上洛することになりました。

時は今、倒幕すべき――。

有馬は今こそ尊王攘夷派を糾合し、倒幕を実現すべきだと考えます。

そして、それが悲劇の始まりでもありました。

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