幕末の志士・維新の志士・攘夷の志士

幕末・維新

幕末維新に登場する“志士”は憂国の士なのか それとも危険なテロリストか

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志士
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志士と心即理・知行合一

国を思い、世の中を良くしようとした志士たち――それの一体何が悪いのか?

もちろん悪くありません。

幕末でなければ、志士の原型となる教養豊かな人々も無害でした。それが時代が下るにつれ変わってゆき、思想の流入も進みました。

幕末前夜、世の中を変えるため行動した先駆者がいます。

大塩平八郎です。

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ご存知【大塩平八郎の乱】はすぐに鎮圧されたため、さほど印象に残らなかったかもしれません。

江戸時代初期の【由井正雪の乱】とは異なり、世を憂いた大塩はより良い政治をめざして決起しました。

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その大塩が学んでいたのが陽明学です。

陽明学は「心即理」、すなわち「心こそ理である」という教えがありました。

そして「知行合一」を主張しました。こちらは「知っていて行わないならば未だ知らないことと同じである」という意味ですね。

悪政があり、不満がある――そうわかっていながら何もしないなら、知らないことと変わらない。見逃すことは悪事に加担するようなものだ。

そう考えると大塩の行動も素晴らしいと思えます。

しかし“思ったら即行動”というのは、短絡的になる危険性もあります。

ゆえに体制の維持をするどころか破壊するものとして、中国の明清、朝鮮王朝では危険思想の扱いであり、日本でも【寛政異学の禁】により禁止されました。

だからこそ志士は「敢えて陽明学を学ぶ俺!」という発想につながっていきます。ましてや非業の死を遂げた陽明学思想家なんて、もう言うことなし。

その典型例が明末・李卓吾です。

彼の説く教えは危険だとして投獄され、獄中で自死を遂げたのですが、吉田松陰はこの李卓吾を熱烈に崇めました。松下村塾生たちのエネルギー源に陽明学もあったのです。

こうした陽明学が水戸学にも影響を及ぼしました。

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陽明学的な言動が濃い人物としては、吉田松陰と西郷隆盛が代表格とされております。

一方で朱子学的な人物としては大久保利通がおります。

朱子学的な人物は冷徹とされ、人気が低迷する傾向を感じますが、組織を強固に形成するという点では役立つと思えます。

 


脱藩・改名・変装・話を盛るのが志士

幕末作品のお約束として、武士ならば脱藩、豪農ならば家からの出立があります。

確かに、家族に見送られつつ、江戸や京都をめざす青年の姿は感動的。

物語であれば重要な場面になりますが、現実はそんな簡単ではない。

武士の脱藩は重罪です。

農民が家業を放置して家出することも迷惑なこと。

フィクションでは、主人公となる人物が成功した【生存者バイアス】があるため、その勇姿が描かれますが、実際には、そのまま家に戻れなかった哀しき志士も大勢いるのです。

志士は偽名を使うことがよくあります。

江戸時代以前は一人が複数の名を名乗ることもよくありましたが、幕末にテロ行為をするために別名が必須となりました。

変装をし、潜伏することもあります。そうでなければ活動ができない。新選組における斎藤一の逸話が有名ですね。

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斎藤一の名前を挙げたのにも理由があります。

新選組は負け組であるため、忖度なしで記録を残せました。

悪いことでもありのままに描けますし、なんなら勝者サイドが話を盛っても文句を言われにくい。

ゆえに「内部粛清を繰り返し、暴力的で、強奪する野蛮な集団」というイメージができました。

これは新選組に関する情報だけでもありません。幕末の武装組織については、だいたいこの特徴があてはまります。

勝った方は自分たちを良く見せるためクリーンアップが実施されていることもあります。

いわゆる「歴史は勝者が作る」というものですね。

長生きして、かつ権力者ともなれば、都合のいいストーリーを流布できました。

 


志士は血に酔い天誅くだす

ここで思い出したいのが大塩平八郎のところで触れた「知行合一」という言葉です。

志士は思うだけではよろしくない。行動しなければ志士とはいえない。そう考えた彼らは突発的な行動に走りました。

そもそも江戸時代を通して、人々の暴力性は低下していました。

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武士による「切り捨て御免」なんてまず起こらず、旗本御家人といってもろくに刀も振れたものではないと揶揄されたほどです。

それが幕末になるとガラリと変化。

幕末の人物には、うっかり誰かを斬って処分を受けた人物も多い。暴力傾向が蔓延しつつありました。

それがある人物がロールモデルとして浮上することにより、爆発したかのような感があります。

烈公こと徳川斉昭です。

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パワーにあふれ、熱狂的で、ともかく執拗。彼のキャラクター性は幕府を震撼させました。

大名個人の影響力という点では、長州や薩摩よりも致命的な影響を幕府に与えたのです。

幕政に乗り込んだ斉昭は、異人対策となるとこう主張。

「ええい、かくなる上は異人を斬ればよい!」

むろん斉昭本人は異人を斬りませんが、その力強さは人々、とりわけ志士を酔わせます。

そして斉昭の意を汲み取る水戸藩士たちが登場してきたのです。

「烈公のために行動に移さねばならん、知行合一!」

その結果起きたのが【桜田門外の変】でした。

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【桜田門外の変】で、志士は目覚めます。

行動すれば政治は変わる――その結果が攘夷テロの続発なのです。

「トンビ鼻の異人が気にいらん!」と侮蔑するだけでは事足りず、見かけたら斬りつける事件が続きました。

前述の通り、志士はともかく若い。血の気が多い若者たちは争うようにテロリズムへ走ったのです。

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明治政府は天誅を禁止しましたが、行動第一の志士は止まりません。

結果、大久保利通、横井小楠大隈重信……と、数多の政治家がテロの標的とされました。

権力者が熱狂的なイデオロギーを主張し、それを民衆に吹き込むことがどれほどおそろしいか?

斉昭の存在は、そのことを示す歴史上の好例ともいえます。

そしてその暴力の矛先は、斉昭自身の水戸藩でも吹き荒れ、彼の死後に【天狗党の乱】が起き、幕末でも屈指の惨劇が展開されたのです。

しかも惨劇の度合いが群を抜いていたため、水戸藩では人材が枯渇してしまい、明治新政府でも存在感を失っていました。

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こうした志士の価値観をさして「幕末の日本人はこんなものだよね」とみなすことはできません。

来日外国人の記録には、こんな感慨があります。

「みな幸せそうで、好奇心に満ちた善良な日本の人々。ずっと彼らが幸せでありますように……。

だが、あのローニンたちはおかしい。恐ろしすぎる! 出くわさないようにしなければ」

志士は、当時の日本でも過激でした。

渋沢栄一は、その著書や講演で「今時の若者は我々の若い時代のような、思い立ったらすぐ行動する気迫がない」との旨を語っております。

しかし、明治時代の若者は幕末の志士のように行動できなくなっていました。

例えば前述のように明治政府は早々に天誅を禁止しています。

政府としては、志士のように若者が振る舞っては困るのです。

現代社会でも、志士をロールモデルにするなんてありえません。ともすれば「法を犯すこと」に繋がります。

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