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【坂本龍馬】
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土佐勤王党
坂本龍馬という人物は、狭量にもなりがちな尊皇攘夷派とはひと味違います。かといって尊皇攘夷思想と無縁ではありません。
国のためを思い、龍馬が接触したのは「土佐勤王党」でした。
「土佐勤王党」とは、文字でわかる通り、土佐藩で尊皇攘夷の志を掲げるものです。
彼らの目的は「老公=山内容堂」の志を全うし、皇国のために尽くすこと。
こうしたグループは、幕末史において非常に重要な役割を担っています。
龍馬もこの志に感銘を受け、土佐勤王党の一員として名を連ね、長州藩の尊皇攘夷派・久坂玄瑞とも交流しています。
しかし……。
龍馬はすぐに、土佐勤王党とは気が合わないと気づきました。彼らは「君側の奸を除く」と主張し、そのためには強硬手段も辞さなかったのです。
「君側の奸を除く」という考えは、実は東アジアでは伝統的な考え方です。
要するに、主君は悪くないが、主君をたぶらかす奸臣がいるから、それを斃す。表向きの名分はそういったスタンスでしょう。
しかし、あくまで君主は悪くないと言いながら、結果的には自分たちにとっての政敵を排除するために強硬手段を辞さないというものでして。
幕末にも猛威をふるった考え型ですね。
土佐勤王党が目を付けた奸臣は、吉田東洋でした。
正義のために、吉田東洋を暗殺する――。
その計画に、龍馬はついていけなかったのです。
最初の脱藩
文久2年(1862年)、龍馬は脱藩することにします。
龍馬だけではありません。このころには土佐勤王党の過激さについていけなくなった者が、袂を分かっていました。
とはいえ、龍馬の尊皇攘夷活動が無駄になったわけではありません。
龍馬は尊皇攘夷活動を通して、様々な人脈を築きました。
長州藩・萩にも滞在して、久坂玄瑞ら長州藩士とも交流しています。
誰とでも打ち解ける龍馬は、多くの人に好印象を与えました。
文久2年(1862年)、龍馬は一度目の脱藩を果たします。吉田東洋暗殺に関与することを避け、もっと大きな世界を見るため、土佐を離れたのです。
脱藩の際に、二姉・栄が銘刀「陸奥守吉行」を渡し、自害したという逸話があります。
司馬遼太郎著『龍馬がゆく』でも出てきた逸話ですが、近年は否定されています。
栄の没年にはいくつか説があり、近年、確定した没年によれば、栄は龍馬の脱藩よりはるか前、嫁ぎ先で亡くなっていたことが判明しました。
2010年大河ドラマ『龍馬伝』では栄が登場せず、乙女が刀を渡すという展開になっています。
勝海舟との出会い
文久2年(1862年)末、龍馬は勝海舟(当時は勝麟太郎、本項では勝海舟で統一)と出会い、その門下に入りました。
海運が将来的に役に立つ、そう考えていた龍馬。軍艦奉行並はうってつけの相手といえます。
ここで有名なのが、勝海舟との出会いでしょう。
当初頑固な尊王攘夷主義者であった龍馬は、攻撃的な態度で勝と対峙、説得されて180度態度を改めた、とされることがあります。
これは勝の回想に基づく逸話ですが、実際にはこの前に松平春嶽(松平慶永・橋本左内の主君)と面会し、紹介状をもらっています。
勝は話を誇張している――と見たほうが確実でしょう。
文久2年という歳は、幕末史におけるターニングポイントのひとつです。
島津久光が兵を率いて上洛、幕府に政治改革を迫ったことにより、一橋派が復活したのです。
山内容堂、松平春嶽らも、政治力を復活させました。
ただし、容堂と春嶽はあくまで「公武合体」派であり、倒幕派になることはありません。
江戸時代、脱藩はどの藩でも罪でした。
藩によって軽重の差はあり、寛容なところもあれば、厳しく罰するところも。
土佐藩は、薩摩藩とならび厳しい態度を取っておりましたが、勝が山内容堂に働きかけたことにより、文久3年、龍馬は赦免されています。
このころから龍馬は、夢であった海運へ、近づいてゆきます。
勝の門人として、神戸海軍操練所の設立に向けて奔走するようになったのです。
幕末の海軍は、政治闘争が陸上の京都で行われていたため、あまり注目されない存在です。
しかし、決して使い物にならなかったわけでも、発展しなかったわけでもありません。
龍馬は、この幕府海軍の発展に関与していたのです。
「神戸海軍操練所」には、幕府の枠を越えた多くの逸材が集まりました。
龍馬はこうした中で松平春嶽からも資金面で援助を引き出しています。越前福井藩でも人脈を築きあげ、由利公正らとも交流があったのでした。
しかし、神戸海軍操練所は思わぬところで挫折します。
【八月十八日の政変】や【禁門の変】で、長州藩および尊皇攘夷過激派が政治的に退潮したことをきっかけとして、神戸海軍操練所にも疑いの目を向けられたのです。
幕府の組織でありながら、尊皇攘夷思想を持つ危険な者がいるのではないか?
そう疑われて結局、慶応元年(1865年)には閉鎖されてしました。
土佐勤王党壊滅
政治権力を取り戻した容堂は、土佐勤王党へ怒りを募らせていました。
土佐勤王党の指導者だった武市半平太が、下級武士出身であること。それが容堂の反発の理由とされますが、そう単純な話でもありません。
容堂と土佐勤王党の対立は、島津久光と精忠組のソレと似た構造を持っています。
当初は藩主のアンダーコントロールであったはずの活動が、次第に過激化していった。そこが問題なのです。
君主の怒りを避けるため、彼らは前述の通り、
【主君に逆らうわけではありません。我々は、あくまで君側の奸を取り除きたいのです】
というロジックを用いるわけです。
ただ、幕末においてその理屈が通じることはむしろ少ない……いや、あったのかという話です。
主君側からすれば「私が信じて重用している大事な家臣を排除しようとしておいて、何をほざくか!」というわけですね。
これは、山内容堂や島津久光だけではなく、孝明天皇でも同様でして。
尊王攘夷過激派は、武力によるテロリズムや、倒幕を肯定していました。しかし、彼らがその意思を尊重しているはずの孝明天皇は、そうした流血沙汰をまったく快く思っていなかったのです。
むしろ孝明天皇は、熱心な公武合体派。幕府と協力して難局を乗りきりたいと考えていました。
過激な尊王攘夷派の
・天皇の意思をも無視
・藩主すらないがしろにする
・血腥いテロリズムすら辞さない
という条件が揃っていた危険分子たちが処罰されないほうが不自然です。
明治維新の後、明治政府の元勲に元尊王攘夷過激派が含まれるため、そのあたりがぼかされてしまい、わかりにくくなりがちです。弾圧されるだけの理由はあったのです。
容堂からしても土佐勤王党を弾圧する理由があるとはいえ、龍馬にとってはかつての仲間が処罰されてしまいました。
しかも、切腹を命じられた平井収二郎は、龍馬の恋人であった加尾の兄。酷いことだ、と龍馬は手紙で嘆いています。
そして土佐勤皇党は、慶応元年(1864年)までに岡田以蔵、武市瑞山らが切腹に追い込まれ、壊滅しました。
龍馬と中岡慎太郎はこうした壊滅には巻き込まれず、別途行動して名を残すことになります。
それどころか、吉田東洋にとって義理の甥であり、土佐勤王党処断に尽力した後藤象二郎と接近。後藤は、土佐藩内の公武合体派として活躍します。
このあたりが龍馬という人物の大きなところではないでしょうか。
彼は倒幕派とも、公武合体派とも接近できる、極めて広い人脈・思想の持ち主でした。
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