天明七年(1787年)の7月23日、二宮尊徳が誕生しました。
最近は少なくなってきましたが、かつては「二宮金次郎像」としてあっちこっちの小中学校に銅像・石像が置かれていましたね。
ちなみに表記は金”治”郎が正しいとか。
間違えそうなので以下「尊徳」のほうで統一します。
「あの像は夜中に走り出す」とか「グラウンドを一周する」などの怪談で有名になってしまったお人ですが、実はその生涯を見ると怖い話とは無縁だったりします。
4歳で土地を喪失 10代で両親を亡くし 20歳で……
尊徳は小田原の百姓の家に生まれました。
例の像が薪を背負って本を読んでいることから「小さいときから苦労して勉強したんだろうなぁ」というイメージをお持ちの方が多いと思いますけれど、実はそれどころではありません。
4歳の頃には父の田畑が嵐で流され、十代半ばで父に加えて母も亡くすなど不幸の連続。
幸い伯父の下で暮らせるようになったのですが、普通の人ならここで下働きのまま終わっていたでしょう。
しかし尊徳は、じっちゃんもとい「父ちゃんの名にかけて!」と奮起して、農業と金策に励み、なんと数年後の20歳で実家を再興してみせました。
別府温泉を切り開いた油屋熊八が聞いたら弟子入りしてそうな話ですね。
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ついには藩の財政を立て直す
その後、尊徳は地主になると農業の現場からは身を引き、小田原藩に仕えて才を見出され、藩政改革に取り組むよう命じられます。
この事業も首尾よく進み、殿様の覚えもめでたくなると、次に主君の親戚筋である下野国桜町(現・栃木県真岡市)などの経営も任され、広く名を知られるようになりました。
当初は地元の人から「あのデカいヤツは何モンじゃ、胡散臭い」と思われたこともあったりしてなかなかうまく行かないこともあったようですが、彼の方針が実を結ぶのを見て徐々に受け入れられました。
そんな感じで働きづめだった尊徳が亡くなったのは、安政三年(1856年)下野国今市村(現・栃木県日光市)でのこと。
戒名の”誠明院巧誉報徳中正居士”からしても、どれだけ多くの人から慕われ信頼されていたかが窺えます。
尊徳の思想は「報徳思想」と呼ばれており、そのままだとややこしいのですが、これを佐々井典比古という人が詩に書き直したものがあります。
「どんなものにも よさがある」で始まり、「よさがいっぱい かくれてる」「ひとのとりえを そだてよう」など、現代のあらゆる面にも通じる素晴らしい詩ですので、ご興味のある向きは「報徳博物館(→link)」からぜひ全文を読んでみてくださいね。
他にも「きゅうりを植えたらきゅうりしかできないのは当たり前なのに、なぜか皆もっといいものができると思い込んでいる」(超訳)というような発言も残しています。
きゅうりを教育に置き換えるとあらあらうふふ。
なぜ学校の怪談になるのかは不明
というわけで、例の銅像・石像はおそらく「実家を再興するまで働きながら工夫を凝らした」ということを表していると思われます。
なぜ学校の怪談になったのかがわかりませんでしたスミマセン。
正直その手の話が苦手なもので、調べる度胸がないんですよね。どなたか詳細をご存知の方がいらしたらぜひ教えてくださいませ。
地元小田原には裃(武士が着てる超肩パッドみたいなアレ)の像もありますが、こちらは正座しているのでさすがに動かなさそうです。
よかったよかった。
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長月 七紀・記
【参考】
報徳博物館
国史大辞典
二宮尊徳/wikipedia