松浦静山

松浦静山/wikipediaより引用

江戸時代

「鳴かぬなら」のホトトギス三句も掲載~松浦静山と『甲子夜話』

天保十二年(1841年)6月29日は、第九代平戸藩主・松浦静山(まつら せいざん)が亡くなった日です。

「静山」は隠居した後の号で、この方は実に全278巻にも及ぶ『甲子夜話(かっしやわ)』の著者として知られます。

元々は「松浦清」という名前だったのですが、今回は静山のほうで統一しますね。

 

平戸藩を治めた松浦家

松浦氏は嵯峨源氏の流れを汲む家の一つ。

戦国時代に松浦隆信という人が豊臣秀吉に従ったことで家を安定させました。

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真面目・従順なのは血筋らしく、ちょっとしたことですぐ「改易!」になる江戸時代で、移封や国替えもされずにずっと平戸藩を領しています。

静山はその松浦家で、宝暦十年(1760年)に生まれました。

父の側室生まれだったことから当時は庶子扱いでしたが、祖父の前に父が亡くなってしまったこともあり、祖父の養子となることで平戸藩を継ぐことになります。

本名の名前が一文字(清)というのも武士としてはなかなか珍しいですが、これははるか昔のご先祖様である嵯峨源氏に、一文字名の人が多かったからだそうで。

嵯峨源氏の有名人としては、源氏物語の六条院のモデル「河原院」を作った【源融(とおる)】などがいますね。

死後、幽霊になって宇多上皇とケンカした話がいくつか伝わっているので、その筋でも有名でしょうか。

ちなみに今も化けて出るとか出ないとか。

当時から残っているとされる榎の木の写真を見ると、確かに「あ、ここヤバイ」みたいな感じがします。

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ついでに後世の話ではありますが、静山の孫・中山慶子が明治天皇の生母のため、彼は明治天皇のひいじーちゃんでもあります。

名前を伝統的なものにすると同時に、家の運も向いてきたんでしょうかね。

それにあやかってか、静山以降の松浦家当主は一字名を通しているそうで。

話があっちこっちに行きましたが、江戸時代に戻りましょう。

 

改革の方針や心構えを記した教科書

15歳という若さで藩主の座についた彼は、他家同様に苦しくなっていた財政を立て直すため、さまざまな改革を行いました。

経費削減や組織の再編、身分を問わない人材登用など、やっていることはスタンダードかもしれません。

しかし、彼の改革には一つ大きな特徴があります。

自ら改革の方針や心構えを記した教科書のようなものを作り、「私はこの方針で行くからよろしく!」ということを、藩の皆に知らせたのです。

いつの時代も、情報伝達は口頭よりも文書のほうが確実なもの。この教科書によって藩主の考えがよく行き届いたのか、平戸藩の改革はうまく行きました。

改革を始めて四年後、静山19歳のときには藩校を作っていますから、少なくともこのときまでにそれなりの効果がみられたのでしょう。

でないと学校作ってる場合じゃないですからね。

この藩校が「維新館」という名前だったため、幕府から「どういうことだゴルァ」(※イメージです)と言われたそうです。

ちなみに「元ネタは詩経(古代中国の詩集)なんで他意はありません」と言い返して事なきを得ました。

ゴリ押しの見本みたいな対応ですね。個人的には好きです。

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