天明8年(1788年)7月24日は田沼意次の命日です。
大河ドラマ『べらぼう』で渡辺謙さんが演じ、米よりも銭を重んじる重商主義のスタイルはすっかりお馴染みとなりました。
以前は「ワイロの権化」として叩かれることもありましたが、江戸時代の経済が現実にお金を中心に回っており、田沼政治もその実情に合わせたものとして描かれています。
むろん、銭だけを重視するあまり、天明の大飢饉では対応が後手後手に回るなど、負の側面もあるわけで……。
実際、田沼意次とはどのような政策を用いていたのか?
ドラマの描写はどこまで史実に則しているのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

田沼意次/wikipediaより引用
八代・吉宗とともに江戸に入る紀州人脈
とにかく米を重視していた江戸幕府にあって、商業や工業、金融を取り込む考え方を実践した田沼意次。
その功績を知るには、彼の“出自”から振り返っておくことが肝要かと思われます。
前述の通り『べらぼう』の第1回放送で、蔦屋重三郎といきなり対面した田沼意次。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
実はこの二人、世襲全盛であった江戸時代の中期において「一代で成り上がった」という特徴があります。
そこで意次を輩出した田沼氏のルーツに注目してみましょう。
もともとは佐野氏だったとされ、六代目から田沼姓となっていた意次の一族。
“佐野氏”のことを頭の片隅に置きながら先へ進めますと……田沼氏は、あるときは鎌倉幕府、あるときは上杉家、またあるときは武田家に仕えたとされ、やがて徳川家に士官して落ち着くと、家康の子である徳川頼宣に仕えて紀州藩士となりました。
そして意次の父である田沼意行(“おきゆき”または“もとゆき”)の代になり、当時、まだ部屋住みの身に過ぎなかった徳川吉宗の側に仕えます。
そこから豪運の連続で江戸入りを果たし、8代将軍となった吉宗は、江戸での人事を一新。
先代までの側近だった間部詮房らを罷免すると、勝手知ったる紀州人脈で周囲を固め、田沼意行もその中に入り込んで旗本に列しました。
意行は小納戸を務め、将軍側近くで信任を得たのです。
しかし家康時代から仕えてきた幕臣にしてみれば、こうした紀州藩の連中は、あくまで新参者に過ぎません。
『べらぼう』に登場する武士で言えば、佐野政言や長谷川平蔵宣以らが由緒ある三河以来の血統であり、彼らにとって田沼意次らの紀州人脈は“格”の低い連中に過ぎませんでした。
世襲全盛の江戸中期でこうした血統は、常に付き纏い続けます。
家重に仕える小姓として
そんな田沼意行のもとに、享保4年(1719年)7月27日、嫡男の幼名・龍助が江戸で生まれました。後の田沼意次です。
龍助は、享保17年(1732年)八代将軍・徳川吉宗にお目見えを果たします。

徳川吉宗/wikipediaより引用
旗本ならば、前髪が取れた現代の中学生くらいで、他の子息と並んでのことが一般的です。それから僅か二年後、彼は後に将軍となる徳川家重の西丸小姓三名のうちの一人に任命されました。
まだ元服前であり、部屋住みの身でありながら異例の抜擢。
吉宗に続いて紀州閥を形成する一人であり、若くしての登用となりました。
ただし、特別扱いを受けたとまでは言えません。
そんな彼にはある特徴がありました。
美男で如才ない意次は、若き頃から何か光るものがあったのでしょう。大奥はじめ、さまざまな場所で人気を得ていたのです。
近年の田沼意次に、錚々たる美形俳優がキャスティングされるのも、実は史実準拠なんですね。
そして享保20年(1735年)に父の600石を継ぐと、享保2年(1737年)には従五位下・主殿頭となり、家重から深い信任を得るようになってゆきます。
とはいえ、まだ吉宗の治世ですから、側近は紀州人脈の第一世代が務めています。
家重の小姓だった意次が、さらなる出世を重ねていくのは、延享2年(1745年)以降のこと。
徳川家重の9代将軍就任に伴って本丸へ移ると、寛延元年(1748年)には1400石の加増があり、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石の加増。
側近としていよいよ異例の出世を遂げてゆきます。
江戸時代の旗本は、本来、親から継いだ禄高で生きてゆかねばならず、そう簡単には加増などされません。
そこで吉宗が制定したのが【足高の制】でした。
家禄が役高を下回る際、在職期間中はその不足分を支給するというもので、要は、生まれに関係なく能力を発揮する者に対して、インセンティブのような給料が支払われることになったのです。
これにより、出自に関係ない人材抜擢が可能となった――意次はこの制度の申し子と言えるでしょう。
郡上一揆解決に優れた手腕を見せる
田沼意次が、その才知を広く知らしめた事例。
それが宝暦8年(1758年)に美濃国郡上藩で発生した【郡上一揆】でしょう。
時の将軍・徳川家重は、意次にこの裁きを任せるため一万石の大名に取り立てるのですが、果たしてそこまでの必要はあったのか?

徳川家重/wikipediaより引用
振り返ってみると、当時の幕藩体制は曲がり角にありました。
戦乱が終わって泰平の世が訪れると、人口も大幅に増え、あちこちに歪みが出てきたのです。
例えば、江戸時代の前半は、新田開発や農業生産性を右肩上がりで上げることができ、寒冷地である東北地方にも米所ができていきました。
しかし、いつまでも開発を続けられるわけではない。
そこで八代・徳川吉宗は、質素倹約を徹底し、幕政を安定させたようにも思えるのですが、あくまで対処療法であり根本的な解決とはなりません。
宝暦4~8年(1754~58年)に発生した【郡上一揆】は、そんな時代の象徴ともいえる事件です。
キッカケは年貢でした。
藩主が農民の負担を増やそうとしたところ領内は大混乱に陥り、しまいには江戸まで訴えが届き、幕閣も座視できなくなった――徳川家重が頭を悩ませたこの事件。
騒動は郡上藩にとどまらず、最終的に処罰対象者は幕府の高官にまで至る複雑な展開となり、これを見事に捌いた田沼意次に対し家重は「彼こそ信頼できる」という思いを抱いたのでしょう。
事件の解決にあたり、一万石の大名となった田沼意次。
御側御用取次が大名を兼任するのは、これまた異例なことでした。
江戸幕府は、政治権限と石高が反比例するようなシステムです。
莫大な石高をもつ外様大名は幕府中央の政治には関与できない。
逆に「三河以来」の譜代などは、石高は少ないけれど中央の幕僚に任命される。
それでも田沼意次のような旗本が、一万石とはいえ大名となり、将軍の御側御用取次を務めるなどは前例のないこと。
しかも異例の事態はまだまだ続きます。
宝暦10年(1760年)に家重が隠居して徳川家治が十代将軍となり、その翌年に家重が亡くなっても、意次は側用人のまま起用されたのです。

徳川家治/wikipediaより引用
将軍の側近は、代替わりにより役を退くのが通例でした。
それがなぜ、家治は意次を使い続けたのか?
親孝行である家治が、父の家重から、田沼を引き続き重用するよう、次のように言い残されたためとも伝わります。
「意次は正直で律儀だ。お前の時代も引き立てて召し使うように」
一代で成り上がった意次には、人脈や血統といった後ろ盾はありません。
しかし人間的に誠実で、人身掌握術にも長け、目下の者にも分け隔てなく接し、気配りもできました。
『べらぼう』第一話で、意次と主人公・蔦屋重三郎の問答が描かれました。
この場面で意次は、商人の和泉屋に対して「腰の具合はどうだ?」と声を掛けています。
突然、割って入ってきた蔦屋重三郎に対しても、その振る舞いを咎めるどころか、重三郎の言い分に耳を傾けました。
あれは一体どういうことか?
あの時代の武士ならば重三郎を切り捨て御免ではないか?
SNSなどでは、そんな意見も見られましたが、意次の性格を考慮すればすげなく追い払う方がおかしい。
むしろ重三郎と話し込むほうが自然な描写と言えます。
家治の代でも信頼を受け 出世を続ける意次
日本史のみならず、世界各地の君主制において、近世にはある特徴があります。
君主本人ではなく、側近が政治を動かすことです。
江戸幕府の場合、五代・徳川綱吉の時代に創設された【側用人】がこの側近にあたり、その治世においては牧野成貞と柳沢吉保が権勢を振いました。
六代・徳川家宣、七代・徳川家継の時代には、間部詮房が権勢を振います。

間部詮房の木像(浄念寺所蔵)/wikipediaより引用
紀州から江戸へ乗り込んだ八代・徳川吉宗の政治改革は、この間部詮房の罷免から手を付け、吉宗は【側用人】を廃止し、【御用取次】としました。
側用人も御用取次も役目は同じ。つまり、ただの看板の取り替えであり、吉宗は紀州時代からの気心の知れた側近をこの職に就けたのです。
ただし、側近政治の構造は残っていて、そこには不文律がありました。
将軍の代替わりをすれば側近を交代させ、人事を一新する――将軍の生前、どれほど権勢を誇った側近でも、代替わりで権力の座から立ち去ることが暗黙の了解だったのです。
その慣例を崩したのが、田沼意次でした。
家重から家治の時代になっても失脚するどころか重用され続け、将軍側用人として仕事をこなすたびに加増されました。
以下の通りです。
明和4年(1767年):板倉勝清の後任として御側御用取次から側用人となる。5000石の加増。従四位下となり、2万石の相良城主。
明和6年(1769年):侍従、老中格となる。
安永元年(1772年):相良藩5万7000石の大名となり、老中も兼任。このとき相良城を建て、一国一城の主となった。
たった600石の旗本から、とんとん拍子で5万7000石の大名にまで大出世。
側用人から老中にまで昇進し、兼任した初の人物となりました。
この変則的な加増により、分散知行を有した意次は各地に縁の地があり、今年は大河ドラマの影響により様々なイベントが開催されるかもしれませんね。
しかも側用人は、中奥に入ることができる限られた役職でもありました。
老中は御用部屋にまでしか入ることできず、中奥に将軍がいれば、側用人を通して用件を伝えさせていた、その手間が省かれることになったのです。
思い切った政策を断行するには一定の地位が必要であり、田沼意次はそれを手にしました。
とんとん拍子の出世も、家治が権限を強めるためにそうしたともいえます。
しかし、江戸幕府は様々な規範において家格が重視される――その点、田沼家は圧倒的に不利なポジションにいました。
三河以来の家同士ならば、姻戚関係は何代にもわたって形成している。
ところが田沼家は、急ピッチで人間関係を形成しなければならず、意次の嫡子である田沼意知と、自分の娘を結婚させた松平康福はこの代表格です。
同時に意次は、大奥にも顔が利きました。
美男で颯爽とした彼を見ると、大奥の女たちはうっとりとしていたとも伝わり、仙台藩主・伊達重村の政治工作の際は、大奥老女の高岳とも深い関係ができています。

伊達重村/wikipediaより引用
贈収賄のイメージが未だに強いのも、ある意味仕方のないことでもあります。
『べらぼう』第一回でも、贈賄を突き返すようなことはありませんでしたが、贈収賄に関する感覚は江戸時代と現在では異なります。
要求を叶えるために贈収賄をすることは、むしろマナーでした。
ただし田沼意次は、あまりに甚だしかったことは確かなのでしょう。
政治転換に直面した時代ならではの改革
田沼意次による田沼政治とは、これまでの政治の総決算であり、転換点ともいえました。
天下泰平の訪れと共に幕を開けた江戸幕府は、財政的にも余裕のあるスタートでした。
しかし四代・徳川家綱の時代に【明暦の大火】が発生してしまいます。

明暦の大火(振袖火事)の様子/wikipediaより引用
死者は十万人を超え、江戸城も江戸城下も燃え尽きたこの火災からの復興には莫大な費用がかかりました。
幕領の新田開発もこの頃には頭打ちとなり、激増した支出に対し、収入の増加は見えてきません。
五代・徳川綱吉の時代は華やかな【元禄文化】が花開き、そのぶん歳出は増え、財政はまたも悪化。
そこで八代・徳川吉宗は、質素倹約を徹底し、年貢米を増やす諸政策を行い、なんとか赤字を立て直すことに成功します。
しかし年貢米を増やすということは、納める側にとっては負担が増えたということであり、九代・徳川家重の時代ともなると、いよいよ限界に達し、前述した【郡上一揆】もそのあらわれでした。
ここから先は倹約ばかりに努めていても仕方ない。
むろん新田開発を止めはしませんが、同時にお金やその動きを重視する「貨幣経済」に切り替えていく必要がありました。
では意次には、具体的にどんな政策があったのか?
・年貢徴税の増加
・新田開発
・鉱山開発
・幕府専制品の拡大(朝鮮人参、明礬、竜脳、石灰、灯火、鉄、真鍮など)
・朝鮮人参国産化
・白砂糖国産化
・公金貸付の拡大
時代の申し子といえる平賀源内も、こうした政策の影響ありきの活躍ともいえます。

平賀源内/wikipediaより引用
本草学者であった平賀は、輸出に頼っていた漢方薬剤の国産化を担う人材として脚光を浴びました。
多彩な才能を誇る彼は、鉱山開発や輸出品をめざした発明等、そのアイデアを活かした活躍をするのです。
また田沼政治では【運上】や【冥加金】が重要な役割を果たしました。
『べらぼう』第一回でも、蔦重は「吉原は運上冥加金を払っている」と主張しましたが、あれは特権を確保するかわりに金を差し出すシステムだったんですね。
あの第一回では、すでに田沼政治の問題点が浮かんできます。
【運上】や【冥加金】を払えば特典を得られてしまう……ならば……と、贈収賄政治に陥ることは当然の帰結だったのです。
国益、グローバル経済を意識する時代へ
田沼意次が見据えた経済政策は、国内だけには留まりません。
先にあげた朝鮮人参と白砂糖の国産化は、輸入超過で赤字続きだった貿易を抑制するための政策でした。
それが軌道に乗ったならば、次の一手は何か?
というと貿易の黒字化となります。
近世の東アジアは、清、朝鮮、そして日本も海禁政策を取っていました。
隣国の清は、当時の世界総GDPの三割を占めるとされるほど、世界一の経済大国です。
茶と絹の需要、さらにはヨーロッパで高まるシノワズリ(中国趣味)により、貿易黒字がとにかく大きかった。
天明年間(1781−89年)は、田沼意次が権力を掌中におさめ、思うがままに政策邁進へと向かい続けることのできる時代への突入となります。
印旛沼の開拓といった大規模な新田開発を進めながら、海外貿易へも目が向けられました。
オランダ商人たちとしては、折しもシノワズリブームを目の当たりにしています。

互いを見物し合う出島の日本人とオランダ人/wikipediaより
日本産の工芸品を売り捌けるとなれば非常にうまい話であり、もっと対外に積極的な目を向けないかと期待するようになりました。
さらには蝦夷地に来航し始めたロシアにも注意を払わねばならない。
寒冷地であるロシアにとって、南に立ち寄ることのできる港があることは大きなメリット。
彼らはしばしば蝦夷地に来航し、食糧取引を求めてきたのです。
江戸時代の海禁政策といっても例外はあります。
貿易赤字の解消は課題であり、すでに清相手には日本では需要が低くても中華食材となる海産物等を輸出していました。
【俵物】と呼ばれ、中でも煎り海鼠、干し鮑、鱶鰭(フカヒレ)は【俵物三物】として重宝されます。

俵物三品の模型(東北歴史博物館)/wikipediaより引用
そうした【俵物】の輸出ならば既に実施しているのだから、相手がロシアでもむしろありでは? そんな発想の転換があってもおかしくはない状況です。
そんな蝦夷地政策において、大きな役割を果たしたとされるのが仙台藩医・工藤平助でした。
幻となった蝦夷地開発計画
工藤平助の娘である只野真葛は『むかしばなし』にこう記しています。
平助があるとき、田沼家用人とこんなやりとりをしたというのです。
「殿は、何か偉業を成し遂げた老中として歴史に名を残したいのだ」
「蝦夷地から貢物を得られるようにしたらどうですか。これほどの偉業はありませんぞ」
「おお、なるほど!」
かくして平助は田沼意次に蝦夷地政策を説くために『赤蝦夷風説考』を書き始めた――これは平助の娘が記したものであり、必ずしもこの通りの経緯とは思えません。

工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』/wikipediaより引用
しかし実際に天明元年(1781年)4月、平助は『赤蝦夷風説考』下巻まで書きあげ、天明3年(1783年)には同上巻を含め、ほぼ完成させていました。
田沼時代の象徴としての蝦夷地政策があったのでしょう。
もしも実現できていたらば、どれほど日本史が変わったか……と思われるほどの内容でした。
蝦夷地の金銀山を発見し、ロシアとの交易を進める。
経済政策として、夢に満ちています。すでに本州の金銀山は掘り尽くしているけれども、蝦夷地は未踏といえる。その金銀を得ることができれば、大いなるメリットがある。
ロシア交易も可能性に満ちています。
ただし、蝦夷地政策を出していた松本秀持は方針転換したようで、新田開発案に方針転換し、意次もこれを認めています。
松前藩はアイヌの農耕を禁じていました。
農耕に従事することで、狩猟をしなくなると考えていた。そうなれば松前藩の収入源となる毛皮等が入手できなくなるためです。
これは惜しまれる後退案でもあり、石高に価値を見出す従来の経済政策へ戻るものではありました。
蝦夷地開発は田沼時代終焉と共に終わり、松平定信の政治で否定されたようで、実際はそうでもありません。
近世から近代へ向かう歴史の流れにおいても、この時代の蝦夷地は重要です。
近世まで国境、宗教、民族、文化の境界は曖昧でした。
日本とロシアの間に蝦夷地があり、そこにアイヌが暮らしているという状況が当然のこととして受け入れられていたのです。
しかし、日本とロシアが国家としてのアイデンティティを意識し始めると、両国の境目はどこなのか?とキッチリ意識するようになる。
アイヌをどちらかの国の民として認識するべきではないのかという意識も生まれました。
幕府は、現在の北海道だけでなく、樺太、択捉、国後まで直轄領とし防衛を意識。
北海道には五稜郭をはじめとして当時最新鋭の西洋技術を取り入れた城郭が築かれました。
日本の近代への転換は、アメリカ艦隊である【黒船来航】による列強との接触が契機と説明されることが一般的です。
しかし、実際はアメリカではなくロシアが先行していた。
日本の近代とはいつからなのか? そのことを正確に考えるとなると、田沼時代は重要だと言えるでしょう。
天変地異が続発する天明年間
前述の通り、田沼政治は天明期になってから本格的に推進されました。
しかし、運の無いことに、この天明年間は天変地異が続発してしまいます。ザッと見ておきますと……。
天明3年(1783年)7月、浅間山大噴火。これに伴い、全国各地で飢饉が発生。
天明4年(1784年)、全国的な大飢饉が深刻化する。(【天明の大飢饉】)
天明6年(1786年)、関東地方で大洪水発生。
こうした天災に伴い各地で百姓一揆が起き、米価は上がり、人々の生活は苦しくなるばかり。

飢える庶民たちの様子(天明の大飢饉)/wikipediaより引用
実は天変地異は日本のみならず世界規模で発生しており、フランスではちょうど天明年間頃に冷夏が連続しました。
気候変動による経済停滞の影響は、豊かな農業が国の礎にあるフランスにとって、重大な危機。
これが1789年、日本ならば天明9年【フランス革命】の一因とされます。
フランスでは気候の悪化が革命につながりましたが、日本では同じ展開により田沼の改革が頓挫させられることになるのです。
意次は、幕府財政の見直しをはかり、さまざまな政策を打ち出しました。
しかし、その狙いが理解できるものばかりではなく、不信感を募らせる者がでてくる。煩雑なやり口に嫌気がさすものもいる。
そしてとどめが、大飢饉です。
天明の大飢饉の最中、全国的にも深刻な打撃を受けたのが仙台藩でした。
仙台藩は米所として名高いにもかかわらず、近隣諸藩にまで出向き、米を買い付けようとする藩役人の姿が軽蔑されたものです。
なぜそうなるか?
当時の人々は理解していました。
米を飢饉に備えて備蓄するどころか、換金する事と前提として藩財政を運営しているからこそ、そうなった。
いわば人災です。
当時の仙台藩主・伊達重村は猟官運動に励み、田沼人脈に贈賄していたことも、悪評をさらに高めたとしてもおかしくありません。
そんな仙台藩との対比として際立ったのが、同じ陸奥にある白河藩でした。
松平定信が藩主を務めるこの藩では、一人も餓死者を出さなかったのです。
近世から近代へと向かうこの時代、民衆意識も変わっています。
東アジアの伝統的な考え方として【天譴論】(てんけんろん)があります。
為政者が無道な振る舞いをすると、天が怒り、罰するために天変地異を起こすというもの。
当時の日本人はこの【天譴論】をそのまま受け止めるわけではないけれど、今回の大飢饉は天災だけでなく人災の側面もあり、かつ大きいと察知できました。
仙台藩と白河藩の対比を見れば、それは明白です。
世の中なんでも金、金、金……そうやって食べていくために必要な米まで金勘定の道具にした結果が、この悲惨な世の中じゃないか!
そんな不満が鬱積しても不思議のない状況でした。
田沼意知の横死
そんな田沼への反発はついに表面化します。
天明4年(1784年)、嫡子の田沼意知が江戸城中で佐野善左衛門政言に斬殺されたのです。
「覚えがあろうッ!」
意知を斬りつけるという凶行の間、佐野は何度もそう叫んだとされます。

田沼意知(左)に斬りかかる佐野政言/国立国会図書館蔵
意次は、自分一代で遠大な改革は実現できないとわかっていたのか、嫡男の意知を若くして若年寄にまで引き立てておりました。
そうしたことが古参旗本である佐野の恨みを買ったのか。犯行動機については、後世さまざまな推察がなされていますが、確定までには至りません。
当時から田沼の元の氏は佐野であり、その関係性も取り沙汰されたものでしたが、これも推察に過ぎないと言えます。
明確なのは、江戸庶民も田沼政治を嫌い、憎んでいたということです。
意知の死を受け、佐野も切腹しました。
すると佐野の墓には江戸の民による墓参者が群をなして訪れ、線香の煙がもうもうとたちこめるほどとなり、寺の前には参拝者に飲料水を売る者まで現れました。
「世直し大明神」として佐野は称えられるようになるのです。
山東京伝のような文人は、めざとく田沼意知暗殺事件をパロディにした【黄表紙】を売り出すほどでした。

山東京伝/wikipediaより引用
それでも意次は幕閣にとどまり、政治改革を続けます。
意知の死の翌年には、さらに一万石の加増もありました。
そして天明6年(1786年)、意次は用人・三浦庄司の献策「御用金」を採用し、実現に移そうとします。
これは元を辿れば桑名藩士・原惣兵衛のアイデアです。
彼が大阪にいたとき、東照宮の修復のために豪商から金を集め、成功したことがありました。
これを全国規模に拡大し、町人や農民まで含めて金を徴収することを思いついたのです。
・集めた金を「公金貸付」制度に利用する
・そのうえで大阪に「貸付会所」という組織を設立する
・出資者には利益をつけて還元すればよい
いわば現在の銀行に通じる斬新な策でした。
しかし、そう簡単に受け止められるわけがありません。
希望者が金を出すならまだしも、強制的に出させるとなればただの増税としか思われません。
金に汚ぇ田沼がまた何か言い出しやがったな!
そんな猛反発を受け、意次の悪評はますます高まってしまうのです。
それでも徳川家治の寵愛さえあれば、意次も守られていました。
家治の死により 失脚する
天明年間前夜、安永8年(1779年)、徳川家治唯一の男子であった徳川家基が、わずか18で急死を遂げました。
弟・意誠とその子・意致は一橋家家老を務めており、田沼と深い縁があります。
この人脈を活かし、意次は一橋家の徳川治済の子・豊千代を家治の後継者と定めていました。
こうして恩を売った十一代将軍の御代でも、権勢を保てるという意図があったのでしょう。

徳川治済/wikipediaより引用
しかし、このことが大きな障壁となってしまいます。
徳川家基の母であるお知保は、このトントン拍子の後継者選定を疑念を込めて見つめていたようです。
我が子に死なれ、将軍の母となる道も絶たれ、彼女がどれほど絶望したことか……。
徳川家基は生前、田沼政治に疑念を呈し、批判してきました。お知保はそのこともあってか「意次が息子を謀殺したのではないか?」と疑念を抱いたようなのです。
長いことくすぶっていたこの疑念は、徳川家治が病床につくことで再燃してきます。
家治の診察は奥医師が行なっていたものの快復せず。意次の提案で町医師の日向陶庵と若林敬順が加わります。
しかし、これを契機に家治の病状はますます悪化し、再び町医者を外してみると、家治の病状は持ち直しました。
結果、お知保には、意次が毒殺を計画したとしか思えなくなります。
お知保の怒りと疑念はかくして広まり、さすがに意次も身の危険を覚えたのか、家治が死去すると、すぐに病気を理由に老中を辞職しました。もはや居場所はないと悟ったのでしょう。
その後の意次の転落は、あっという間でした。
同年のうちに2万石が没収され、神田橋上屋敷と大坂蔵屋敷の返上を迫られるだけでなく、謹慎も命じられます。謹慎は、年末には解除されたものの、もはや無力でした。
田沼人脈も、次から次へと絶縁を宣言。
幕僚としての道が閉ざされるだけでなく、天明7年(1787年)には相良藩二万七千石も没収され、あらためて隠居謹慎を命じられました。
孫の田沼意明は陸奥下村に減封され、大名として最低となる一万石のみの相続へ。相良城も没収されます。

相良城跡碑(背後に建つのは相楽中学校)/wikipediaより引用
柳沢吉保や間部詮房のように、将軍側近として権勢を振るうも、その主君の死によって栄華が終わったとされる人物はいます。
しかしあくまで辞職にとどまるものであり、ここまで苛烈な処断を受けた例はありません。
天明8年(1788年)、田沼意次は没しました。
享年70。
田沼の改革は終焉となり、結局、諸問題は先延ばしにされるのでした。
もしも田沼政治が続いていれば……
田沼意次のあと、老中となった松平定信は、徳川吉宗の孫であることを誇りとしてきました。
定信は家基亡きあと将軍となる可能性があったのに意次によって妨害されたという恨みがありました。
「もしできるならば刺してやりたい」
そう語ったとされるほどです。

松平定信/wikipediaより引用
定信が、白河藩松平家へ養子に出されたのは徳川家基が夭折する前のことであるのですが、田沼に追い出されたことは確かです。
そんな定信の政治方針は、吉宗路線への回帰でした。
とはいえ田沼時代の政策は不可逆的なものもあり、すべてを方向転換できたわけではありません。
問題の先延ばしとなった部分もあります。
田沼意次の政治に大きな期待を寄せていたのがオランダ人でした。
日本が輸出用の産品を手がけて売り出せばどれほど素晴らしいか――そう期待してたオランダ人と蘭学者たちは、田沼意知の横死の後にこう語り合っていたのです。
「田沼の開国政策を止めようと企んだ誰かが、裏でこの事件の糸を引いたのだろう……」
その真偽はわかりません。
しかし、この願いはオランダ人はこの先も抱き続けます。
田沼時代のあとにも、オランダは何度も幕府に対して開国を求めてきました。【黒船来航】のあとは、今後どうすべきか、輸出すべき品について丁寧に助言してきたのです。

オランダ船がやってくる様子を描いた川原慶賀筆「唐蘭館図 蘭船入港図」/Wikipediaより引用
蝦夷地政策もそうです。
フランス革命後のナポレオン戦争もあり、ロシアは極東の日本を構っている余裕を失いました。
そのため、蝦夷地沖からロシア船の影が一時的に消えましたが、それも一時の安寧に過ぎず、松前藩をどうにも信頼できない幕府は蝦夷地探索と警備に尽力することとなります。
歴史に「もしも」はありえないとされます。
しかし、そうはいっても田沼意次の人生と政治を辿るときには大きな意義があるのではないでしょうか。
田沼の政策は、幕末以降を先取りしていたといえる。
もしもこのまま続けていたら、日本史は大きく変わっていたのではないかと思わせるのです。
毀誉褒貶がつきまとう田沼意次
大河ドラマ『べらぼう』で田沼意次役に渡辺謙さんが決まったことが告知されると、驚きの声があがりました。
田沼意次の再評価を期待する層もいたのです。
さらには、こんな陰謀論も語られ出します。
「田沼意次の贈収賄は後世の捏造、松平定信一派が作り上げた記録にしか書かれていない」
こうした極論もありますが、もっと冷静に見ていきたいところです。
意次の贈収賄がなかったとは言い切れません。
しかし江戸時代にはマナーとしての贈収賄が定着しており、彼一人だけが励んでいたことでもない点には注意しなければならない。
田沼意次は出自が由緒正しくないことも、悪評の一因として考慮する必要がある。
意次は身分に囚われることなく、才知あふれるものは登用し、意見を取り入れました。
そうした革命的な人物は、成功すれば賞賛されるものの、失敗すれば必要以上に貶められるものです。
毀誉褒貶がつきまとう田沼意次については、何度も再評価はなされています。
まず、松平定信の質素倹約に疲れ果てた江戸っ子たちは既に音を上げていたことが、この有名な狂歌からわかります。
白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき
幕末の能吏といえる川路聖謨もこう評しています。
「田沼意次は判断力に優れた豪傑であり、悪名だけ語られるのはおかしいのではないか?」
明治時代以降は「日本史上の三大悪人」とまで言われましたが、辻善之助、大石慎三郎らによって再評価されてきています。
田沼意次とは、近代以降の日本にとっては不都合な人物とも言えます。
明治以降、日本の近代化を実現できたのは薩長あってのものとされ、江戸幕府は無為無策で何もしていなかったと定義された。
しかし実際は、田沼時代にロシアを相手に開国を目指しています。

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』に描かれた蝦夷地/wikipediaより引用
幕府の対応が万全でなかったから明治維新は起きたとはいえますが、無為無策は明らかに言い過ぎ。
第二次世界大戦後も、江戸時代は否定すべき封建時代とされ、なかなか再評価されずに来ました。
これまで散々貶められてきた江戸時代は、徐々に再評価も進んできましたが、まだまだ不十分。
田沼意次のように毀誉褒貶が激しい人物ともなると、長い道のりがあるのでしょう。
『べらぼう』は、田沼意次を極端なまでに美化するのではなく、革新的、よくも悪くも近代を先取りしていた政治家として描くと思われます。
その描写に期待するばかりです。
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【参考文献】
藤田覚『田沼意次』(→amazon)
江上照彦『悪名の論理』(→amazon)
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
他





