二の丸騒動・高島城

二の丸騒動の舞台となった高島城

江戸時代

二の丸騒動(諏訪藩)は主君の諏訪忠厚がバカ殿だから起きたのか?

天明三年(1783年)7月3日は、諏訪頼保(すわ よりやす)が切腹した日。

諏訪藩のお家騒動である【二の丸騒動】当事者の一人です。

お家騒動というと、二人以上の跡継ぎ候補と、それぞれ派閥を組んだ家臣団のトラブル――そんなイメージをしがちですよね。

しかし今回の場合は、「嫉妬心だけは人一倍の家臣」と「アホすぎる殿様」が揃ってしまったために起きた、本当に”騒動”という感じのドタバタ劇でした。

諏訪藩とその藩主である諏訪家、そして諏訪忠厚(すわ ただあつ)を見ておきましょう。

 

戦国時代は武田支配のもとで生き残った諏訪一族

戦国時代まで、諏訪の地を治めていたのは諏訪神社の神職・諏訪氏でした。

当主の諏訪頼重は武田信玄により滅ぼされ、頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠が、武田氏支配下の中で神官として生き残ったのです。

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ちなみに、頼重の娘が武田勝頼の母・諏訪御料人でした。

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武田家が織田信長に滅ぼされ、その信長が【本能寺の変】で討たれると、頼忠はその後、諏訪氏を再興して一時は徳川家康と戦います。

そして間もなく徳川との和睦が成立すると同家に仕えるようになりました。

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家康の関東移封に従って一度諏訪を離れ、息子・諏訪頼水の代に地元へ戻ります。

以降は、加増や分知を経て、諏訪氏は諏訪藩(高島藩)を治めていくこととなりました。

 

忠厚が藩主になるまでの経緯は?

二の丸騒動のときの藩主は、六代目・諏訪忠厚。

この人が割とどうしようもないバカ殿様なのですが、遠因はもう少し前の時代に作られていたかもしれません。

忠厚のジーちゃんにあたる諏訪頼篤(よりあつ)まで遡りましょう。

頼篤は、諏訪氏の分家筋で、元々は江戸の旗本でした。

小姓組頭や江戸北町奉行を歴任し、最終的には1500石取りにまでかなりの出世を果たし、92歳で大往生を遂げています。文字通り「地味にコツコツ」やって大成したタイプですね。

諏訪頼篤の次男が忠林(ただとき)で、先代の諏訪藩主・諏訪忠虎の実子が早世したため、18歳のときに養子入りして跡継ぎになります。

彼は生来病弱だったため、藩政から逃避して学問の世界へ。

どうしてそんな人を養子にしたのか、不思議でなりません。

というか、忠林が養子になり忠虎が亡くなるまで、10年もの月日があるので教育し直すとか、しっかりした家臣をつけるとか、何らかの手立てを講じなかったんですかね。

忠虎も学者肌だったらしいので、「これでよし」と思ってしまったのでしょうか。

江戸藩邸の焼失や、元禄大地震で藩財政が苦しくなったのは忠虎の代ですが、事態がヤバすぎて向き合う気が失せてしまったのかもしれません。

いずれにせよ【忠虎→忠林】と引き継がれてきた家督を次に譲られたのが忠厚。

二の丸騒動、諸悪の根源となるバカ殿でした。

 

家老・千野貞亮の足を引っ張ろうとする家老・諏訪頼保

忠厚は当初から、政治に無関心な人物でした。

実務のほとんどを筆頭家老・千野貞亮(せんの さだすけ)が行っていたといいます。

千野家は、鎌倉時代から諏訪氏に代々仕えてきた文字通り譜代の臣です。貞亮もその誇りにかけて、知恵を絞ったのでしょう。

生糸や繭にも課税するなどの重税を課し、財政もほんの少しだけ向上しました。

しかし、貞亮が実績を上げたことを、諏訪氏の流れを引くもう一人の家老・諏訪頼保(よりやす)は懸念していました。

知行は共に1200石であり、交代で家老を輩出してきた家同士です。

だからこそ余計にライバル意識があったのでしょう。

貞亮が実績を作ったことに対し、頼保は「このままでは、藩政を千野家に牛耳られてしまう」とズレた危機感を抱きます。

それなら頼保も何か策を講じて、藩財政がちょっとでも良くなるように働けばいいはずなのですが、そうならないのがお家騒動になった所以です。

貞亮(千野家)は高島城の三の丸、頼保は二の丸に屋敷を構えていたので、それぞれ「三の丸派」「二の丸派」と呼ばれました。

「二の丸騒動」の名はここから来ていますが、ややこしくなりそうなのでこの記事では貞亮(派)・頼保(派)と呼ぶことにしますね。

 

忠厚、何の調べもせず讒言をあっさり信じ……

千野貞亮の頑張りに対し、お門違いな嫉妬の炎を燃やす頼保。

ライバルを失脚させようと一計を案じます。

この時点で頭の使い所がおかしいんですが、なぜ誰も止めてくれなかったんですかね。逆恨みするような人ですから、元から人望がなかったんでしょうか。

頼保は、諏訪藩の江戸屋敷で仕えている渡辺助左衛門という人物に近づきます。

助左衛門は忠厚のお気に入りだったので、搦め手から行こうとしたわけです。

助左衛門を通じて頼保は、デタラメを吹き込みました。

「貞亮のかけた重税のおかげで、民は一揆を起こしかねないほど貞亮を恨んでいる」

確かに重税をかければ領民が苦しくなるのは当たり前ですし、恨みを買ってもいたのでしょう。

しかし、この件でマズイのは、忠厚がろくに調べもせず、頼保の讒言をあっさり信じて貞亮を罷免・閉門にしてしまったことです。

「閉門」とは謹慎と似た感じの刑罰で、”昼夜ともに外出を許さない”というものでした。

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