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【田沼意次】
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経済環境がよくなる一方、カネが重視され
こうして幕府の収入源が増えたため、財政は良くなり始めます。
お上の資金繰りが良くなれば下々の金回りも良くなり、町人文化の発展にも繋がります。
やった、これで経済万々歳!
「田沼ミクス」最高じゃん!
とはなりませんでした。
幕府が税金を重視し始めたことに対し、庶民や役人の一部は「何だ、家柄やコネがなくても金でなんとかできるんじゃん」と思い始めたのです。
そして貨幣経済の重視が、贈賄・収賄の横行へ。
こうした風潮を捉え、かつての歴史の授業などでは「賄賂第一の悪い時代だった!」と評することが多かったのでした。
しかし、です。
当時の老中首座・松平武元なども意次の政策には協力しておりました。
要は、意次一人が各所に賄賂を贈るように強いた極悪人だったわけでもありませんし、景気が悪化し続けるよりはいいですよね。
意次の不幸は、こうして評判が悪化する中で、
・明和の大火
・浅間山噴火
・天明の大飢饉
というキツい災害が続いたことでした。
天明の大飢饉は浅間山とヨーロッパ火山のダブル噴火が原因だった
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同時に印旛沼の干拓工事も失敗してしまい、にっちもさっちも行かなくなってしまいます。
都市圏に出る農民が増え犯罪も増える
世の中が重商主義になると、その反動で農業が軽視され、農民の暮らしが厳しくなってしまったことも反田沼の動きへ繋がる一因でした。
誰だって、苦しい仕事よりは少しでも楽な仕事を選びたいワケで。
そうした元農民が都市圏に流れ込んでいったのですが、そう簡単に職が見つかるわけもなく、やがて物盗りなどの犯罪で生き延びようとする者が増えていきます。
結果として、地方でも都市部でも「田沼のせいで生活が苦しくなった!!」という怨嗟の声が高まってしまうのです。
さらに、意次が蘭学や実力主義を重んじたことにより、幕閣保守派の反発を買ってしまいました。
こうして意次の評判がダダ下がりする中、息子で若年寄を勤めていた田沼意知(おきとも)、江戸城内で旗本・佐野政言(まさこと)に暗殺されるという事件が起きてしまいます。
まんが日本史ブギウギ200話 田沼の苦悩は報われず 恩を暗殺で返される
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動機がハッキリしなかったため、幕府は「乱心による犯行」として処理しましたが、田沼家に対する恨みが積もり積もっていた民衆は「自業自得」とみなしたようです。
公的には罪人とみなされたにもかかわらず、政言を「世直し大明神」と崇め、墓参りをする者も多かったとか。
当時、認められていた親や主君の「敵討ち」ではないので、江戸時代の基準でも政言は「殺人事件」のはずなんですけどねぇ。
日頃の印象の強さがよく出ています。
領地も財産も何もかも全て奪われ
さらに意次にとって運の悪いことに、このタイミングで徳川家治が病気になってしまいました。
リアリストで有能だった十代将軍・徳川家治は人情味も兼ね備えていた
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そこからはあっという間に老中を辞任させられ、領地を没収され、大坂の蔵屋敷と江戸屋敷の明け渡しまで命じられています。
私怨のかほりがプンプンします。おそらく既に家治は亡くなっていたか、政治に口を出せる状況ではなくなっていたのでしょう。
その後、蟄居と二回目の減封に加え、相良城は破却され、城内の金や米まで没収。
意次は失意の中、天明八年(1788年)に江戸で亡くなりました。
田沼家自体は、孫の龍助が陸奥1万石に減・転封の上で、何とか大名として存続しています。
さらに意次の死から35年後、四男の意正が陸奥下村藩(福島県福島市)から相良に復帰し、城跡に陣屋(屋敷)を建てて政庁としていました。
彼は若年寄なども務めており、一応復権した……ことになりますかね。
明治元年(1868年)に意正の孫・意尊が上総小久保藩(現・千葉県富津市)に移されるまで、田沼家は相良にいたようです。
明治維新の後、田沼家は子爵に叙されました。
が、経済的負担からか、後に爵位を返上し一般人となっています。中には南米に移り住んだ人もいるとか。
「賄賂政治家」から「有能な経済人」へ。
田沼意次の見直しがもっと進めば、ご子孫の方たちも鼻高々……とまでは難しいですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
田沼意次/wikipedia
田沼氏/wikipedia