佐野政言

黄表紙に描かれた佐野政言が田沼意知に斬りかかる場面/国立国会図書館蔵

江戸時代 べらぼう

佐野政言は世直し大明神どころかテロリスト 田沼意知を殺した理由は嫉妬から?

大河ドラマ『べらぼう』で、陽気な演技派俳優である矢本悠馬さんが佐野政言を演じると発表。

いったい誰なんだ?

どう読むんだ?

と思われた方も少なくないかもしれません。

佐野政言の読み方は「さのまさこと」であり、注目したいのが矢本悠馬さんのコメントです。

以下に要約しますと……。

田沼意次の息子である田沼意知(おきとも)を斬って重傷を負わせて絶命させる

・「世直し大明神」と称えられる

・矢本悠馬さんは学校の授業でウトウト眠たくなりながらも覚えていた「世直し大明神」の役柄をまさか自分が演じるとは!と驚き

コミカルな演技を得意とする矢本悠馬さんが「世直し大明神」とは、なんだか楽しそうにも見えてきますが、いやいやそんな単純なものでもありません。

この佐野政言、田沼意知い斬りかかり、殺しているのです。

江戸城を震撼させる白昼の惨劇を引き起こしておいて、何が「世直し大明神」なのか?

おそらく『べらぼう』前半で話題となる佐野政言とは何者なのか。

史実面から振り返ってみましょう。

 

「三河以来」の旗本なれど生活は苦しい

「三河以来」という言葉があります。

家康に古くから仕えた家臣たちを指し、江戸時代においては誇りと共に語られた。

いえ、明治時代になってからも、夏目漱石は「三河以来」の家臣・夏目広次の子孫であることを誇っていたものでした。

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佐野政言の家は、この「三河以来」の典型的な譜代旗本です。

五兵衛政之を初代とし、代々江戸城の治安を守る番士を務め、綱吉時代の元禄11年(1698年)からは、番町に屋敷を構えて暮らしてきました。

5代目にあたる政言の父・伝右衛門政豊もまた、番士をつとめあげ、安永2年(1773年)に致仕(引退)。

かわって17歳となる政言が家督500石を継ぎ、文士として順調に出世してゆきます。

知行は500石で、決して裕福とは言えません。

政言の時代ともなると、江戸幕府のシステムそのものにヒビが入っていました。

人口も、農業生産量も、物価も変貌してゆくのに、大名も旗本御家人も知行はほとんど変わらない。

要は収入が上がっていない。

当時は、日本だけでなく東アジア諸国で経済停滞の課題に直面していたのです。

そんな停滞経済に大鉈をふるい、改革を為さんと大抜擢された人物――それが田沼意次でした。

田沼意次という巨星と比べれば、500石の番士なぞ些細な存在に過ぎないようで、そうはならない恐るべき歴史が展開してゆきます。

 

三河以来ではない田沼が大出世

徳川幕府の初代将軍である徳川家康は、子だくさんでした。

それが2代目の徳川秀忠になると男子は3人のみで、3代目の徳川家光はなかなか男児に恵まれず、スムーズな将軍継承に暗雲が立ち込めてきます。

将軍家そのものが「三河以来」から遠ざかるのが8代目・徳川吉宗の継承でした。

紀州藩から将軍として江戸に乗り込んだ吉宗は、側近政治による刷新を行います。従来の重臣を退けてでも、紀州藩以来の信頼できる家臣たちを重用したのです。

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田沼家も紀州藩にルーツを持つ家であり、紀州藩士から旗本になった田沼意行の子が、田沼意次でした。

新参者が抜擢されればどうなるか?

三河以来の旗本からすれば、田沼などふざけた連中に思えなくはないでしょう。

家康以来の江戸幕府は、実力よりも血統を重視する政治システムであったところ、吉宗の登場によりヒビが入り始めたのです。

田沼意次の財政改革により、江戸には開明的な空気が流れ始めました。

前述の通り武士の収入は変わらない。

一方、経済の発展によりその他の層では金回りがよくなる。

特に商人たちは裕福になり、武士は相対的に貧しくなる一方です。

もしも商人であれば、生まれた家柄が低くても才覚次第ではメキメキと収入を増やすことができ、そうした蓄えで御家人や旗本の身分を買う者まで出てきます。

かくしてこんな構図が出来上がってゆきます。

血筋はよくとも困窮する武士
vs
成り上がり商人

武士は野暮で貧しい。「食わねど高楊枝」とかなんとか言ってるけど、みっともねェ奴らだ。

そんな風に言われてしまい、封建制度が揺らぎ始めるのです。

もちろん武士の中にも例外はいます。

『べらぼう』の舞台となる出版業へ身を乗り出し、自ら筆を執って自虐ネタでブレイクする狂歌師もいました。

その一例が大田南畝です。

武士出身の作家である南畝が「武士はつれえよ!」と嘆き、それを武士が買い漁り「あるあるだわ~」と納得するような時代になっていたのです。

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一方、そんな武士鬱屈の時代にキラキラと輝いていたのが田沼意次の世継ぎである田沼意知(おきとも)です。

幕閣で重用されても、一代で終わることも珍しくない江戸期。

頭脳明晰な意次は、時間がかかる政治経済改革を自分の代で完遂できるとは考えていなかったのでしょう。

彼は将軍後継者の決定にもそつなく力を発揮し、かつ、嫡子の田沼意知を掌中の珠として育て上げていました。

意知を譜代大名のみが辿れる程の出世ルートを歩ませ、10代将軍・徳川家治のお供をすることも多いものでした。

三河以来の旗本である佐野も、将軍の供を務めることはよくあります。

しかし、一生懸命勤めても番士でしかない佐野政言に対し、若くして若年寄にまで出世した意知。

上座の席に、高い着物を颯爽と着こなす“新参者”田沼意知の姿が見えたに違いない……となれば、腸が煮えくり返って仕方のない状況だったでしょう。

苦々しい思いは佐野政言だけに限ったものではなく、多くの武士たちにも共通する思いだったはず。

そして事件は天明4年(1784年)3月24日に起きるのでした。

 

「覚えがあろうッ!」叫んで切りつけた凶行

天明4年(1784年)3月24日、昼過ぎの江戸城――。

若年寄3人が、中の間(40畳)から桔梗の間(36畳)を通り、退出してゆきます。

見送りには、大目付、勘定奉行、作事奉行、普請奉行、小普請奉行、留守居番、町奉行、小普請支配、新番頭、目付など総勢16名。

それだけの大人数がいたにも関わらず、誰も佐野政言の異変に気づきません。

佐野は10畳敷きの新番所に、4人の番士同輩と共に控えていました。そして手にした粟田口一子忠綱作の刀の鞘を払ったのです。

「覚えがあろうッ!」

そう叫びながら、中の間から桔梗の前へ進んでいた田沼意知を、袈裟懸けで切りつけたのです。

反撃しようにも江戸城の殿中です。

意知は脇差を抜かず、鞘で受け止め逃れようとしますが、刀を抜いた佐野は止まりません。

「覚えがあろうッ! 覚えがあろうッ!」

そう絶叫し、さらに切り掛かりました。

うつぶせになった意知のとどめを刺そうとしたとき、大目付の松平忠郷が騒ぎに気づき、背後から佐野を組み伏せます。

さらに目付の柳生久通が佐野の手から血に染まった刀を取り上げたとも、松平忠郷がそうしたともされます。

かくして佐野は、囚われの身となったのでした。

江戸城殿中、白昼堂々に若年寄が斬られる惨劇。

三河以来の番士が狂い、斬りつけてくる――そんな予想だにしない凶行は、どうすれば止められたのでしょう。

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