渋沢栄一(左)と伊藤博文/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

オンナの苦海が加速した明治時代の深い闇~天保老人らが遊び自慢の陰に泣く

アニメ『鬼滅の刃』で「遊郭編」の放送が決定すると、たちまち世間の話題となりました。

子供が見るアニメで遊郭なんてどう説明すればよいのか!

放送前からそんな議論が湧いていましたが、では、大河ドラマ『青天を衝け』は如何だったでしょう?

渋沢栄一が、大阪の妾を突然東京の本宅に呼び寄せ、妻の千代のみならず視聴者を驚かせました。

その千代がコレラで亡くなると、次に渋沢は“周囲の勧め”で伊藤兼子と再婚します。

問題なのは、その“周囲の勧め”です。

お金持ちのもとへ、困窮した女が次々に送り届けられる――ドラマでは赤裸々に描くことはできない、明治ならではの事情がありました。

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明治時代 没落女性の選択

幕末から明治にかけて、激動の時代には芸者が奏でる三味線の音が絡みついていました。

京都で情報収集をする志士たちは、芸者の侍る席で密談に励んだからです。

志士の愛人、さらには妻となった元芸者等の女たちは、ヒロインとして扱われました。

新選組に脅されても屈しない。暗殺者が来ていると夫に告げる。そうした女性たちの姿は、幕末を扱うフィクションでは定番のものとなります。

維新後は、明治政府上層部にいる夫の側に、侍る女たち。ドレスを着て、鹿鳴館で華麗なステップを踏む。まさしく明治のヒロインでした。

大河ドラマ『青天を衝け』の女性たちはどうでしょうか。

前米大統領・グラントをもてなす千代。

戊辰戦争で夫を失いながら栄一に見出された女中くに。

そして、後妻として伊藤兼子が加わります。

彼女らはヒロインのようで、実は「籠の鳥」でもあります。自分の翼では決して飛べない。

兼子は没落した大商人の娘であり、もしも父が没落しての急死などなければ、婿と共に幸せに暮らせたことでしょう。

それができなくなった兼子は、芸者になると決意を固めます。

といっても、没落した時点で彼女は年増であり、盛りを過ぎた女性でした。

“口入れ屋(斡旋屋)”は彼女にこう告げます。

「芸者は無理だが、妾ならばできる。そうするか?」

かくして口入れ屋が介入した相手が渋沢栄一だったのです。

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現代に喩えるならば、セレブ向けの高級パパ活とかデートクラブみたいなものでしょうか。

大河ドラマでは、そこまで生々しく描けないため、色々と誤魔化していますが、お金のため自分よりずっと年上の男性に嫁ぐこととなったのが兼子でした。

彼女は、この手の境遇の女性にしてはかなり幸福です。

女性にとって地獄のような苦しみの大海=苦海は、明治時代でも至るところにありました。

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御一新の光は苦海に及ばず

江戸の遊女たちは、幕末前夜から憂き目に遭っていました。

天保の改革】以降、奢侈が取り締まられ、高級遊女を買う「大尽遊び」が取り締まり対象とされたのです。

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これが遊女を救うことになったか? というと、むしろ逆。生活苦に抗議するため、放火が増えたほど反発されています。

客層にもちょっとした変化が出始めます。

それまで日本人以外を客にする遊女といえば、長崎・丸山遊郭の遊女ぐらいのものでした。

それが横浜の外国人居留地にも外国人客があらわれ始めます。

そうした客の持ち込む珍しい土産物は、遊女の自慢の種となりました。

唐人お吉だの、『蝶々夫人』は、あくまで誇張と伝説ありきの存在。たいていの日本人遊女はそこまで気にしておりません。

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そして討幕となると西軍が江戸へやってきます。

我先にと自分だけ謹慎してしまった徳川慶喜に対し、江戸っ子たちは大いに悔しがる一方、遊女たちは新政府軍と戦う彰義隊士たちを歓迎します。

情人(いろ)にするなら彰義隊――徳川に忠義を尽くす男たちに、身を捧げることが彼女らなりの忠義でした。

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将軍様は江戸城からトンズラしてしまったものの、徳川幕府公認だった吉原はさして変わりません。

明治時代は、薩摩藩と長州藩が先頭に立ち、新たな国家を形成してゆきます。

長州閥政治家のだらしない性的な規範に、世間は呆れ返っておりました。幕政時代よりむしろ悪化したのではないか?という疑念がつきまとっていたのです。

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そして明治18年(1885年)。

辛口の毒舌でも知られる福沢諭吉は『品行論』を発表。

節操なく遊び散らかす政財界人を徹底的に批判しました。

「平然とした顔で、誰それが妾を囲っていると言う。自分の妾の話をする。しかも妾の数を自慢する!

恥ずかしくてなりませんな。

宴会に芸妓を呼んで騒ぐ。しかも西洋帰りもいるのにね。西洋人にあれは何かと突っ込まれて、どう説明するんですか?

歌って踊るだけじゃないでしょ。いやらしいこともするんでしょう?

政府高官すら見て見ぬフリなんですから、もう下劣過ぎて話になりません」(意訳)

厳格な福沢らしく、なかなか手厳しい言葉です。

ただし、そんな彼の理屈ですら、現代から見ると穴があることを否定できないでしょう。

以下の点です。

・娼妓は下劣と定義。女性の保護は全く考えられていない

・別に娼妓を買うのは絶対禁止とは言っていない。ある程度は仕方ない必要悪とみなしている。

・西洋東洋、下劣な者は大勢いる(西洋東洋禽獣甚だ多し)。日本人男子だけが悪いとは言っていない。やるなら恥ずかしさや慎みを持って、こっそりやりましょうという意味になっている

結局、福沢も「体面」を気にしていて、女性の苦痛までは考えが及んでないように思えます。

では福沢が重要視していた西洋はどうでしょうか。

彼等が日本より遊んでないように見えるのは、もしかしてキリスト教の影響か……と、そんな単純なことではありますまい。

場合によっては、法皇だろうと淫蕩三昧であり、アレクサンデル6世が有名ですね。

幕末から明治にかけ、西洋人が紳士的に見えたのだとすれば、当時ヨーロッパの祖母であったヴィクトリア女王の影響でしょう。

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それまでの英国王室は奔放でした。

特にヴィクトリア女王の前にあたるハノーヴァー朝は、ヨーロッパ屈指の酷さで、イギリス人は紳士どころか酒と女ではしゃぐゲス扱い。

ヴィクトリア女王以降、イギリスの王室はドイツからの血が濃く入り込んでいて、彼女の時代がむしろ例外だったのです。

エリザベス2世の子にあたる王子だって、未成年との性的関係で司法から睨まれる方がいるほど。

結局のところ「西洋も東洋も下劣だけどせめて人前では取り繕いなさい」というところであり、女性の解放はまだまだ先のことでした。

 


名目だけの「娼妓解放令」

こうした状況が変わるのが明治5年(1872年)、「メアリ・ルス号事件」に伴う「娼妓解放令」です。

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「どこの国だって、娼婦なんているでしょ! なんで日本人ばかりがどうこう言われなくちゃならないんだよ!」

そう言いたくもなりますし、他国でも娼婦は悲惨な目に遭っておりました。

ただ、これは契約上の不備を突かれたとも言えます。

遊女は人身売買契約があるけれども、明治政府はそこまで手が回らないのか、考える時間もなかったのか、すっかり放置していたところを突っ込まれてしまったのです。

この事件は「西洋人相手に取り繕いたい」というだけのものです。本気で女性解放を目指したわけはない。

当時の明治政府上層部は、お世辞にも女性の権利なんて考えていません。

結局、名目だけであることは早々に発覚しました。

というのも、解放令が実行に移されたのは、外国人の目が届く横浜だけであり、新吉原はじめ、他の遊郭は「よそはよそ、うちはうち」と黙殺したのです。

すると新聞社には遊女たちの投書が届き始めます。

「横浜の花魁ばかりが自由になり、我が身は苦海に沈むばかり!」

あまりに大量の投書が届くため新聞社も困って「もう掲載しない!」と悲鳴をあげたほど。

徐々に彼女たちの発言権が増してきて、仕事場所の座敷を選択する娼妓も出てきました。解放令を現実のものとすべく、東京府に対して果敢に訴えた娼妓もいます。

しかし、大半の場合、実態は何も変わりません。

借金はそのまま、仕事内容も同じ、それどころか悪化した部分もあります。

意識の変化です。

かつては歌舞伎の演目のように、苦界に身を落とす遊女は憐れみの目で見られていました。ときには美談扱いもされた。華麗なるファッションリーダーとして花魁への憧れも。

そうした彼女らへの同情と羨望は、明治以降、薄れてゆきます。

例えば呼び名にも、その変化は表れています。

明治初期は「隠売女(かくしばいじょ・隠れて身を売る女)」という娼妓の呼び名がありました。

それが段々と「淫売女(いんばいじょ・淫らであるから身を売る女)」へと変化してゆくのです。

「やむなく隠れて身を売る」という見方が、「淫らであるがゆえに身を売る」に変化した――つまりは好きで楽をしたくて、身を売っているという名目になったのです。

通俗道徳」という自己責任論のもと、こうした見方はますます悪化しました。

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