井上馨

井上馨/wikipediaより引用

幕末・維新 明治・大正・昭和

首相になれなかった長州藩士・井上馨~西郷からは「三井の番頭」と非難され

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長州藩、朝敵と認定され大ピンチ

留学生活は、残念ながら長く続きませんでした。

井上が留守にした長州藩は、立て続けに暗礁に乗り上げます。

ロンドンで、長州派の無謀な攘夷砲撃を知った留学生たちは、急遽帰国することになったのです。

国へ戻った井上らは開国を主張しました。

が、受け入れられず、この状況が変化してゆくのは、長州藩が追い詰められていったからのことでした。

井上や伊藤博文は幸運でした。

尊皇攘夷を貫き続けようとした久坂玄瑞吉田稔麿、木嶋又兵衛、入江九一らは、こうした動乱の最中、【禁門の変】に参戦し、志半ばにして命を落としていたのです。

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この頃の長州をざっとマトメておきますと……。

【京都】
八月十八日の政変
池田屋事件
禁門の変

【長州】
下関戦争
第一次・第二次長州征伐

ザックリ足早に説明しますと、偽の勅を奉じたことで、孝明天皇から嫌われ【朝敵】認定された長州は京都から追い払われます。

そして、行き過ぎた攘夷行為の報復として、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊に大敗。さらには幕府による長州征伐も続き、問題は山積でした。

長州藩は、もはや開国に変換するしかなかったのです。

となると藩としては、井上や伊藤らの開国派を頼るほかありません。下関戦争の講話締結において、井上らは高杉晋作とともに、存在感を見せたのでした。

なお、幕府軍に攻め込まれた第一次長州征伐では、武備恭順を主張。藩の方針は、井上の案に決まります。

元治元年(1864年)、藩での会議の帰り道、長州藩・俗論派の刺客に襲われ重傷を負いました。

俗論派
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一命を取り留めたのは、芸妓からの鏡を懐に入れていたとか、母が抱きついて介錯を止めたなど、女性からの愛に救われた逸話が残っています。

このとき受けた傷が、顔面はじめ井上の体に残されております。

温泉に入ると、周囲の客から驚かれ説明を求められ、やむを得ず姦通の報いだと答えたこともあるのだとか。

井上は俗論派の巻き返し時は不利な立場に置かれたものの、息を吹き返します。

慶応元年(1865年)、高杉が奇兵隊を率いて武装蜂起した際には、井上も総督として参加。第二次長州征伐でも、参謀として転戦しました。

幕末から明治にかけての混乱の中、頭角を現していくのです。

慶応4年(1868年)には、断固たる武力倒幕を主張。新時代の幕開けと邁進しました。

 


「今清盛」か「三井の番頭」か

明治新政府が成立すると、井上は参与として参加。

九州鎮撫総督参謀、長崎府判事を歴任、外交畑で活躍します。

このとき、浦上キリシタンの弾圧、いわゆる浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)にも関与しました。

キリスト教徒への迫害は、外国から厳しい抗議を受けます。その多難な状況に、井上は対処せねばならなかったのです。

明治2年(1869年)には、井上は通商司事務管理を命じられ、大阪在勤となました。

いよいよ明治政府の始動といワケですが、この政府内でも意見の対立が度々見られるようになります。

東洋的な道徳観と西洋技術を組み合わせるべきだと考えたのが

木戸孝允
西郷隆盛
大久保利通

といったメンツ。奇しくも維新三傑のメンバーすべてがそうでしたね。

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これに対し、全て西洋流でよいじゃないか!という意見が井上ら「開明派」です。

「開明派」は「アラビア馬」と陰口を叩かれることもありました。彼らが西洋流で豪奢な生活様式を好むとされたからです。

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井上は、こうした贅沢を好み、金に汚い男であるという目線がつきまといました。

性格的に、気難しく見えるところがあったのも一因でしょう。

彼には、伊藤博文のような人に好かれる愛嬌に欠けていたのです。これも誤解されやすい点といえました。

井上馨/国立国会図書館蔵

廃藩置県の後、井上は岩倉使節団不在の留守政府を切り盛りし、大蔵大輔として強大な権限を握ることとなりました。

「今清盛」というあだ名をつけられたほどです。

そこで国立銀行の設置や、三井等の政商保護政策を行ったわけですが、そのやり口は反発を招きます。

明治4年(1872年)に行われた酒宴で西郷隆盛は、井上に向かってこう言いながら杯を回しました。

「三井の番頭さん、差し上げる」

西郷からすれば、井上は三井のためにせっせと働く、胡散臭い人物であったわけです。

井上に胡散臭い目を向けていた人物は、西郷一人に留まりません。

高潔な性質であった江藤新平は、井上の強引さに反発。

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尾花沢鉱山の私有をめぐっても、鋭い追及をしています(尾去沢銅山事件・おさりざわこうざんじけん)。

この事件は、混沌とした状況下で所有権が浮いていた尾去沢銅山を、井上が同郷の長州出身である岡田平蔵に買わせて私有化した――そんな疑惑です。

当時は井上のみならず、薩長出身の政府首脳にこうした疑惑がつきまといました。

明治5年(1872年)、長州出身で軍需品に携わっていた商人・山城屋和助が、生糸相場に手を出し失敗。

しかもフランスで豪遊していたことが問題視されました。

山城屋和助/wikipediaより引用

この商人に、陸軍省公金が流れていたことが判明し、山県有朋が薩摩閥から厳しい追及を受け、陸軍中将・近衛都督を辞任に追い込まれることとなります。

なお、山城屋和助は山県から借金返済を迫られるものの、返すことができず、割腹自殺を遂げたのでした。

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このように様々な疑惑がつきまとった明治初期の政治家たちですが、その中でも井上の疑惑の濃さは目立ったものであったのです。

そして、ついに……。

 


実業界から政界復帰

予算案をめぐる紛糾や、数々の疑惑により、井上への風当たりが悪化してゆく中。

明治6年(1873年)、井上は渋沢栄一とともに連袂辞職(れんべいじしょく・共に辞めること)することとなりました。

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実業界に転身した井上は、益田孝らと「先収会社(のちの三井物産)」を設立します。

実業家であると同時に、明治8年(1875年)には「大阪会議」にも関わっています。

実は、大阪会議の直前、台湾出兵をめぐって政府内で孤立した木戸孝允が、故郷に帰っておりました。

しかし、このままでは薩摩閥の大久保利通が突出することに……。

そこで長州閥の存在感を示すため、木戸が井上を頼り実現させたののが、大阪会議であるという一面もあったわけです。

大阪会議開催の地レリーフ/photo by 震天動地 wikipediaより引用

政界復帰後の明治9年(1876年)。

井上は、特命全権弁理大臣として、日朝修好条規を締結。このあと、アメリカ次いでヨーロッパへと向かいます。

計画では、3年間留学する予定でした。

しかし、このころ日本は相次ぐ士族反乱により、大変な状況を迎えます。

西南戦争】終結まで、動乱が続いたのです。

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こうした動乱の中、明治10年(1877年)、木戸孝允が死亡します。

更には西郷隆盛、大久保利通も亡くなり、明治政府も変革の時を迎えるのでした。

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