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【皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院の違い】
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◆御息所(みやすどころ)
后妃の中では意味が幅広い言葉で、元々は天皇が休息する場所のことでした。
そこから転じて、天皇の御寝所に侍る女性のことを指すようになります。
さらに、皇子・皇女を産んだ女御・更衣を指す場合もみられます。これは、源氏物語の六条の御息所などがわかりやすいかと。
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天皇の生母を「大御息所」と呼んだり、皇太子妃・親王の妃を御息所ということもあるので、「御息所」が出てきたら、血縁関係をおさらいするのが良いでしょうね。
◆更衣(こうい)
女御よりも低い身分の妃で、天皇の着替え(更衣)の世話をする役目であることからこう呼ばれました。
天皇の寝所に侍ることもあったようです。
だいたいの更衣は五位だったようですが、たまに四位になる者もいました。
まれに、天皇の寵愛を受けて女御や中宮にまで登ることもあったといいます。
後宮は「政治の思惑が全て」と思われがちですが、愛が勝つこともあったんですね。
最終的にどうなるかはケースバイケースですが。
◆女院(にょいん)
天皇の母后をはじめ、太皇太后・皇太后・皇后、内親王、女御などに「院号」が宣下(せんげ)されると「女院」となります。
正暦二年(991年)に、一条天皇の生母である皇太后・藤原詮子(せんし/あきこ)が出家し、「東三条院」となりました。
これにより彼女は上皇に準ずる扱いとなり、以降の女院も同様に扱われました。
東三条院をはじめ、平安時代には宮廷内外に勢威をふるった女院が他にも多数おります。
特に平安末期~鎌倉時代には、未婚の皇女が女院号宣下と共に広大な所領を持ち、皇室の藩屏となっていました。皇室の収入源と立場を守ったわけです。
なお、最後の女院は、江戸時代の末に孝明天皇の生母だった藤原雅子で「新待賢門院」の号を賜りました。
ちなみに院号を宣下された方たちが、何人おられるか、ご想像つきます?
その数、なんと107人(!)
数が数ですから、全体的には「皇族の女性のよくある呼称」という認識で良いかもしれません。
以下に有名な女院の一部をご紹介しましょう。
東三条院 藤原詮子:一条天皇の生母
上東門院 藤原彰子:一条天皇の中宮、後一条天皇・後朱雀天皇の生母
待賢門院 藤原璋子:鳥羽天皇の中宮、崇徳天皇・後白河天皇の生母
美福門院 藤原得子:鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の生母
上西門院 統子内親王:崇徳天皇・後白河天皇の同母きょうだい
建春門院 平滋子:高倉天皇の生母
建礼門院 平徳子:高倉天皇の中宮、安徳天皇の生母
青綺門院 藤原舎子:後桜町天皇の生母
女院の名前は、主に「住まい」や「縁のある地名」、あるいは「内裏の門の名前」から取られております。
彼女らの特徴としては、おおむね「当時の天皇の最も身近な血縁者」という点が共通しています。
時候の挨拶はもちろん、婚姻や政治的な相談などもよく行われていたのでしょうね。
上西門院は、保元の乱と平治の乱でとばっちりを食って、実に気の毒ですが……(´・ω・`)
后妃とそれに関連する主な呼称は、以上となります。
なお、彼女たちに仕える女官たちは、以下の記事でご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
後宮/Wikipedia
内侍司/Wikipedia