皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』入内した定子が中宮になるのはなぜマズい? 天皇后妃の法則に注目

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院の違い
をクリックお願いします。

 

お好きな項目に飛べる目次

◆更衣(こうい)

女御よりも低い身分の妃で、天皇の着替え(更衣)の世話をする役目であることからこう呼ばれました。

天皇の寝所に侍ることもあったようです。

だいたいの更衣は五位だったようですが、たまに四位になる者もいました。

まれに、天皇の寵愛を受けて女御や中宮にまで登ることもあったといいます。

後宮は「政治の思惑が全て」と思われがちですが、愛が勝つこともあったんですね。

最終的にどうなるかはケースバイケースですが。

 

◆女院(にょいん)

天皇の母后をはじめ、太皇太后・皇太后・皇后、内親王、女御などに「院号」が宣下(せんげ)されると「女院」となります。

正暦二年(991年)に、一条天皇の生母である皇太后・藤原詮子(せんし/あきこ)が出家し、「東三条院」となりました。

これにより彼女は上皇に準ずる扱いとなり、以降の女院も同様に扱われました。

東三条院をはじめ、平安時代には宮廷内外に勢威をふるった女院が他にも多数おります。

特に平安末期~鎌倉時代には、未婚の皇女が女院号宣下と共に広大な所領を持ち、皇室の藩屏となっていました。皇室の収入源と立場を守ったわけです。

なお、最後の女院は、江戸時代の末に孝明天皇の生母だった藤原雅子で「新待賢門院」の号を賜りました。

ちなみに院号を宣下された方たちが、何人おられるか、ご想像つきます?

その数、なんと107人(!)

数が数ですから、全体的には「皇族の女性のよくある呼称」という認識で良いかもしれません。

以下に有名な女院の一部をご紹介しましょう。

東三条院 藤原詮子:一条天皇の生母

上東門院 藤原彰子:一条天皇の中宮、後一条天皇・後朱雀天皇の生母

待賢門院 藤原璋子:鳥羽天皇の中宮、崇徳天皇・後白河天皇の生母

美福門院 藤原得子:鳥羽天皇の皇后、近衛天皇の生母

上西門院 統子内親王:崇徳天皇・後白河天皇の同母きょうだい

建春門院 平滋子高倉天皇の生母

建礼門院 平徳子:高倉天皇の中宮、安徳天皇の生母

青綺門院 藤原舎子:後桜町天皇の生母

女院の名前は、主に「住まい」や「縁のある地名」、あるいは「内裏の門の名前」から取られております。

彼女らの特徴としては、おおむね「当時の天皇の最も身近な血縁者」という点が共通しています。

時候の挨拶はもちろん、婚姻や政治的な相談などもよく行われていたのでしょうね。

上西門院は、保元の乱平治の乱でとばっちりを食って、実に気の毒ですが……(´・ω・`)

后妃とそれに関連する主な呼称は、以上となります。

なお、彼女たちに仕える女官たちは、以下の記事でご覧ください。

あわせて読みたい関連記事

◆ドラマや平安時代など全ての関連記事はこちら→(光る君へ

◆以下、名前をクリックすると各人物伝の記事へ飛びます

紫式部
まひろ
藤原為時
まひろ父
藤原惟規
まひろ弟
藤原宣孝
まひろ夫
藤原道長
兼家三男
藤原兼家
道長の父
藤原道兼
道長の兄
藤原道隆
道長の兄
藤原時姫
道長の母
藤原寧子
道綱の母
藤原道綱
道長の兄
高階貴子
道隆の妻
藤原詮子
道長の姉
一条天皇
66代天皇
藤原定子
道隆の娘
藤原彰子
道長の娘
源倫子
道長の妻
源雅信
倫子の父
藤原穆子
倫子の母
赤染衛門
女流歌人
藤原公任
道長の友
藤原斉信
道長の友
藤原行成
道長の友
藤原実資
ロバート
藤原伊周
道隆嫡男
藤原隆家
道隆四男
清少納言
ききょう
清原元輔
藤原頼忠
公任の父
安倍晴明
陰陽師
源明子
道長の妻
円融天皇
64代天皇
花山天皇
65代天皇
藤原忯子藤原義懐
朱仁聡
宋の商人
周明
宋の医師
三条天皇
67代天皇
藤原顕光
兼家の甥
藤原頼通
道長嫡男
藤原為光
忯子の父

◆配役はこちら→光る君へキャスト

◆視聴率はこちらから→光る君へ全視聴率

◆ドラマレビューはこちらから→光る君へ感想

コメントはFacebookへ

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
後宮/Wikipedia
内侍司/Wikipedia

TOPページへ

 



-飛鳥・奈良・平安, 光る君へ
-,

×