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【藤原定子】
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3人目を生むと 波乱に満ちた生涯の終わりへ
しかし、さすがに世俗の人々を全て説得する事はできません。
「色ボケしちゃったのか……」
「出家したんだから諦めればいいのに……」
「従う女も女だわ」
といった悪評が消えませんでした。
そのため定子は再び宮中に入ったとはいえ、外れも外れ、しかも「名状しがたい何かがいる」という噂が立っているような場所に住むしかありませんでした。
それでも一条天皇はわざわざ人目を忍んで自ら足を運んでいたといいますから、ホント愛の力はパネェです。
これには神様もちょっと同情してくれたようで、定子はやがてきちんと宮中に戻る事ができ、その後も二人の間には親王と内親王が一人ずつ授かりました。
そして、三回目の出産後、定子はその波乱に満ちた生涯を閉じてしまいます。
翌日の事だったとされているので、おそらくは分娩時の出血多量あたりが死因でしょう。現代の日本でも、年に数十人の妊婦さんが同じ理由で亡くなっていますからね……。
定子本人は、闊達な父と、当時男性が読むものとされていた漢文を読みこなしていたという母の良いところを併せ持ったような、知的かつ明るい女性だったようです。
清少納言が『枕草子』で、ことあるごとに褒め称えているのもこうした人柄が大きかったのでしょう。
一条天皇に愛されたのも才覚があってのことかと思われます。
短く愛される人生か 栄華に翻弄される生き方か
同じく皇后となった藤原彰子と比較してみても、一条天皇が定子をいかに愛していたかは窺えます。
というのも、上記の通り定子と一条天皇の逸話は多々あるのですが、一条天皇と彰子のエピソードはあまり記録が残っていないのです。
彰子にも子供が生まれていますので、寄り付かなかったとか毛嫌いしていたとかそういうことはないでしょうけれども。
何かにつけて父・道長が口を出してくるので、一条天皇からすると彰子の影に道長を感じていたのかもしれません。
彰子本人は定子の産んだ親王を手元で育てたりしていますので、皇后でありながら若くして亡くなったことへの同情や、自分が割って入ったような形になる事に負い目があったのでしょうか。
彼女は87歳という当時としては驚異的な長生きをするのですが、それまでの間は道長との対立や子供にも孫にも先立たれるなど、決して安穏な人生ではありませんでした。
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短くも最初から最後まで夫に愛される人生か、栄華と悲しみに翻弄されながらも長生きするか。
定子と彰子は立場の違い以外にも、母として・妻として真逆の道をたどったともいえそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「藤原定子」
藤原定子/wikipedia