藤原兼家

藤原兼家/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

道長の父・藤原兼家が出家詐欺~天皇をダマして貴族の頂点に立つ

永祚2年(990年)7月2日は藤原兼家(ふじわら の かねいえ)が亡くなった日。

ご本人の知名度はイマイチながら、あることで彼は、日本史上かなり稀有な存在として認知されています。

実はこの兼家さん「この世をば~」の歌で有名な藤原道長さんのお父上なんですね。

それだけではありません。

彼の妻は何人かいて、そのうちの一人が「右大将道綱の母」となります。

彼女は『蜻蛉日記』の作者であり、その中で夫・兼家が別の妻に通う苦しい心情を描いていて、かなりヘヴィな嫉妬心が現在まで残されているのです。

男性としてこれは重たい……でしょうから、今回は政治に注目。

兼家の、いかにも藤原長者(藤原氏のTOP)らしい手腕をワル査定してみましょっ!

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兄弟ケンカは続くよ、死ぬまでも

兼家は右大臣・藤原師輔(ふじわら の もろすけ)の三男として生誕。

長兄にあたる藤原伊尹(これただ)とは仲良しで、伊尹が摂政になると次兄の藤原兼通より出世させてもらいます。

・藤原伊尹(長兄)

・藤原兼通(次兄)

・藤原兼家(本人)

兼通はコレを根に持ちます。

伊尹の辞職後に兼通が摂政になると、この次兄は全力で兼家の出世を潰しにかかるのです。

「できることなら九州にでも左遷したいけど罪がないから出来んわ」

母が違うならまだしも、同母兄のお兄ちゃんにココまで嫌われるのもなかなか。

そして、その5年後、お兄ちゃんが病に倒れ、明日をも知れぬ状態となったときに兼家がとった行動は……。

・病に伏せる兄ちゃん宅を素通りして仕事に行った

しょーもなっ! 子供かっ!

って思うところですが、まぁ、いくら仲が悪くても兄が最期を迎えそうなときには見舞いぐらい行くもんでしょう。

そう感じたのは兄ちゃんも同じだったようで。

この兼通お兄ちゃん、最後の力を振り絞って参内すると、仲良しの叔父・藤原頼忠を関白にし、兼家には【降格人事】を突き付けて冥土に旅立ったのでした。

怖いです。恨みのパワーって本当に凄まじい。

 


待てない!1ミリも我慢できない!

見舞いに行かず、関白の座を逃した兼家。

しかし、宿敵の兄が死んだら、さすがに【俺のターン】がやってきます。

時の帝・円融天皇は兼家の妹の息子であり、兼家は天皇から見て伯父の立場、かつ次女も後に円融天皇の皇子を産んでおります。

ここで次女を中宮にしたかったワケですが、天皇は関白・藤原頼忠の娘を中宮にしていて、兼家さん、拗ねました。

そして、娘、皇子も巻き込んで引きこもります。

慌てた天皇が、気を遣って使者を送るもガン無視。

しまいには天皇に対して「今の皇太子が即位したら、兼家の孫を皇太子にするつもりだ」と言わせます。

その言葉通りに円融天皇が譲位し花山天皇が即位すると、兼家の孫が皇太子になります。

花山天皇/wikipediaより引用

待っていれば、いずれ次の天皇の外祖父になれるワケですが、1ミリも我慢できない兼家さんは凄まじい行動に出ます。

・天皇を騙して出家させた

のです。

一体どうやって、そんな風に持ち込んだのか?

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