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【紫式部】
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女房としての生活はなかなか大変だったでしょう
当時、彰子の周りには中宮へ仕えるにふさわしい家柄の女房が多々いたようです。
ただ、彼女らはあまりにお姫様すぎて実務ができず、また風情にも欠けていたのだとか。
そのため道長は気分を切り替え、紫式部や和泉式部、赤染衛門といった、世に才媛として知られている女性たちを彰子の元に集めます。
和泉式部は、少なくとも母親が女房勤めをしていましたし、赤染衛門は元々彰子の母で道長の正妻である源倫子に仕えていたため、いざ2人が彰子の元にやって来ても、ある程度の要領はわかっていたと思われます。
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しかし、紫式部は違います。
それまでずっと実家にいたため、宮中の女房としての暮らしや仕事にはなかなか慣れることができませんでした。
風流や優雅なイメージが強い宮中ですが、その実態は割とあけすけな共同生活です。壁のない大きな部屋を几帳などで区切って使っているため、プライバシーなどはありません。
また、日記や手紙を他人が見てしまう……ということもままあったようです。
盗賊が入ってくることもあれば、すぐ側を貴賤問わず男性が通り、顔を見られてしまうこともありました。「顔を見られる」と「関係を持つ」ことがほぼイコールだった当時、これは相当に異質なことでした。
女房勤めに慣れていればともかく、紫式部のようにずっと実家にいて大人になった貴族女性にとって、耐え難い環境と言っても過言ではないわけです。
「貴女はもっと近寄りがたくて嫌味な人だと思っていたわ」
また、彼女自身、漢学の素養や源氏物語の作者などといった点で、人の口に上るのは嫌だと思っていたらしき記述が、紫式部日記に書かれています。
いつの時代も、何か特徴のある人は勝手なイメージを持たれやすいもの。
近い時代に同じく漢学の知識があり、それをおおっぴらにしていた清少納言という先例もあったためか、紫式部も「勝ち気な女」と思われがちだったようです。
ある人は、初めてきちんと紫式部と話したとき「貴女はもっと近寄りがたくて嫌味な人だと思っていたから、皆で毛嫌いしていたのよ。でもお会いしてみたら、とても穏やかな人で別人かと思ったわ」などと言っていたとか。
まぁ、それを本人に言ってしまう性格がどうかと思いますが……。
一条天皇が寛弘八年(1011年)に崩御した後、紫式部は皇太后となった彰子についていき、ずっと仕え続けたと考えられています。
記録上、二年後までは少なくとも存命だったようですが、その先はわかっていません。娘の大弐三位も彰子に仕えているので、どこかで混同が起きた可能性もありますね。
紫式部日記は彼女の人となり等が見えてくる
さて、紫式部といえばやはり源氏物語ですが、一通りストーリーがわかっている方も多いかと思いますので、ここでは「紫式部日記」をオススメさせていただきます。
この日記には、彼女のものの考え方や対人関係、当時の貴族の生活が克明に記されており、歴史的背景を実感することができて非常に貴重だと思います。
紫式部日記は、彰子が第一子・敦成親王出産のため、実家に帰っていたときのことから始まります。
この時代、お産は穢れとされていたため、后妃は実家に戻って(宿下がり)産前産後を過ごしておりました。
その中に「産まれたばかりの敦成親王の様子をホクホク顔で見に来た道長が、おしっこを引っ掛けられてしまった。道長は怒りもせず、これはめでたいとデレデレだった」というシーンがあります。
現代でも「おじいちゃん(おばあちゃん)なんて絶対に呼ばせないから!」と言い張っていた人が、孫が生まれるなり「おじいちゃん(おばあちゃん)でちゅよ~♪」と言うのに似ている……かもしれません。
道長というと、いかにもやり手政治家なイメージが強いですけれども、人の親・祖父という一面や茶目っ気も十二分に持っていたことがわかります。
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