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貴族同士の交友関係が知識を豊かにする
平安時代から伝わる書物にはしばしば「藤」の印がついています。
文字通り「藤原氏の所蔵」という意味です。
平安時代中期の教育や読書事情を振り返る上で重要なことは、当時は「写本」であることが挙げられます。
摂関政治時代には【宋版】印刷の書籍も導入され、藤原道長も所蔵していました。
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ただし、あくまで極めて珍しい観賞用としての伝来であり、本来の目的である書籍として本格的に輸入されるのは、鎌倉時代の【金沢文庫】あたり以降とされます。
それまでの書籍は
誰かから借りる
↓
書き写して
↓
返却する
というプロセスでした。
「『源氏物語』が広く読まれた」
という何気ない一文にしても、当時の流通事情を考えるとなかなか大変です。
書籍の内容を写す手間がかかるからには、爆発的に一気には広まらず、ジワジワと浸透していくもの。
『更級日記』の作者である藤原孝標女は、『源氏物語』がどうしても読みたいと願っています。それだけ現物が入手しにくいからこその事情があったのですね。
書物を熱望する人もいる一方「面倒だからお話を聞かせて」という人も当然いたでしょう。
『光る君へ』では、まひろが『蜻蛉日記』の貸し出しを源倫子に申し出たところ、つれなく断られる場面が出てきました。
彼女は誰かに聞かせてもらうほうが良さそうに見えますね。
あるいは『光る君へ』でも知的な存在感を放っている藤原行成の場合は、書道の達人だけに思わぬチャンスに恵まれました。
現代でも、気に入った本はできるだけ美しい状態で手元に置きたいとなりますよね。
当時も同じです。せっかく写すなら、能書家にやらせた方がいい――そんな思惑から、行成は書物を手にする機会が多かったのです。
そして出世はコネが大事
当時は、各氏族ごとに【大学別曹】を持っています。
【大学寮】に属する寄宿舎のようなもので、その存在が、才能よりも生まれ次第で有利不利が決まる状況を生み出してゆきます。
有力者の【氏長者】が管理し、任官試験を経ずに官職に就くことができるようになるのです。
学問を学ぶ意義よりもコネ重視の時代。
それでも藤原為時が、我が子に学問を熱心に教えるには、ちゃんとした理由がありました。
とりあえず蔵書は他の貧乏貴族よりはある。これを誇りとし、出世を狙ってもよい。
そんな希望を持っても不思議ではないながら、実際は願望半分といったところでしょう。
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為時の生きた時代は硬直化が始まっています。
何がなんでも律令国家の基礎を築くべく疾走していた時代は過ぎ去っていて、平安貴族には停滞と爛熟の時代が訪れていました。
学識で出世できた貴族は、菅原道真が最後。
女性の活躍もせいぜいが女房くらい。
資産と外戚政治で回ってゆく時代に突入しているのです。
為時はその学識を評価されながらも、【除目】で自分の名前を見出すことができない苦難の人生を送っていたことが、『光る君へ』でも表現されていました。
それなのに、なぜ我が子だけがそうならないと言えるのか。
確かに為時には、沿岸部に宋の商人が訪れたため、優れた漢詩文能力を一条天皇に見出され、越前守に任官されたこともあります。
とはいえ、それにしたって藤原道長ら有力者の口利きがあったとも推察されています。
『光る君へ』では、学識にこだわる為時に対し、藤原宣孝がコネでどうにかしろと助言しています。
確かに時代はそうなのです。
為時の息子である藤原惟規にせよ、結局のところ、姉である紫式部が登用されたコネで就職したと見なせる状況でした。
為時の娘であるまひろ(紫式部)だって、己が生きる時代には【大学寮】は形骸化していることは理解していました。
『源氏物語』では、光源氏の夕霧に対する教育方針が異色のものとされています。
低い官位からキャリアを始め【大学寮】で学ばせたのです。
しかし、「蛍雪之功」の故事を引きつつ、我が子に学びを促す光源氏の姿は、理想的というよりも変わったものだと周囲は噂しました。
今どき学問をコツコツやらせるより、コネでどうでもなるだろ、あれでは息子も気の毒だ、と囁かれていたのです。
まひろ(紫式部)は批判精神ゆえにそうしたのか、それとも現実をただ反映しただけなのか。
『源氏物語』では、雅な名門貴公子たちが理想的な姿で描かれているだけではありません。
強引でありながら実行力のある脇役が、政治的な力を発揮していく姿が後半は目立ち始めます。紫式部の筆は、来たる世の変化を映していたのかもしれません。
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