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【大学寮】
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コネが政治の停滞を招く
実力ではない。生まれついての血統、外戚政治、有力者のコネで出世が決まる。
そんな時代が続くと、やがて破綻が見えてきます。
冷泉天皇や花山天皇のころから懸念されていた、気まぐれな天皇が即位すれば、政治全体がその意に振り回されかねません。
藤原道長のような最高権力者ともなれば、我が子の暴虐やわがままには目を瞑りました。
彼の息子の時代ともなれば、『源氏物語』にはとても出せない、生々しい下劣な事件を起こすようにもなっているのです。
だからでしょうか。【摂関政治】に対して、天皇側が抵抗せず言いなりになるだけでなく、上皇の【院政】による二元政治で対抗姿勢を取っていきます。
【外戚】政治にしても、自らの血を引いた女子が生まれなければ破綻してしまう危ういものですから、養女を娶せるという抜け道が探られるようになっていく。
そして登場してきたのが【武士】でした。
暴力により政治をかき乱すという禁断の手段は、抑制されるどころか強化されてゆく。
【外戚】政治は、男女の閨房で政治が左右されるものでしたが、院政時代となると、男同士の閨房がパワーゲームに直結する事態となります。
藤原摂関家は周囲の男性と性的関係を結び、その中で政治を回すようになりました。
政治的な動向や有職故実を記録するための記録が日記です。これも藤原頼長『台記』となると、赤裸々な性行為の記録が出てきます。そんな関係すら政治に組み込まれてゆくのです。
日本が「男色・衆道に寛容だった」という説は本当か?平安~江戸時代を振り返る
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象徴的な事件が、藤原頼長と兄・忠通と「氏長者」の地位争いです。
武力を用いた対立へ突入し、ついには【保元の乱】にまで発展。頼長は矢で射られ、横死を遂げるというおそるべき最期を迎えました。
国士監と大学寮 どこで差がついた?
【大学寮】による官僚の育成は、結果的になし崩しとなり崩壊、要は失敗しました。
日本の教育機関は、武士の世が到来し、時代が降ると寺社がその役目を果たすようになってゆきます。
最新の仏教を学ぶ禅僧が漢籍を学び、それを伝えるようになってゆくのです。
最高学府としては【足利学校】が創設されてはいますが、ごく一部のための教育機関といえる。
教育が広く浸透していくのは江戸時代。
最高学府といえる【昌平坂学問所】(昌平黌)では、かつては【大学寮】で行われていた【釈奠】(せきてん・孔子とその弟子を祀る)が復活され、行われるようになりました。
さらには日本各地で武士のための【藩校】が作られ、ここでも儒教が学ばれます。
そのため各地の藩校にはしばしば孔子像が置かれました。
武士以外が通う【寺子屋】等、教育施設もできてゆきました。
中国では、まず【科挙】と教育機関による官僚統制システムが形成され、時代が降るにつれて複雑化し、明代には国家体制に組み込まれます。
科挙受験を希望するならば【院試】を受け、それから各地にある【府学】【県学】に属して、上の試験を受けなければなりません。
自己流で学んでいては【科挙】を突破して官僚になることは実質的にできなくなり、こうした学校で国家に沿った思想を叩き込まれます。
こうした堅い制度はいくつもの悲劇を生みます。
実行力よりも、試験に適したテクニックばかりを身につけ、それでいて道徳観念は低く処世術に長けたテンプレ官僚ばかりになってしまったと嘆かれることになるのです。
元祖受験地獄!エリート官僚の登竜門「科挙」はどんだけ難しかった?
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この差がついたのが、近世以降でした。
清朝の官僚が自由闊達な発想ができない一方、日本では中流以下の武士および中流以上の武士以外の層が、知的好奇心を高めるために勉学に励んでいました。
【蘭学】や【陽明学】のような学問は、時に禁止や弾圧の対象にすらなります。
それでも知的好奇心を高めるために学び続け、それが近世の原動力になった。
日本が【科挙】を取り入れ無かったことは、よかったのか、悪かったのか?
時代により異なり、一概には言えません。
教育により官僚を生み出し、確固たる政治体制を作ることができなかった結果、無惨な崩壊を招いた平安時代はマイナスに作用したといえます。
しかし近世では、柔軟な学びが近代での飛躍につながりました。
フランスの啓蒙思想家であるヴォルテールは、科挙制度こそ最先端の官吏登用制度であると絶賛しました。
実際のところ、現代社会では試験による官吏登用制度が根付き、この見立てはある程度正しかったと証明されています。
それゆえ、近代社会は努力が重要だと説かれました。
「末は博士か大臣か」とは、かつての日本で、主に男子教育のうえで語られたフレーズです。
努力すれば出世できる。そう信じることのできた時代でした。
しかし、もはやその仕組みは崩れつつあり、“親ガチャ”と言われる時代です。
努力による成功とは、自己責任論と表裏一体です。
結局は努力よりも生まれついた環境と運次第ではないか?
そうメリトクラシーの弊害が語られる時代となりました。
私たちの生きる時代は、まひろ(紫式部)たちが見ていたような、コネや一族ガチャで決まってしまう閉塞感にあふれているのかもしれません。
物語とは、読まれる時代によってさまざまなものを見せてきます。
“一族ガチャ”に当たった人々の織りなす物語ともいえる『源氏物語』。
それそのものではなく、その制作背景を描く『光る君へ』は、どんなメッセージを私たちに届けてくるのでしょうか。
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文:小檜山青
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【参考文献】
髙田宗平編『日本漢籍受容史: 日本文化の基層』(→amazon)
保立道久『平安王朝』(→amazon)
倉本一宏『平安京の下級官人』(→amazon)
繁田信一『紫式部の父親たち』(→amazon)
八鍬友広『読み書きの日本史』(→amazon)
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他
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