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【藤原行成】
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右大弁の座を得て「快挙を成し遂げた」
別のエピソードとは以下の通り。
ある日、殿中で藤原行成が、藤原実方という貴族と和歌に関する口論になり、激怒した実方が行成の冠を投げ捨てるという暴挙に出ました。
現代でいえば、職場でいきなりズボンと下着をおろされるような恥辱の行為。
大慌てしてもおかしくないところですが、行成はあくまで冷静を保ち、宮中の掃除などを担当する役人を呼んで冠を拾わせ、髪を整えて冠を被り直したといいます。
これをたまたま一条天皇が目撃し、行成の落ち着いた言動を見て「行成ならば、蔵人頭を任せるにふさわしい」と思い、任官した……というものです。
ただし、残念ながら、この話は創作と見られています。
実方は一条天皇から多大な餞別をもらっていますし、武官として出世してきた彼ならば、都から離れた陸奥を任せられると判断してのことだったのではないでしょうか。
そんなわけで事実とは言い難い話ですが、行成の人柄と実方への同情が合わさり、このような話が作られたのかもしれません。
実際に、行成は蔵人頭になってからも仕事に励み、一条天皇に高く評価されていきます。
しかし、優秀な人ほどライバルも多いのも事実。
長徳四年(998年)、源相方(すけかた)という公家と【右大弁】という官職を争うようになりました。
ここで少し、当時の組織構造を確認しておきましょう。
朝廷では、まず一番上に【太政官】という機関があります。
トップは太政大臣や左大臣・右大臣が務め、その下に【左弁官】【右弁官】という機関があり、それぞれ4つの省を統括していました。
右大弁というのは、右弁官の長官にあたり、かなりの重職です。
というのも
・兵部省(軍事)
・刑部省(裁判・刑罰)
・大蔵省(財政)
・宮内省(天皇の財産管理や日常生活などの庶務)
という4つの重要な省を司りますので、出世争いで源相方(すけかた)が簡単に引き下がらないのも道理でした。
しかも源相方(すけかた)は、道長の縁者(道長と相方の父・重信が相婿)であるため、道長からも大なり小なり干渉があったようです。
そこで行成はどうしたか?
というと「自分がなぜ右大弁にふさわしいか」について、道長に対し過去の例なども引きながら説明したとされます。
さしもの道長も、この時点では天皇の外戚ではなく、ゴリ押ししきれなかったようで、行成は念願かなって右大弁に昇格。
よほど嬉しかったようで、日記に記録を残しています。
「30歳前に大弁の職についたのは、これまで貞信公(藤原忠平)と八条大将(藤原保忠)だけだった」
二人とも行成からすると半世紀ほど前の人々ですから、「快挙を成し遂げたぞ!」という喜びが見えますね。ちょっとかわいい。
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彰子の立后に一役買う
長保元年(999年)、藤原行成に転機が訪れます。
この年、藤原道長の長女・藤原彰子が入内して女御となり、道長は既に敦康親王を産んでいた中宮・藤原定子に対抗する方法を考え始めます。
そして「定子を皇后にし、彰子を中宮に立てる」という荒業を一条天皇に申し出ました。
道長はこのとき、行成に
「彰子を中宮にしたいので、貴公からも一条天皇によろしく伝えてほしい」
と頼んだとされます。
前例に詳しく実務能力も高い、そして立場も比較的中立である行成をアテにしたのでしょう。
行成も当時の後宮に対して思うところがあり、一条天皇に話をすることにしました。
話の肝は、当時の藤原氏出身の后妃が全員出家していて、神事をやらない状況だったことです。
どういうことか?
当時、后妃の立場にあった女性は三人。
円融天皇の女御かつ一条天皇の母・藤原詮子と、円融天皇の中宮だった藤原遵子は、円融天皇の崩御後に仏門へ入っていました。
この二人は慣習的に問題なかったのですが、定子については前例のない経緯で出家していました。
兄弟の藤原伊周と藤原隆家が長徳二年(996年)に起きた【長徳の変】で犯人となってしまい、引き立てられていくところを見て、衝動的に自ら髪を落としてしまったのです。
にもかかわらず、一条天皇の寵愛が深いがゆえ宮中に戻っていて、公家の中には「出家の身で恥知らずな」という声が一定以上存在していたとされます。
行成の日記『権記』には、彰子の入内前に、大江匡衡が行成に対して語ったことが以下のように記されています。
「唐の国では、出家していた則天武后が宮中に入って国が滅んだといいます。
定子様が再び内裏に入ってから火事が起きたのも、故事にならったものでしょうか」
大江匡衡の妻は道長の嫡妻・源倫子の女房で、かつ彰子にも仕えていた赤染衛門ですので、確かに彰子サイドの意見ではあります。
しかし、彰子が女御になった日に定子が敦康親王を産んでいたにもかかわらず、『権記』や『御堂関白記』(著・藤原道長)にそのことは記されず、反道長スタンスの藤原実資『小右記』ですらも詳しくは触れられていません。
定子に関する当時の社会不安や冷たい視線が相当のものだったことが伝わってきます。
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そんなわけで、道長の権力欲を別にしても、神事を重んじる皇室で「后妃が祭祀を務めない」というのは好ましい状況ではありませんでした。
これらを踏まえて行成は「彰子を中宮にして神事をやってもらうようにすることは、前例からみても不都合はない」と結論付けて、一条天皇に上申。
一条天皇もこれを受け入れ、彰子の立后が実現します。
道長が、行成の協力に対して喜んだのは言うまでもなく、
「お互いの子の代になっても必ずこの恩に報いるよう、兄弟同然に思い合うように命じておく」
とまで言ったとか。
行成としては、かつて定子のもとへ出入りしていた時期があり、清少納言との逸話もありますので、複雑な気持ちだったかもしれません。
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