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【平安貴族の日記】
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それでも記録を残す意義はあった
平安京の貴族たちは日記を大量に残しました。
その効能は、日記を書く風習のない場所でこそ、より強く感じられます。
平安末期から始まる『鎌倉殿の13人』では、北条義時に子役は無く、彼の姉である北条政子が源頼朝に惚れてしまうところから始まりました。
あれは作劇上の都合だけでなく、史料の残存状況からも妥当な設定。
伊豆に住む坂東武者の北条氏は、そこまで細かい記録を残してきませんでした。
源頼朝という万馬券を引き当て、政治的に重要な存在となるまでは、その必要がなかったのです。
ゆえに坂東の動向は実にわかりにくい。
大きな建物があったことはわかる。その地で繁栄した一族がいることもうっすら記録に残っていながら、結局は消えてしまう。なぜなんだろう?と、思ってもその過程が判定でません。
この時代の歴史を調べていくと「わかりません」の連続となってしまう。
貝塚がある。貝殻がある。
では、どんな料理をしていたのか? というと、わかりません。推察するしかない。
大きな建物があり、誰が住んでいたのか名前はわかる。トイレの位置や間取りもわかる。亡くなった人が埋葬されていたこともわかる。
では一体どんな人たちだったのか? というと、はっきりとはわかりません。
何やら古い神社があるらしい。その由来は? 神社の公式サイトには掲載されていて、それらしい由来はあるけれど、歴史的な観点からすれば……わかりません。
こんな状況になってしまうのです。
そんな坂東でも記録の重要性が認知され、実際に残されるようになり、『吾妻鏡』が記されるようになってゆく過程はまさしく文明の夜明けです。
彼らからは、誠意あふれる態度を感じます。
自分たちの政治をきちんと残すようになったのですから真摯ではありませんか。
確かに『吾妻鏡』には、北条氏の強引で悪辣な政権奪取の過程がロンダリングされている節はあります。
それでもドス黒さが完全に消され切っていないところは真面目というか素朴というか。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をご覧になられて、なんだかどうしようもない野蛮な連中だと感じたかもしれませんが、坂東武者には自分たちだけで権威を独占しない潔さはありました。
『吾妻鏡』を復元させ、愛読していた徳川家康のセンスも光ります。
ならば武士は記録を始めてから真面目に記述していったのか?というと、幕府公式の『徳川実紀』にしても、各藩の記録にしても、注意が必要です。
いざ記録を残すとなれば、彼らとて自分の家の正統性を押し出したくなる。
わかりやすい例として、仙台藩を見てみましょう。
仙台藩は藩祖・伊達政宗の母方の実家である最上家が改易されました。
そこで政宗のどう考えてもワルい行動が、母のやらかし扱いにされてしまいます。
政宗の父である伊達輝宗の功績も、息子持ち上げのため過小評価されたのでは?と思われる部分がある。
そうした藩の記録、その歴史観に基づいて描かれた大河ドラマ『独眼竜政宗』が大ヒットしたため、現代まで誤解された歴史が伝わる弊害も残ってしまいました。
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こうしたバイアスを修正するにはどうするか?
というと、複数の史料を付き合わせる【史料批判】が必要とされます。
明治時代以降はどうか?
明治時代以降の歴史も、大きく弊害が残されています。
大河ドラマの一覧を目にするとわかりますが、戦国時代と共に定番とされる幕末作品は、ほとんどが維新を起こしたサイドの目線から描かれています。
維新サイドから描くことだけが問題なのではありません。
正々堂々と新説準拠で描けばよいのに、彼らが起こしたテロ行為は避けられる傾向が強い。
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そもそも明治維新そのものが、歴史の保全という観点からすると問題がありました。
藩政時代の記録は無駄だと判断し、焼却したりしているのです。これほどの大損失がありましょうか。
多くの城も破壊されていますし、悪名高い【廃仏毀釈】もありますね。
結果、大名屋敷から様々なお宝が売られてゆきました。
幕末から維新にかけての政治情勢も、歴史の残存状態に格差を生じさせています。
薩摩と長州は顕彰もあり、それこそ正々堂々と残しました。
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負けた側だけれども言い分がある会津藩は、不断の努力により残そうとしました。
水戸藩は、藩内が真っ二つに別れてしまったため、語り継ぐことそのものが困難を伴っています。
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また、幕末外国人目線の記録は発禁とされていたこともあります。
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こうして振り返ってみると、日本の歴史の記録とは、どうしても特定の目線に立ってしまい、俯瞰することが少ない。
しかもその弊害は明治以降にますますあらわとなっています。
水戸藩そのものは壊滅しながら、維新志士たちは水戸藩が編纂した歴史書『大日本史』を愛読し、【水戸学】に心酔しました。
その結果【南朝正統論】が取られ、明治政府は紙幣に、南朝の英雄を大勢採用。
現在では、ほぼ知名度のない武将が紙幣の顔になるという現象が起きています。
さらには【脱亜入欧】をこじらせた結果、神功皇后が西洋風美女として描かれるわ、コルセット入りスカートを履いているような奇怪な絵まで登場しています。
本場中国にせよ【史書】はイデオロギー発露の場です。
日本はなまじゆるやかな歴史形成をしてきた結果、【史書】と願望を混ぜ合わせた奇怪なイデオロギーも生じてしまったのです。
殷鑑遠からず
世界各地の歴史と自国の歴史を比較する作業は非常に大変です。
それでも史書大国の中国が隣にあるのだから、比べてみれば見えてくるものも大きい。
何より当の日本人が「歴史を学ぶならば中国の史書」と語っていたからには、そこを否定するのは日本の伝統そのものに異議を唱えることになりかねません。
しかし日本は明治維新以降の価値観で進めてしまいました。
【脱亜入欧】を掲げ、中国史と日本史を比較するやり方をも否定。
西洋史中心の見方を取り入れ、武士と騎士は似ているような強引なやり方をしてしまいます。
それではよろしくない――という意見を取り入れて「東洋史」という学問もありましたが、これは意識して学ばねばなりません。
実はこの弊害は、学校のカリキュラム以外にも残っています。
昭和の大作家である司馬遼太郎は、自分が推す人物を「西洋思想を持っていた」という造形にしがちです。織田信長や土方歳三がその好例でしょう。
両者ともそこまで西洋を意識していたとは思えません。
土方は洋装写真が残っている影響が大きいのでしょう。『燃えよ剣』では、近藤と土方の関係を欧州軍隊における士官と副官にたとえています。
しかし本人の言動をふまえると、むしろ自分たちを『三国志演義』の「桃園三兄弟」になぞらえているほうが妥当に思えます。
この印象は現在も引き継がれていることは、織田信長と土方歳三を画像検索すればわかると思います。
二人とも西洋意匠を取り入れたデザインが先に出てきます。
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こうした弊害を意識し、変革していかねば危ういのではないでしょうか。
同じ漢字を用い、東洋思想を学ぶ中国は、日本史理解がより深いところまで到達できます。
例えば、かつて【文化大革命】というブレーキがかかった中国では、こんな嘆きがありました。
「もう日本人の書いた中国史の本の方がよいのではないか?」
今後、こうした嘆きが逆転する可能性はあり、現在、中国語圏では日本史研究が伸びています。
置いてけぼりになるのではなく、日本でも、中国史と日本史を合わせ鏡にして見ていく、かつての歴史観も必要ではないか?と思うのです。
歴史書とは、まさに鑑(かがみ)。
中国の史書には、ルールがあります。
歴史を正確に記録し、教訓とするという思想があるのです。
殷鑑遠からず。『詩経』
殷が手本とすべき手本は、遠くまで遡らなくて良い。前の王朝の失敗を学べばよい。
その考え方に従い、前王朝の失敗を探るために、王朝交代が起きたら、史書を書く。それを繰り返してきました。
崔杼弑君(さいちょしいくん)
これも中国の史書を貫く思想です。
春秋時代、崔杼(さいちょ)は主君である荘公を殺しました。
そこで歴史を記録する太史が
崔杼、其の君を弑(しい)す。
と、記したところ、怒った崔杼は太史を殺害。
すると後任の弟も同じように書き、これを聞きつけた別の担当者である南史氏も、同じ史実を書き付けて編纂の場に向かう。
なんとしてでも歴史を記録する!そんな強い意思を前にして、崔杼はとうとう改ざんを諦めてしまった。
断固として歴史を記す――そんな強い意思が中国では貫かれていました。
始皇帝の悪事として「焚書坑儒」があげられるのも、そうした意識のあらわれでしょう。
「中国で散逸した書籍が日本で見つかる」という現象はしばしばあります。
それを中国では往々にして「惜しいなあ、恥ずかしいなあ」と代々言い続けてきました。
歴史は保存すべきだという意識の裏返しととらえることもできます。歴史記録には実に深い信念があるのが、中国なのです。
中国発の大ヒットSF小説とそのドラマ化作品に『三体』があります。
あの作品の根底には、中国共産党最大の過ちとされる【文化大革命】の悲劇が流れています。
中国とは、なにがなんでも「中国共産党を誉めていればええ」という単純なものでもなく、【文化大革命】をハッピーな出来事として描いたら、どこかでストップがかかるでしょう。
中国では歴史を侮辱したドラマ、歴史認識に悪影響を及ぼしかねない作品は、歯止めをかけられます。
善悪の問題を説いてるのではなく、それが実際にあることです。
私の個人的体験として、中国の大河ドラマファンから「渋沢栄一を礼賛一色するドラマを作って、日本人としてありなの?」と問われ、答えに窮したことがあります。
隣国同士を比較することで、見えてくるものはある。
歴史書でも、ドラマでも、それを試してみるのも一興ではないでしょうか。
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文:小檜山青
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【参考文献】
倉本一宏『平安貴族とは何か』(→amazon)
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