大河ドラマ『光る君へ』で注目の「平安京」について、どんな印象をお持ちですか?
街全体を表すCGはクオリティが高いですし、街中に視線を持ってきても、散楽やら絵師(代筆屋)やら何やら楽しそう。
読んで字の如く「平和で安らかな京(みやこ)なんだろう……」というのが正解ではないことはご存知でしょう。
土煙の舞う地面に目を凝らせば、石ころは落ちていて、舗装もされていないから少し歩いただけで足元は泥だらけ。
郊外には死体が投げ捨てられ、川の中には死体が浮かぶ――劇中でのあの展開には「いったい平安京ってどんなとこ?」という想いが湧いてきた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
平安京を、もしも一人で歩いていたらどうなる?
他にも、同じような被害者はいた?
実際はどんな場所だった?
そんな疑問を解消するため、本稿では“平安京のリアル”について振り返ってみたいと思います。
平安京の治安はどうなのか?
平安京を出歩いて大丈夫なのか?
『光る君へ』の序盤では、まひろの母にせよ直秀一団にせよ、簡単に人が殺されていて「あまりに危険ではないか……」とゾッとした視聴者は少なくなかったでしょう。
現代人からすれば、中世の世界というのは実におそろしいもの。
公衆トイレ、コンビニ、舗装道路、蓋のついた側溝、街灯、交通標識……などなど便利なものは一切ない街は、実に危険です。
現代では考えにくい死亡状況もあり得る。
例えば、月あかりを頼りに夜道を歩いていたとしましょう。すると蓋のついていない側溝に転落してしまう。
どんな死因が考えられるか?
・溺死
・不潔な水により病気感染、病死
・安全な場所に辿り着けず凍死
現代人では考えにくいおそろしい状況が待ち受けています。
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死体が転がる平安京
週刊少年ジャンプの人気マンガ『呪術廻戦』に「呪胎九相図(じゅたいくそうず)」という呪物が登場します。
アイデアの元となったであろう「九相図」とは、美女が死に、だんだんと腐敗して骨になるまでの姿を描写したもの。
その思想背景については言及しませんが、注目したいポイントがあります。
死体が腐敗して、骨となるまでの様子を、当時の人が目にすることがあったからこそ、九相図という絵が存在したということです。
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平安京は死体が放置されることがしばしばありました。
しかも、犬や鳥が食い散らかす。
当時の貴族が気にすることは穢れです。もしも自邸に死体の一部が持ち込まれでもしたら、大事件です。しかし、彼らには死者を憐れむ気持ちすらあったかどうか。
例えば当時の孤児ともなれば物乞いでもするしかなく、いつか姿を消してしまう――そんな残酷な場所でもありました。
疫病でも蔓延すれば、ますます事態は悪化します。
至るところに死体が落ち、その始末は犬や鳥に任せるという、おそろしい事態を迎えました。
死体を悪用した事例もあります。
一条天皇の即位式の準備中、恐るべき事態が発生しました。
なんと高御座(たかみくら・天皇の玉座)の上に生首が置かれていたのです。
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一条天皇の即位により権勢を握る、藤原兼家に対する嫌がらせでしょうか。
その一報を受けた際、兼家は居眠りをしていました。
報告をした者が『この一大事になぜ寝ていられるのか……』と唖然としていたら、兼家は話が終わるとパチリと目を覚まし、テキパキと式の次第を指示したのでした。
つまり、聞いていないフリをして、即位を押し通したということです。
権力を前にしては、穢れを気にするという大義名分すら曖昧になる。
嫌がらせのためなら生首も調達できる。
『光る君へ』の劇中では、父の藤原為時がまひろの外出を止めようとします。
もし何かあって死んでしまったら、死体を食われてしまうかもしれない――そんな危険性を踏まえれば、親としては当然のことでしょう。
なんせ劇中では母ちやはが殺害されています。
糞便まみれの平安京
9世紀から10世紀にかけて、「平中」という名で知られるモテモテ貴公子がいました。
平貞文――在原業平と並ぶ伝説的な人物ですが、今では『あぁ、あの変態か……』と思われてしまう人物です。
そっけない美女を諦めるため、あの人の出したモノを拝んでやる!
そうして彼女の排泄物を得たものの、相手は先んじてお香を練り固めたものを用意していた、そんなお話です。
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注目したいのは、平中のフェチズムではありません。
当時のトイレ事情です。
樋箱(ひばこ)という携帯式トイレに捨てていたのであり、問題は、それをどう処理するのか?ということ。
現代人ならば、トイレに流しますよね。
江戸時代ならば、便所に集めて汲み取り業者に渡す。
では当時はどうか?
というと、そのまま専用の大壺といった容器に溜めます。こうした大壺を置いた場所が「廁」となります。
藤原道長は廁から戻るとき、滑って転んで前後不覚になったことがあったとか。さぞや強烈な臭いとともに悶絶したことでしょう。
こうして集めたものは、容器を洗う担当者(宮中では御厠人・みかわやうど)がそのまま水と一緒に流します。
では庶民はどうか?
したくなったら、したい場所で、気ままに排泄していたと推察されます。
鎌倉時代も終わり頃から、人の排泄物を肥料にするようになり、以降は価格がつくようになりました。
江戸時代ですと、金銭に直結する排泄物のため、営利目的の便器があったほどで、一定の秩序ができあがっていたわけです。
しかし、平安時代は排泄物は至るところにあるとご想像ください。
牛車の牛。
騎馬の馬。
そして犬も当然のことながら排泄します。
『光る君へ』でまひろが踏んでしまったのは石ですが、排泄物を踏みつけることも当然あるでしょう。
道長が町中を歩いたことを、藤原公任が「下衆」だと語る場面もあります。確かに排泄物まみれだと想像すれば、それも納得できますよね。
平時でもこうなのだから、河川氾濫があるとそれはもう大変。
当然、疫病が発生しやすい状態となってしまいます。
食糧事情もよいとは言えず
「肥溜め」なんて言うと、現代人の目には不衛生で非文明的と映るかもしれません。
しかし、エコロジー最先端の知恵ともいえます。
排泄物が金銭価値を生み出すからこそ、集め、回収する業者が成立。
江戸時代ともなれば、衛生観念だけでなく、ビジネスとしてトイレが成立するようになっていたのです。
こうして考えてくると、気になることはありませんか。
人間の排泄物を堆肥にする前、肥料はどうしていた?
というと灰や地中で腐らせた草等を用いていたのであり、人の排泄物を堆肥にすることは、重要な進歩であったといえます。
平安時代は、その進歩にまだまだ到達できておらず、必然的に穀物の収穫量も多くはない。
白米は非常に貴重な食糧であり、庶民は雑穀を口にするしかありません。
日本人は古来より稲作をして、米を食べていたという史実は、半分正解で半分不正解と言えるでしょう。
庶民まで米を当たり前のように食べるまでには、長い歳月がかかってきた。
だからこそ人々は「五穀豊穣」を願ってきたわけです。
野菜の種類も、当然のことながら多くはありません。
平安時代の「芋粥」はヤマイモを用いています。
意外なことに「レタス」は平安時代からありました。和名は「チシャ」です。といっても、現在の「レタス」と聞いて想像する球形ではありませんでした。
魚介類はどうか?
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、沿海部の坂東武者が魚を食べていました。
京都から見ると、あれは野蛮な話。
内陸部の京都は、新鮮な魚介類とは無縁の地域です。
父の赴任先の越前で味わったのでしょう。紫式部はイワシを好むと同時に、そのことを隠してもいました。
宮中は、地方グルメを理解できないどころか、腐敗する印象がつきまとい、オシャレな食べ物でもなかったのでしょう。
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『鎌倉殿の13人』では、坂東武者が狩りをしながら、しし鍋(イノシシ鍋)を食べていましたが、あれも京都からすれば蛮族の食文化です。
では鶏肉は?
『光る君へ』では、兼家が美しい鶏を飼育しています。
あの肉を食べるなんてとんでもない! 鶏は朝を告げる大事な存在であり、殺せば残酷だとみなされます。
肉はダメでも卵なら食べられるのか?というと、これも仏教の発展とともに避けられてゆきます。藤原実資は「卵を食べることをやめた」と『小右記』に記載していました。
漢字で「鶏」と「鳥」は別物です。
鶏はニワトリ、鳥は野鳥や小鳥の類をさします。となると、こんな発想になります。
鶏はダメでも、鳥なら食べてもいいか……と。
そのため、日本では「鳥肉」「焼き鳥」という表記をします。むしろ今は「鳥」ではなく「鶏」なのに、表記は残ってしまったのです。
ゆえに中国の人から見ると「えっ、あんな可愛い小鳥たちを焼いて食べているの?」とギョッとしてしまうとか。
現在、福島県会津地方には「会津地鶏」という名物があります。
なんでも平家の落人が連れてきた鶏の子孫だとか。
大変美味しい肉で有名ですが、平家の貴公子たちは寂しさを慰めるペットとして持ち込んだのでしょう。のちに地元の人々が、「食べたら美味しいじゃないか!」気づいたのだと思われます。
仏教が定着していた平安京では肉食が廃れる一方、乳牛はいて、醍醐等の乳製品は食べられていました。
遣唐使が派遣された唐では北方の遊牧文化を取り入れ、乳製品を食す習慣を取り入れていたので、それを輸入したのでしょう。
ちなみに中国の場合、北方は乳製品、南方は茶がメジャーな飲料でした。
日本へも茶は輸入されていますが、栽培ができなかったため普及には至りません。抹茶の普及は、鎌倉時代の栄西まで待たねばならない。
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さて、こんな食事場で、果たして十分な栄養は摂取できたのか?
というと現実的には大変厳しかったと推察できます。
そもそも味はどうなのか? ちょっと冷静に考えてみましょう。
中世の宴会は、儀式の意味もあります。
食べても美味しくないものでも、儀礼として並ぶことがあるのです。
「そんなもんめんどくさい。純粋に食べたいうまいモンだけでいいじゃない!」
こういう発想の転換はまだまだずっと先のこと。織田 信長からやっと味重視へと変わりました。
日本は宮中料理が発達していない例外的な食文化圏です。
平安貴族や宮中の食卓は、洗練される前に権勢と財力が失われ、江戸時代ともなれば、公家は質素な食事となっていました。
では武士は?
というと、織田 信長や豊臣 秀吉は、豪華な珍味をこれみよがしに食べておりました。
徳川 家康も、その後の将軍も、それなりにグルメです。
しかし徳川 吉宗の時代ともなれば、財政の引き締めにかかり生活はガラリと一変。
将軍への献上品すらコスパ重視で廃止され、食事は極めて質素なものとなります。
大名や武士も同じく質素となってゆき、豪華な珍味は大商人が楽しんでいました。
江戸っ子がファストフードとして楽しむ屋台の天麩羅など、池波正太郎作品でおなじみの下町グルメも発達しています。
琉球や韓国には、華やかな宮廷料理があります。
中国の満漢全席は豪華の極み。
一方で日本は、庶民のグルメだった寿司や天麩羅が代表格ですよね。なかなか面白い食文化なのです。
現物支給で生きる人々
『光る君へ』は、食事が細かく再現されています。
貧しい藤原為時の家は粗末な一方、藤原兼家の食事は本当に食べ切れるのか?と思うほど大量の膳が運ばれていきます。
あれを見る限り、なかなか美味しそうで。
平安時代の人は大食いなのか?と思うかもしれませんが、そう単純な話でもなく、あれは食べ残すことが前提です。
食べ残した食事は捨てるのではなく、使用人たちがおいしくいただきます。
当時は貨幣もなく、使用人たちは現物支給により勤務先を決めていて、恩義が定着するまで長い時間がかかります。当時の使用人は、金の切れ目が縁の切れ目そのものといえました。
この「偉い人は下々のものにごちそうしよう!」という慣習が、鎌倉幕府では「旅館振舞」(はたごふるまい)といった、わけのわからぬ悪習となりました。
要するに、坂東のワイルドな人々は御家人に向かって「宴会やりますよね!」と押しかけていたのです。
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当時は貨幣がないっていうけど、和同開珎があると習ったのだが……と思う方もおられるでしょう。
あれは唐を模倣し、国家としての体裁を整えるために造ったものであり、いわば狭い地域の限定クーポンのようなものです。全国的には使えません。
そんな状況の日本に南宋から銅銭を取り入れたのが、平清盛ということになります。
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ゆえに短命だ
平安時代の歴史を見ていると、あっさり人が亡くなっていることがわかります。
紫式部自身も「女は長生きしないもの」と書き記しています。女性の場合は妊娠出産による死のリスクが高かったからです。
男性も、ストレスが溜まったと思ったら、亡くなっていることが往々にしてあります。
藤原道長にせよ、権力者の頂点に立てたのは、二人の兄に対し、長生きできたことが大きい。
そんな道長の持病は糖尿病です。
栄養バランスが悪い当時、白米を食べ続ける貴族は罹患しやすい状態であったのでしょう。
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逆説的に言えば、そうした慢性的な病気に悩まされる程度まで、道長は長生きできたということです。
人間関係でストレスが溜まりやすいうえに、栄養状態も悪い。
平安貴族はなかなか大変な世界を生きていました。
決して優しいとは言えない平安京。
それでも当時の貴族からすれば、地方はありえないほど野蛮な土地でした。
地方よりはマシかもしれない。
海を超えてよくわからない船も来るし、武士だの盗賊だのいるわけだし、そんな地の果てに左遷されたらおしまいだとみなしつつ、生きていたのでした。
優雅なようで、実は困難な日常が待ち構えている――それが紫式部の生きた時代でした。
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【参考文献】
安田政彦『平安京のニオイ』(→amazon)
繁田信一『殴り合う貴族だち』(→amazon)
繁田信一『王朝貴族の悪だくみ』(→amazon)
山本淳子『源氏物語の時代』(→amazon)
藤川桂介『暮らしの歴史散歩 生き生き平安京』(→amazon)
他















