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【藤原道兼】
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花山天皇を唆す
兼家の息子たちも、こうした動きは当然のことながら気にします。
父の寵愛と政治権力を競う彼らにとって、手っ取り早い道筋はありました。
花山天皇を追いやるべし――。
花山天皇は、よくいえばナイーブ、悪くいえば情緒不安定だったとされます。最愛の女御・藤原忯子(しし/よしこ)を失って以来、鬱々たる日々を送っていました。
そこに蔵人である藤原道兼がつけ込みます。
仏の教えを説き「いっそ出家してはどうか?」と語るだけでなく、「そのときは私も供をする」とまで言われ、花山天皇も心を動かされます。
かくして寛和2年(986年)6月23日、丑の刻――道兼に手引きされ、花山天皇は密かに内裏から抜け出しました。
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道兼は花山天皇を元慶寺まで連れて行き、剃髪を促しながら、こう告げます。
「父に出家前の姿を見せてからここへ戻ります」
瞬間、花山天皇はハッとします。
騙されたっ!
しかし、時既に遅し。チームプレイを発揮した兼家一家は、長兄の道隆が東宮即位の準備をテキパキと進めてしまいます。
翌日、道兼にとっては従兄でありライバルにあたる藤原義懐(よしちか)と権左中弁・藤原惟成(これしげ/これなり)が元慶寺にやってきました。
そして剃髪した花山天皇を見ると「もはやこれまで……」と悟り、彼らも出家。
花山天皇とその側近たちは、かくして藤原兼家と息子たちによって次から次へと内裏から遠ざけられてゆくのです。
その中には、漢籍教養を誇りにする藤原為時もおりました。
つまり、劇中で兼家のスパイをさせられていた為時は、ここで酷い裏切りに遭うという設定でした。
「七日関白」
花山天皇が唆(そそのか)されて譲位し、懐仁親王が即位して一条天皇へ――。
一連の政変を【寛和の変】と言い、そのMVPは何といっても汚れ仕事を請け負った藤原道兼でした。
父の藤原兼家は我が子の功に報います。
道兼は同年7月に参議となったのを皮切りに、10月には従三位権中納言へ出世。
さらに11月に正三位、永延元年(987年)に従二位、そして永祚2年(989年)には正二位・権大納言と順調に昇進を重ねてゆきます。
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しかし、正暦元年(990年)に父の兼家が病で没し、兄の藤原道隆が関白となると、道兼は一気にふてくされます。
全ては自分の汚れ仕事あってのものなのだ! なのになぜ美味しいところは兄に持っていかれてしまうのか!
あてつけのように遊び呆ける道兼ですが、道隆は何も弟を蹴落とそうとしていたわけではありません。
道兼は正暦同2年(991年)に内大臣となり、正暦5年(994年)には右大臣へ昇進するのです。
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すると、にわかに風向きが変わり始めました。
当時は医学が未発達で、寿命の短い時代。長徳元年(995年)に藤原道隆は重病(飲水病=糖尿病)に伏せってしまうのです。
道隆は自身の嫡男・藤原伊周(これちか)を関白に望むものの果たされず、道兼が跡を継ぐことに。
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粟田に山荘があった道兼は「粟田関白」と称され、いよいよ自分の時代が来たと内心小躍りしたことでしょう。
ところが、です。
なんという運命のいたずらなのか。道兼は念願の関白になって程なくして、流行病に倒れて没してしまうのです。
享年35。
あまりに短い関白の座ゆえ、道兼は「七日関白」という異名で呼ばれることになりました。
当時の価値観からするとこうなります。
花山天皇を陥れた祟りである――。
なるほど、祟りと指摘したいのは当時のいかにもな話ですが、実際はそう言い切れないでしょう。
そもそも花山天皇を出家させなければ、藤原兼家の息子たちが順当に出世できたかどうかは不明。
道兼の弟が大出世するのも妙な話です。
いうまでもなく藤原道長です。
最大のライバルとなる兄二人が病没したことにより、この道長は華々しい座に座ることとなったのであり、かなりの強運の持ち主といえます。
道長は、祟りなど微塵も感じなかったことでしょう。
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