万寿4年(1027年)6月13日は源俊賢の命日です。
道長の妻である“源明子の兄”と言い換えたほうがわかりやすいでしょうか。
大河ドラマ『光る君へ』では妹の明子と道長に便乗して出世を企む――当初は小賢しい人物のように描かれていましたが、いざ道長が頂点に立つと、徐々に印象が変わってきました。
こやつ……意外と使える男なのではないか?
というのも劇中では、出仕を拒んでいた藤原伊周と藤原隆家を上手く丸め込んで説得するなど、道長の補佐を如才なく務めているように見えるのです。
名門の生まれだけでなく、幼い頃から苦労を重ねてきただけに、もしかしたら心情の機微に敏感なのかもしれません。
では、史実における源俊賢とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
悲運の父・源高明の子
登場人物の名前が通称で記される『源氏物語』。
例えば主人公の「光源氏」は「光り輝くような賜姓皇族源氏」という意味であり、そのモデルは一体だれだったのか?
実際は藤原道長など複数いるとされますが、天皇の子である源氏となると数が絞られてきて、この条件に該当する人物が源高明です。
醍醐天皇の第十皇子であり、貴人の相を持ち、聡明で学問に通じて、壮麗な豪邸に暮らす――まさしく高貴な血を引く貴公子でした。
しかし、この源高明は、突如失脚します。
安和2年(969年)に起きた【安和の変】によって藤原氏との政争に敗れ、政界から追い出されるのです。
※以下は安和の変の関連記事となります
『光る君へ』道長の妻となる源明子が兼家を呪う理由は【安和の変】にあり
続きを見る
光源氏は、須磨に流されても後に復帰できましたが、源高明はそれよりはるかに遠い九州の筑紫であり、復帰は叶いません。
そんな高明のもとに、まだ11か12ほどの幼い息子が付き添っていたとされます。
天徳4年(960年)に生まれた高明の三男、元服前の源俊賢です。
学問を好む父の方針により、俊賢は大学でも学び、学問に打ち込みました。
この父と子の教育方針は、『源氏物語』の光源氏と夕霧父子のようにも思えます。
父を追いやった藤原氏の庇護下に入る
藤原氏が源高明の失脚を目論んで起きた【安和の変】。
源俊賢の生涯を振り返る上で欠かせない事件でもありますので、少しだけ詳しく振り返っておきましょう。
康保4年(967年)に即位した冷泉天皇は体が弱い上に、子供がいませんでした。
ならばできるだけ早いうちに東宮を決めなければならない。そこで候補に挙げられたのが
・為平親王(妃の父が源高明)
・守平親王(藤原師輔の子である安子が母)
こちらの二人であり、この対立構造に敗れて源高明は失脚したのです。
守平親王が即位して訪れた円融天皇の御代。
源俊賢にしてみれば父の仇である藤原氏の時代でもあり、簡単に言えば敵対勢力――と、そんなことを考えても仕方ないと割り切ったのか、驚くことに俊賢は出世ルートを歩んでゆきます。
それはザッと以下の通り。
・天延3年(975年)従五位下に叙爵
・貞元2年(977年)侍従任官
・永観2年(984年)従五位上、左兵衛権佐叙任
・寛和2年(986年)左近衛権少将
十代半ばから二十代半ばにかけての十年間で順調に出世。
なぜ、こんなことになったのか?
失脚したばかりの父を持ちながら、これは不思議なことです。
そこに見えてくるのが藤原兼家の影。
円融天皇には、兼家の娘である藤原詮子と、兼家のライバルともいえる藤原頼忠、その娘・藤原遵子が入内していました。
詮子が皇子を産んでリードするのですが、中宮とされたのは遵子です。
そんな情勢の中、兼家としては手駒を増やしたい。
源高明の遺児である源俊賢と源経房の兄弟はうってつけだったのでしょう。
さらに、藤原詮子は源高明の娘である源明子を、弟・藤原道長の妻として勧めています。
高明の遺児たちが父の悲運を覆すため、藤原兼家とその子らに引き立てられることは、一見屈辱でありながら同時に他にない貴重な道筋でもありました。
※続きは【次のページへ】をclick!